第2話 色の揺らめき

 次の日は土曜日で、いつもなら一日中部屋でぼーっと過ごしているのだが、今日は何となく土手に行くことにした。もう夏を味方につけ始めた午後の日差しが、Tシャツからはみ出した腕を容赦なく刺してくる。途中でペットボトルのスポーツドリンクを買い、昨日と同じあたりに行ってみると、あの少女がまたいるのが見えた。


 海はしばらく離れたところで立ちすくんでいた。座ればいいものを、なぜ座らないのか。迷っていた。また少女の絵を見てみたかった。緑と黄色のふわふわしたタッチの絵。抽象画というのだろうか?絵のことはよくしらないし、興味もなかった。だが、あの絵がずっと頭から離れなかった。


 どれくらいそこに立っていたのだろう?ずいぶんと長いこと迷って、海は少女の方へ足を向けた。


 少女の斜め後ろまで来て、何て声をかけようかと考えているうちに、少女が振り向いた。


「あ、昨日の・・・」


 小さな声でそう言って少女はにっこりと微笑んだ。昨日は顔なんかろくに見ていなかったが、細っそりとした色白で透き通った目が印象的な子だった。長めの髪を一つに束ねている。少し疲れた顔をしていた。


「昨日はありがとうございました」

「あ、いや。。。こちらこそ」

「こちらこそ?」


 少女はクスクス笑った。


「良かったら、どうぞ」


 少女は持ってきていた新聞紙を広げて、海に座るように勧めた。


「あ。。。ありがとう」


 海はそう言って、少女が敷いてくれた新聞紙の上に座った。


 隣に座る少女は、この日差しの中、汗ひとつかかずに、この時期には不釣り合いな厚手の長袖シャツと長ズボンを着ていた。日焼けしないためだろうか。


 ついそんなことを考えながら、長いことずっと見つめてしまっていたらしい。少女が少し気まずそうに、しているのを感じて目を逸らした。


「絵が好きなの?」


 海は聞いた。少女は少し目を見開くと、またクスクス笑った。


「絵を描くの、好きです」


 いつまでも少女が笑っているので、


「どうして笑うの?」


 と、海は聞いた。

少女は笑いながら、横目でチラッと海を見て、


「あんまり真っ直ぐな人だから」


 思ってもみない返答に、すぐには意味が理解できなかった。それがとても好意的な意味であることも、海には伝わっていないだろう。


 少女が、そうだ、と、持ってきていたカバンから、ゆっくりと弁当箱を取り出して蓋を開け、海に差し出した。


「こっちも良かったら、どうぞ」


 差し出された弁当箱には、サンドイッチがきれいに詰められていた。昼食は食べてきていたが、遠慮なくいただくことにした。


「・・・ありがとう。いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」


 弁当箱の前でどれにするか少し迷って、たまごサンドを選んだ。


「私もたまごサンド、好きです。あ、あの、私、結城琴子ゆうきことこといいます」


 海はたまごサンドを頬張ってしまって、すぐには返答できず、あまりかまないまま飲み込んだ。


「あ、えーと、高柳海」

「カイくん。どういう字?」

「うみ、で、カイ」

「わぁ。。。いい、名前。蒼だと思った。とっても合ってる」


 名前をこんなに真っ直ぐに褒められたことがなかったので、なんとなく照れくさい気がした。


「コトコはどんな字?」

「楽器の琴に、子どもの子」

「琴。。。きみも、響きに強そうで合ってる」

「響きに強そう? 初めて言われた」


 そう言って、また琴子はクスクス笑った。


 風がすーっと二人の間をすり抜けた。今日は昨日より爽やかな風だった。しばらく二人とも無言でサンドイッチを食べたが、不思議と嫌な感じはしなかった。


 海が無言でいると大抵の人は気まずくなって離れるか、間を埋めようとやたらと話したてたりする。そんな人たちは決まって、海の目の前にいるのに海を見てはいなかった。話していても伝わっていないなら、その時間はいったい何のためにあるのだろう。何のために自分はそこにいるのかと思う。


 琴子はサンドイッチを食べながら、土手を行く人たちの様子を見ていた。海が隣にいることなど、忘れてしまっているかのように自然にそこに座っていた。時々、琴子はふぅ、とため息をつく。海はそんな琴子を横目で見ていた。また気まずくさせないように、こっそりと。


暑さのせいか最初に見た時より、顔色が悪い気がした。長袖、長ズボンではっきりとはわからないが、かなり細身に見える。髪は長く、よく手入れをしているという様子ではないが、ざっくりと結んだ感じがさっぱりした印象を与えている。特に印象的なのは、やはり瞳だった。透き通った水が丸く固まったような、魔法の水晶玉のような、心を見透かされそうな輝きがある。


サンドイッチを食べ終えると、琴子はまたふぅとため息をついて、弁当箱をしまい始めた。


「絵の続きを描いてもいいかなぁ?」

「うん。もちろん。見ててもいい?」

「いいよ」


ゆっくりと準備をして、スケッチブックを膝の上に広げた。そしてまた一息つくと、


「今日はもうあんまり描けないかな。。。」


と、ポツリと言った。


確かに今日はずっといるには日差しが強すぎる。琴子の様子だと、熱中症になりかねない。そうは思うが、琴子の絵を描くところを見ていたいとも思った。


琴子の描きかけの絵は昨日と同じものだった。昨日、海が拾ったときより、色の深みが足されて、立体感があるように感じられた。でもそこにあるのはやはり、景色ではない。色の揺らめきのうよなもの。螺旋がくるくる回るような、波紋が広がって溶けていくような、動きを思わせる絵だった。


「これは、ここの景色?」


海は尋ねた。


「そう。景色というか、ここの空間の色と形。見えてるものと見えていないもの、両方が響き合っているの」


そういうと琴子は恍惚とした表情で、目の前の空間を眺めていた。


「本当に美しい。。。」


琴子にはこの景色はどんなふうに見えているのだろう。海には普通の土手にしか見えないこの風景も、琴子には「本当に美しいもの」として、その目に映っているのだ。海はその目を通して見てみたいと言った。


「私ね、色が踊っているように見えるんだ。今日みたいな日は、いろんなところで色が跳ね回ってるの。ふわふわしてる時もあるし、くるくるしてる時もある。でも例えば悲しいことがあったところなんかは、色がべったりまとわりついて、ドロドロと重く見えるんだ」


琴子はスケッチブックに目を落として、


「そういうのを紙に焼き付けたいのに、全然できないの。ちっともあんな風に描けない。動き回る色たちをここにつかまえられたらいいのにって思うんだけど」


そう言って、まるでその色たちに、描けなくてごめんねと、謝っているかのように、琴子は眉をひそめた。


「色、ここに息づいてると思うよ」


そう言いながら、海は自分が感じていることをちゃんと言葉にできないことに、悔しさなのか、苛立ちなのか、悲しさなのか、今まで感じたことのない感情を体験していた。そういう色を感じられていることを、もっとちゃんと伝えたいのに、言葉がつかまらない。海は手をぎゅうっと握りしめた。


琴子は海をじっと見つめて、


「・・・ありがとう」


と、一言答えた。こわばっていた表情がふっと緩み、また琴子は小さくため息をついた。途絶えていた周囲の音が聞こえ始めていた。


「僕はどんなふうに見えるんだろう・・・」


海は小さくつぶやき、握りしめてついてしまった爪のあとが残る手のひらを見つめた。きっと、黒い色がべったりと張り付いてしまっているのだろうと思った。


「今日はもう帰ろうかな」


と、琴子はスケッチブックをパタンと閉じた。

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