25 転機

 まだまだ冷え込む二月。俺は早足で帰宅した。こんな日は兄の温もりが恋しい。部屋に入ったらすぐに抱きしめてもらおうか、などと考えながら玄関のドアを開けると、知らないスニーカーがあった。また誰か呼んでいるのか。


「あーちゃん……?」


 キッチンに、兄の他に、何だか見覚えのある男性が立っていた。


「おかえり静紀! ちょうど良かったよー!」

「えっ……?」

「あのね、お弁当屋さんの原田はらださん。母さんのこと知ってるんだって!」

「えっ、ちょっと待って、どういうこと?」


 原田さんが兄の肩をポンと叩いた。


「嵐士くん、順を追って話さないと。どうも、原田です、静紀くん。食べながら話そうか」


 兄と原田さんが作っていたのは……ナポリタンだった。今すぐ質問攻めをしたい気持ちを抑えつつ、俺は椅子に座った。しばらくして、綺麗に盛り付けられたそれが俺の前に置かれた。


「わあっ……」


 この匂い。間違いない。母だ。兄と原田さんも座った。原田さんがにこやかに言った。


「さあ、召し上がれ」


 俺はゴロゴロと入っていた輪切りのソーセージに真っ先にフォークを刺した。一気に口に放り込み、噛み締めた。


「美味しいっ!」


 原田さんは、ゆっくりと語りだしてくれた。


「嵐士くんが、うちの店にきて、パスタの味付けを教えてほしいって言ってきてね。わけを聞いて、名前を聞いたら、福原さんだっていうじゃないか……」


 なんと、原田さんは、母が大学生時代に食堂でアルバイトしていた時の調理師だったらしい。その時に原田さんが、ナポリタンのレシピを母に教えたのだとか。

 母は大学卒業と同時に食堂を辞め、その後のことは原田さんも知らなかったとのことだった。


「まさか、お亡くなりになっていたなんてなぁ。でも、こんな立派な息子さんを二人も遺して……」


 兄がぶんぶんと手を振った。


「立派なのは静紀だけですよぉ。僕、無職のまんまだし」

「うん……その話も聞いた。嵐士くんも苦労してきたんだね」


 俺は口を挟んだ。


「それで、わざわざ作り方を兄に教えて頂いていたんですか?」

「ああ、そうだよ。手際がいいね。いつも料理は嵐士くんが作っているんだって?」

「ええ、兄に任せっぱなしです」

「それでだ。嵐士くん、うちの店にアルバイトに来てくれないか」


 俺も兄も、反応できずに固まってしまった。少しして、遠慮がちに兄が口を開いた。


「その……寝坊が原因でクビになった話、しましたよね……僕、そんな奴なんです」

「福原さんの息子さんなら、多少は大目に見るよ。それに、そんなに早い時間じゃない。毎日でなくていいしね」


 原田さんは本気だ。こんなチャンス、逃すわけにはいかない。俺は身を乗り出した。


「ぜひ、お願いします! なるべく寝坊しないよう、生活は整えさせます!」

「うんうん。うちもお客さんが増えてきて、手が回らなくなってきたからね、募集しようとていたんだよ。だから私としても嬉しいんだ」


 やっと、兄の働き先が決まった。しかも、母のことを知ってくれている人が雇ってくれるのだ。これは母が巡り合わせてくれたのだろうか。

 そして、原田さんは、大学生時代の母のことを話してくれた。とてもテキパキ働く明るい女性だったらしい。食堂でも人気者で、辞める時はお客さんたちから残念がられていたのだとか。そんな話を聞いて兄が言った。


「じゃあ、静紀は母さんに性格似たんだねぇ」

「そうかなぁ?」


 すると、原田さんがこう返した。


「嵐士くんが調理している時の表情は、お母さんそっくりだったよ。二人とも似ているんだよ」


 兄は珍しく、恥ずかしそうに目を伏せた。

 最後に、形の上では履歴書を出しておいてほしいと原田さんが言い、連絡先を交換して、彼を見送った。


「あーちゃん! おめでとう!」


 盛り上がる俺とは対照的に、兄はどこか浮かない顔をしていた。


「ん……でも、続くかわかんないしさぁ」


 俺は兄の手を握った。


「大丈夫だよ、あーちゃんなら。得意なこと活かせるんだし、きっと自信になる」

「うん……とりあえずは、やってみないと、だよね」


 兄はきゅっと俺に抱きついてきて、そのまま押し黙った。


「……あーちゃん?」


 鼻をすする音がした。俺はあえて何も言わなかった。ポン、ポン、と背中を軽く叩き、落ち着くのをひたすら待った。

 俺から身体を離した兄は、目は真っ赤だったが、大輪の笑顔を咲かせた。


「僕……素直にさ、嬉しいよ。僕のことを必要としてくれてる人がいた。良かった。良かったよぉ」


 その日の夜は、祝杯をあげて、たっぷりと触れ合ったのは言うまでもない。

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