18 風邪

 その夜、甘ったるい行為を終えた後、兄は裸のままぼんやり天井を見つめていた。


「あーちゃん、服着なよ。風邪ひくよ」

「大丈夫。僕、大人になってから一回もひいてないもん」

「今夜は冷えるって」

「めんどくさい……」


 そう言って毛布にくるくるとくるまってしまった。俺はきちんと服を着て、兄の隣で眠った。

 そして、翌日。


「……静紀、頭痛い」

「ええ……?」


 兄の額に手をあててみると、熱があるのは確実のようだった。


「一応、はかってみようか……」


 体温計の数字は三十八になっていた。俺はとりあえず鎮痛剤と風邪薬を持ってきた。


「これ飲んで」

「錠剤苦手……」

「頭痛いんでしょ。そんなこと言ってる場合?」

「うう……」


 渋々薬を飲んだ兄は、のっそりと服を着て横たわった。


「俺仕事だからさ……キツいようなら内科行くんだよ。できるだけ早く帰って来るから」

「うん……」


 今日はお弁当作りはできまい。久しぶりにコンビニのサンドイッチを買った。そのことに和哉さんは目ざとくて、昼休みに聞かれた。


「今日お弁当じゃないんだ」

「ええ、兄が風邪をひきまして。早く帰ってあげたいんですよね」


 そんな日に限って仕事のキリが悪かった。定時をこえ、八時になり、俺は会社を出るなり兄に電話した。


「あーちゃん、具合どう?」

「頭は痛くない……でもだるい……」

「何か食べた?」

「ゼリーだけ……」

「夕飯適当に買ってくるよ」


 家の最寄駅まで着き、コンビニに行こうと思ったのだが、その前に弁当屋が目についた。こんなところあったっけな。俺は試しに入ってみることにした。

 そこは、入ってすぐカウンターがある本当に狭い店で、一応待つための椅子が二脚あった。本日のオススメはコロッケ弁当。副菜も二種類入っているし美味しそうだ。俺はそれを二つ注文した。

 店員は初老の男性だけのようだった。彼が注文を取り、会計をして、調理場で揚げ物をしていた。作りたての方が兄も喜ぶだろう。味はまだわからないが、美味しければまた通ってもいいかもしれない。

 俺は弁当を持って早足で帰宅した。


「ただいま、あーちゃん。お弁当買ってきたよ。食べれる?」

「うん……おなかすいた」


 兄の額にもう一度手をあてると、まだ熱がありそうな感じだった。


「とにかく食べて、薬飲んで、寝て。明日は俺休みだし、続くようなら内科連れて行くから」

「お医者さんこわい」

「もう……」


 俺たちは弁当のフタを開け、香りをかいだ。


「わあっ、静紀、ほっかほかー」

「初めて行った弁当屋なんだけどね。味はどうだろう」


 俺はまずコロッケに箸をつけてみた。


「うん……美味しいね」

「揚げたてだよね? サクサクしてる」


 ひじきの煮物は濃すぎずちょうどよく、いんげんの白あえも上品な仕上がりだった。そして、コロッケの下に敷いてあったパスタを食べてみたのだが……。


「あーちゃん、パスタ食べてみて」

「えっ? うん」


 俺と兄は顔を見合わせた。


「母さんの味だ!」

「だよね、あーちゃん!」


 この弁当の中では端役もいいところだろう、このパスタは。それが最も衝撃的な味だったのである。


「僕、上手く言えないけど……凄く懐かしいよね?」

「甘さのバランスといい、パスタの太さや固さといい、母さんのナポリタンそっくりだよ」


 俺は箸袋に書かれていた店名を見た。「キッチンはらだ」とあった。俺はそれを検索してみた。どうやら先週できたばかりの店のようで、口コミは特に投稿されていなかった。


「静紀、ここのお弁当もっと食べてみたい!」

「しばらく、あーちゃん身体キツいだろうし、明日も買ってみようか」


 思わぬ収穫で兄も気楽になったのか、顔はほころんでいたが、やはり倦怠感が強いようで、薬を飲ませてベッドに連れて行った。


「うーん……昼間寝てたから眠くないや」

「俺は風呂入ってくる。目ぇ瞑ってるだけでも違うっていうからさ、そうしなよ」


 兄と一緒じゃないのならシャワーで十分だ。さっさと身体を洗い、戻ってくると、兄は俺の言いつけ通り目を閉じていた。


「あーちゃん……寝た?」

「起きてる……何かお話しようよ」

「そうだな……」


 俺は母と三人で行った動物園の話をした。桜が咲く頃になると、お弁当を持って毎年行っていたのだ。遊園地も併設されていて、子供向けの小さなジェットコースターに乗った後、観覧車で園内を眺めるのがお決まりだった。兄が言った。


「やっぱりさぁ、思い出深いよね、桜は……」

「うん。悲しい思い出に上書きされちゃったけど……本当は、子供の時の楽しいこともたくさんあった」


 また、季節は巡り、花は咲くのだろう。


「あーちゃん、春になったらお花見する?」

「いいね。和哉くんと直己くんも呼ぼう」

「どこかいい場所ないか調べとくよ」


 そんな話をしていたら、俺の方が眠くなってしまった。本当は兄が寝るのを見届けたかったのだが、すっかり落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る