11 時計
俺は夏が嫌いだ。寒さは着込めばなんとかなるが、暑さはどうにもできない。しかし俺が生まれた季節でもあった。七月二十日。もうすぐ二十八歳になってしまう。
兄は相変わらずだった。ネコのようによく眠り、起きたかと思えばゲームかタバコ。掃除機もかけなくなった。この辺りで立場をわからせてやろうと思い、兄とリビングで向かい合って話し始めた。
「あーちゃん。そろそろ本当に働いて。週に何日かだけとか、そんなんでもいい。今、けっこうお金厳しいんだからね。それなのにタバコもスパスパ吸うし。自分にできることは何なのか、よく考えて」
「はぁい……」
さすがの兄も思うところがあったのか、掃除機をかけ始めた。そして、スマホとにらめっこをしていたので、ようやくその気になったかと安心した。
それから数日後、昼休みに兄から連絡がきていた。友達と飲みに行って泊まってくるとのことだった。別に交友関係まで咎めることはない。了解、とだけ返した。
兄の居ないベッドはだだっ広くて、俺は手足を伸ばして深呼吸をした。このところ、兄の呼吸や体温を感じながら眠るのが当たり前になっていたから、心細くて仕方がなかった。
翌日は休みだったので、ぼんやりコーヒーを飲みながら兄の帰りを待った。いくらなんでも昼食までには戻るだろう。そう思っていたのである。
鍵が開く音がしたので、俺は玄関に行った。
「ただいまぁ」
「おかえり、あーちゃん……?」
兄の首に……縄の痕があった。俺はそこに触れた。
「あーちゃん?」
「ああ、これ? 何でもないよ」
よく見ると、首だけではなく手首にも痕があった。
「ちょっと、昨日何してたの!」
「あっ、うん、何でもないってば」
俺は寝室に兄を連れ込んだ。
「脱いで」
「うん……」
兄の身体には無数の痕が走っており、尻は真っ赤に腫れていた。俺は兄をぎゅっと抱き締めた。
「あーちゃん……隠さないで。何してきたの」
「えっとね、昔のお客さんでそういう趣味の人が居てさぁ……」
「何で会ってきたの」
「自分にできること、考えたら、やっぱりこれしかなくて」
俺はボロボロ涙をこぼしていた。兄は指でそれをすくい取ってくれた。
「ほら、もうすぐ静紀の誕生日じゃない? プレゼントあげたかったの」
そして、カバンから包みを取り出してきた。俺は震える手でそれを開けた。腕時計だった。
「こんなことされても……嬉しくない……」
「えっ、ダメだった? 他のがよかったかな?」
「そうじゃない、そうじゃないんだよ、あーちゃん……」
元はといえば俺の一言だ。兄なりに考えた結果がこれなのだ。
「いい、あーちゃん。俺はあーちゃんが酷い目に遭うのは嫌なの」
「痛かったけど、慣れてるし平気だよ」
「身体を傷つけてほしくないの」
「まあ、お湯につかればとれるよ」
「何でわからないの? 何であーちゃんはそうなの?」
俺は嗚咽を漏らした。兄はポン、ポン、と俺の背中を叩いてくれた。
「ごめんね……静紀が喜ぶと思ったからしたことだし、何で悪かったのかよくわかんないんだ……」
兄は本当にわかっていないのだろう。どう説明すればいいのかわからなくなってしまったし、とりあえず俺はバスタブに湯を張り、一緒に入った。
「とにかく……昨日の人のとこにはもう行かないでね」
「うん、わかった。まさか静紀が泣くとは思わなかった」
兄の身体をさすり、早く消えるように願った。こんな痛々しい姿、見ていられない。
「時計は大事にするよ。ありがとうあーちゃん」
「よかったぁ!」
このことは、会社の喫煙所で安田さんにも話した。
「嵐士のことは天然だと思ってたけど……やっぱり何かあるのかもな。検査とか受けさせた方がいいんじゃないか」
「そうですよね……」
俺は煙を吐き出し、左腕につけた時計を眺めた。シルバーで嫌味のないデザイン。俺の好みだった。
「静紀、誕生日おれも祝ってやるよ。三人で飲みに行こう」
「いいんですか? じゃあお言葉に甘えて」
当日は、ちょっといいフレンチの店でシャンパンを開けた。もちろん安田さんの奢りだ。
「静紀の好きなの注文しろよ」
「はい、ありがとうございます」
「僕、ローストビーフ食べたい」
「嵐士……今日は静紀の誕生日だってば」
「いいよ、あーちゃん。それ頼もう」
腹いっぱい頂いて、店で安田さんと別れた。兄はすっかりできあがっていて、俺の手を繋いでフラフラと歩いた。
こんな風に誰かに誕生日を祝ってもらうのは久しぶりだった。手から伝わる兄の温もりが愛しくて、玄関で靴も脱がずにキスをした。
「静紀ぃ……好きだよ」
「うん……あーちゃんのこと、大好き」
腕時計を外して靴箱の上に置いた。兄の検査のことはきちんと考えていた。近いうちに予約しよう。けれど、今夜は。
「あーちゃん、沢山して」
「ふふっ、いいよ」
長い黒髪を耳にかけさせ、頬にもキスをして、俺は兄にのめり込んだ。
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