07 焦り
安らかに眠る兄の髪を撫でてから出勤した。聞けていないだけで、過去にはもっと色んなことがあったのかもしれない。それを知ってしまうのがこわかった。
会社の喫煙所に行くと、安田さんと出くわした。
「えっ? 福原くん吸ってたっけ」
「やめてたんですけどね……吸わなきゃやってられなくて」
兄と関係してしまったという重大な秘密は伏せ、兄がまだ居座っていること、しかし一人にさせるのも不安なことを話した。
「兄って、どうもぼんやりしてるというか……酷いことされても響いてないみたいなんですよね」
「こんなこと言うと失礼かもしれないけど……お兄さん、何かの障害持ってたりしない?」
俺はハッとした。
「可能性は、ありますね……」
「福原くんも、あまり一人で抱え込むなよ。また話聞くから」
仕事の合間に、兄の幼い頃からの様子を思い返した。興味が持てないことにはまるで手をつけられない子供で、宿題をろくにせず、母も参っていたのだ。絵や工作は好きで、賞を取ったこともあった。できることとできないことの差が激しかった。
しかし、何らかの病名や障害名がついたところでどうすればいいのだろう。兄は兄として生きていくしかないのだから。
帰宅して、夕飯を食べると、兄に誘われたが、平日はしんどいので断った。
そして、応募したうちの一社から面接の連絡がきた。俺は当日の朝に兄をしっかりと起こした。
「場所わかるね。履歴書入れたね。絶対遅れちゃダメだよ。髪も束ねておくんだよ」
「はぁい、わかってるって」
その日の仕事中は落ち着かなかった。妙なことを言って落とされないか。そもそもあの髪でいけるのか。昼休みにどうだったか連絡をしてみたが返事はこず、仕事が終わり会社を出た直後に兄に電話した。
「面接、どうだった?」
「ごめん……二度寝しちゃって……」
俺は周囲の目もはばからずにその場にしゃがみこんだ。
「あーちゃん……しっかりしてよ……」
「だからごめんって。一応、三時間くらい遅れたけど行ったんだよ? でも入れてくれなかった」
もういい。やけだ。木曜日だが酒を買って帰った。
「わーい! ありがとう静紀!」
兄はまるで気にする様子もなくビールを飲み始めた。
「あーちゃん、反省して」
「してるしてる」
俺はそれ以上叱る気にもならず、一気にビールを腹に入れた。
「やっぱり静紀と飲むの楽しい。一番楽しい」
「そう……」
「僕、これからも静紀と暮らしたいよ。静紀は優しいし、ご飯も美味しいし」
そして、酔いの回った俺は自分から兄にキスをした。
「んふっ……今日は積極的だねぇ……」
「とっとと脱いで」
少々乱暴に扱ってしまったが、兄は文句一つ言わず、むしろどこか楽しそうでもあった。
「僕、やっぱりこっちで生きていくしかないのかな。AVでも出ようかな」
「やめて。そういうのは絶対ダメ」
弟としている、というのは世間的にどうかとは思うのだが、他の男の玩具になるくらいなら俺が手元に置いておく。そこまで考えるようになってしまった。
「俺以外とはこういうことしないで。わかった?」
「もう、案外独占欲強いんだなぁ静紀は」
「わかったかわかってないか聞いてるの」
「わかったよぉ」
兄はデレデレと俺の額に頬をすりつけてきた。そんなことをしていたら寝るのが遅くなり、翌朝ギリギリの時間に出勤した。
昼休み、俺は安田さんに持ちかけた。
「今夜、飲みに行きませんか……色々愚痴りたくて……」
「いいよ。おれも早く終わらせるよう頑張る」
兄には夕飯は一人で済ませるようにと連絡し、安田さんと夜の街に繰り出した。
「……働く以前の問題なんですよ。もう、どうしたらいいかわかんなくて」
俺の長話を、安田さんは嫌な顔一つせずに聞いてくれた。
「福原くん……いっそお兄さんを扶養に入れたら? 控除とかあるし」
「確かに……何かあった時に保険証どうするかとか、そういうのもありますしね……」
とりあえずのビールが終わり、日本酒に突入していた。俺はエイヒレをつまみにぐいぐい飲んでいた。
「済みません。長々と聞いてもらっちゃって」
「いいんだよ。福原くんのこと好きだし、力になりたい」
「ありがとうございます」
兄の話が一段落したので、今度は仕事の話になった。金曜日ということもあり、俺は気を抜いていて、気付けば安田さんに肩を貸されて歩道を歩いていた。
「あれ……安田さん……」
「送るよ。おれも飲ませすぎた」
タクシーに乗り、部屋の前まで着いたのだが、鍵がなかなか出てこなかった。
「お兄さん居るんだよね。開けてもらおう」
安田さんはインターホンを鳴らした。
「済みません。福原くんの会社の者なんですが……」
鍵を開け、顔を覗かせた兄は、安田さんを見て大声をあげた。
「わー!
「えっ……」
俺は一気に酔いが覚めた。
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