7

 シルヴァリル王国の南方に位置するカムセト領、その西南にあるアーガストの町にも冬がやって来た。縦に長い王国内で、王都に比べれば比較的温暖ではあるが、それでも朝晩忍び寄る寒気で手足はかじかむ程である。

 信じ難いことに、アベイル・エルニは碌な冬服を持っていなかった。

 金がないという訳でもないだろうに、自らの身を整えることに余りにも無頓着な人は、随分と寒くなって来たにも関わらず平気で薄着のままでいる。冷え込む執務室で青白い唇で仕事にかかるアベイルを見て、カインは彼を伴い町に下りることに決めた。


「別に、服なんてあるもので良いのに」

 平時と変わらぬ白いゆったりとしたローブを羽織ったアベイルは、石畳の道を薄ら微笑みながら文句を言う。その僅か後ろに付き従いつつ、カインは苦笑して応じた。

「碌なものがないから言っているんじゃないですか」

「ふ、中々言ってくれるね」

「それに、町に下りるのも随分と久しぶりなんじゃないですか。ずっと執務室に籠もりっぱなしでしょう、アベイル様は」

「書類仕事が溜まっていてね」

「偶には休暇を取ってもバチは当たらないでしょうに」

 溜め息を吐くカインの前で、自嘲じみた笑いが零れる。アベイルの自罰めいた振る舞いはいつものことで、もう一々カインは心を痛めてなどやらない。代わりに、アベイルが自ら望むことのない休日と、温かい衣服を、勝手に与えてやることにする。そうすることでしかこの自らを痛めつける人を守る術は、ないように思えるのだ。

「休暇、ねえ……必要が感じられないから取らなかったのだけれど」

「偶には町の様子を見るのも為政者の仕事でしょうよ」

「そうとは思えないけどね。それより、僕は服のことは何も分からないよ?」

「……今まではどうしていたんですか?」

「学院に通うようになってからは制服があったし、それ以前は家の者が用意していたから」

「……左様で」

 そういえばこの人は公爵令息なのだった。カインは頬を掻きながら、街頭を歩く。アーガストの中心街、路幅は広く取られており両脇には店舗が建ち並んでいる。町外れにある領主の館から丘を越え、西側の門から入った町並みは、活気に溢れていた。飲食店や宿屋、外から来た人間向けの店が並ぶ通りはこの町でも一番人通りが多い。

 アベイルは人混みを歩くのが苦手のようだった。前から来る人を避けようとしてはぶつかりかけ、謝ろうとしては後ろから来た通行人に蹴飛ばされそうになる。その度にカインが誘導してやるが、何故か向かいから来る人の避ける方に動いては当たりそうになるのだ。

 生きることに不器用過ぎる。カインは呆れながら、アベイルの細い手首を取った。

 不意に右手首を捕まれ、アベイルはきょとりとカインを見上げる。菫色の瞳が不思議そうに瞬くのを、カインは誤魔化すように苦笑しながら引き連れた。

「君は随分この町に詳しいんだね」

「いえ、リゲルに聞いて……あいつもこの町出身なので、情報を聞くには役に立ちますよ。悪くない服屋を教わったので、そちらへ向かおうかと」

「相変わらず、仲が良いことだ」

「……お嫌ですか?」

「いや、君の言うように、人が増えたことでやりやすくなったことも多い。……礼を言うよ、カイン」

 手を引く人がぶつからないように、盾になりながらカインは、小さく囁かれた言葉に背を熱くした。


 商店街の一画、比較的中級から上級の裕福な家庭をターゲットにした店の立ち並ぶ中に、リゲルに教えられた衣服屋はあった。

 白い外観に青い屋根の小綺麗な店である。入り口に下げられた銀のドアベルが、カランカランと小気味良い音を立てた。カインとアベイルが店に入るのに先んじてのことである。

 店から飛び出すように出て来た小柄な人影にぶつかりそうになり、カインは僅か身を捻った。

「おっと、失礼……フレア?」

 店からまろび出て来たのは、金髪を首の後ろで切りそろえた女性の格好をした人物である。弾かれたように上げられた顔に、濃紺の瞳が激しく揺れていた。

「フレア……いや、フラウか?」

 女の格好をしたその人は、大きな鍔のついた白い帽子を被っていた。面を隠すように、きゅうと鍔を引き下げる。その身は水色の品の良いワンピースを纏っていた。胸元の白いレースのリボンが可愛らしい。可愛らしい、女の格好をした、青年だった。

 青年、ワンピースに身を包まれたフラウは、顔を伏せたまま無言でその場から走り去ろうとする。しかし案の定、カインの後ろからのこのこと着いてきていたアベイルにぶつかり、踏鞴を踏んだ。

 フラウと正面衝突したアベイルは見事にバランスを崩し、石畳に尻餅を突く。体幹が弱すぎる。半ば呆れながらカインは手を伸ばしアベイルを引き上げた。

「っ痛、……もう、何なの、最悪……大丈夫ですか、領主……様」

 よろけたフラウは悪態を吐きながらも、一応領主を気にする体裁を守るだけの分別はあるようだ。そのハスキーな声音に、カインは胸中少しばかり安堵した。表情からそうだろうと踏んでいたが、フラウであるのか、今一つ確信が持てなかったもので。

 立ち上がったアベイルはローブの裾を払うと、目の前のフラウをまじまじと見た。落ち着かなげに視線を逸らすフラウに、カインは同情した。自身の嗜好を上司に晒されること程、気まずいことはない。

 アベイルは思案するように細い指で顎を撫ぜる。そして何を思ったか、薄らと笑いながらフラウを指差した。

「丁度良い、君に衣服の選定を任せるとしよう」

「……っはあ? 何を勝手に……」

「服なら自分が選びますが?」

 唐突なアベイルの発案に、フラウは呆れカインは驚いた。元々カインが衣服を見繕う心積もりではあったのだ。

 アベイルは不服そうなカインを振り仰ぐと、ふふと笑んだ。

「どう見ても、君より彼の方がセンスが良さそうだ」

 揶揄うように言われ、カインはむうと唸る。しかし実のところ、カインも基本的には騎士団の制服を着っぱなしである。私用の時は簡素な白シャツと黒か茶のズボンを着用しているが、同じような作りのものを何着か持ち着回している為、凡そお洒落には無頓着である。アベイルのことを言えた義理ではないのだ。

 仕方ないと、カインはフラウの肩を叩いた。気の毒であるが、この領主とかち合ってしまったのが、運の尽きだ。

「冬用のガウンと、コートと、部屋着と。暖かくて“センスの良い”ものを選んでくれ」

「……っ何で、僕が……」

「領主様のご指名だ、腹を括れ」

 諦めたように首を振るカインの前で、頬を引き攣らせたフラウは観念したように俯いた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 兎に似た魔獣の毛皮で出来た白いマフラーと、灰がかった銀の毛皮で出来た柔らかなコートは少し上位の熊に似た魔獣のもの。基本的に魔獣の皮は丈夫で質も良いが、その分値も張る。しかしそこは流石公爵令息、値段に糸目を付けないでお高いものに着目する。金持ちのぼんぼんと踏んだのか、割の良い客にここぞとばかりに高価な衣服を勧めて来る店員に、フラウが防波堤となりあれやこれや注文をつけて、値はそこそこ張るがしっかりと防寒も出来る質の良い衣服を用立てて貰えた。

 ガウンとローブは綿であるが室内ならば充分な暖かさがある。それらを手に入れたアベイルは、ほくほく顔で今は温かなスープを口にしている。

 衣服が気に入った、というより、自分で服を買うという行為が楽しかったのだろう。現に今も、貴族ならば絶対に訪れないようなレストランで食事を取っている。コースの料理も出る庶民では中々手の出ない、ある程度金を持っている者向けの店ではあるが、とてもではないが公爵程の地位を持つ人間が訪れるような店ではないだろう。

 大衆と共にテーブルを並べているのが新鮮なようで、アベイルは時折きょろきょろと周囲を眺めながら、柔らかな肉と芋の入った塩味のスープを啜った。休暇はいらないなどと憂鬱そうに嘯いていたのが嘘のようである。

「……何で、」

 手にしたスプーンで所在なさげにスープの入った皿をかき混ぜていたフラウが、諦念混じりに口を開く。

「何で、あんたたち、何も訊かないの」

「何をだい?」

 給仕の持ってきたパンを興味深そうにスープに浸しながらアベイルは問い返す。絶対にお貴族様ならやらない、マナーもへったくれもない所業だが、カインとの旅程でアベイルはそれに慣れてしまっている。仮にも公爵令息であろう者のあり得ない仕草に、フラウが化け物でも見るかのような目をしている。

「その、……僕の、格好について」

「別に、似合っているとは思うけれど」

「……僕が……女の、格好をしているの」

「それが」

 素気なく答えるアベイルに、フラウはぐうと唸った。諦めた方が良い、カインは同情しながら思う。その人は多分、フラウの望んでいるような糾弾も叱責も、許容も肯定も、くれはしないのだから。

 フラウは果敢だった。だん、と机を叩きアベイルを睨めつける。周囲のテーブルが一瞬静まり、何事かとざわめくが、アベイルは注目を浴びることなど全く無関心に、美しい手付きで魚のムニエルをナイフとフォークで切り分けていた。

「っだから、僕が、女装しているのを、……上司として、何か言わなくて良いのかよ?!」

「特に必要ないと思うけれど」

 平坦に冷淡に、アベイルは告げる。唇を噛み締めるフラウに、はあ、と大きく溜め息を吐くと、面倒臭そうにテーブルを指先で叩いた。

「前にも言ったろう。仕事さえしてくれれば、それで良い、と。君の私生活に対して僕は関与するつもりはないし、君の気持ちの吐き出し口になってやるつもりはないよ」

 冷徹な物言いに、フラウは沈黙した。正論である。正論ではある、が。

 カインは俯き唇を戦慄かせるフラウを見た。人との繋がりを求めないアベイルの態度は、彼らしいと言えば彼らしいが、相手次第では冷たく突き放されたように感じるだろう。アベイルにフラウの事情を鑑みる義理はない。だが、共に働く相手である。少しばかりの義理を、発揮しても良いのではないか。

 カインは青い顔をしたフラウを見る。胸に抱えたことを誰かに吐き出す行為も、人には時に必要なのだ。

「フラウ、話したいことがあるなら、食事の間聞かせて貰えないだろうか。コースが終わるまででしたら、よろしいでしょうか、アベイル様?」

 海老と帆立のグリエを口に含みながら、アベイルは眉間に皺を寄せる。あからさまに面倒臭そうではあるが、真っ直ぐに見つめるカインに、ついと視線を逸らした。

「カインが聞く分には、構わないよ。僕は食事を楽しんでいるから。君たちは好きにすると良い」

 突き放すように言うアベイルに小さく頷くと、カインはフラウに目で促した。落ち着かなげにきょろきょろと視線を彷徨わせ、フラウは、ぽつりぽつりと語り出す。彼の前に置かれた食器は、満たされたままだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 フラウは魔獣の森に面した村の出身である。彼の父の生家がそこにある。父と母は、村で生まれ育った。幼馴染みだった。大層仲睦まじい夫婦であったが、子の誕生によって二人は引き裂かれることになる。

 想定外に出来た双子の赤子は、元々丈夫ではなかった母の身に酷く負担を与えた。産後の肥立ちが悪く、彼女は赤子を抱くことなくその命を落とした。父の嘆きは大層なもので、三日三晩泣き明かしたという。

 父は勤勉で敬虔で真面目な勤め人であった。妻を亡くし、男手一つで二人の赤子を育てることになった父に、厳格の二文字が加わった。

 母なし子と侮られないようにと、双子は礼儀作法や教育を幼い頃から叩き込まれた。それはもう、子供相手とは思えない程厳しく、躾られた。教鞭で叩かれたことも一度や二度ではない。

 幼い頃から我の強かった双子の妹、フレアは、折れなかった。何度説教されようが叩かれようが、自分を捨てず父に反駁した。遊びたい時は遊ぶし、悪戯も止めることはなかった。フレアは強かった。

 フラウには出来なかった。萎縮し、父の顔色ばかりを窺うようになった。勉学や作法も一生懸命習った。学ぶことが好きだったからではない。父に叱られたくないという、それだけだった。

 

 双子が十五の歳を迎える前に、一家はアーガストの町へと移った。丁度新しく赴任して来た領主の、執事として迎えられたという。

 新しい領主はこれが中々に悪辣な人物で、厳格で規律を尊ぶ父とは余りにも相性が悪かった。しかし父の方は子供たちに対する反面教師として、領主の方は碌な指示を出さずとも勝手に動いてくれる人物として、それぞれ利用していた面があるので何とかやっていけていたのだろう。

 父は双子を使用人として働かせた。子供でありながら大人と同じだけの仕事を与え、こなせないと折檻をした。立派な奉公人として育て上げることだけを己の使命と考えているようだった。

 窮屈な日々だった。行動は監視され、抑制された。勤勉であり敬虔であることが父の人生であり、それを子に強要した。酷く、疲れる日々だった。

 双子の妹のフレアは大変要領が良く、適度に仕事をこなし適度に手を抜き適度に息抜きをしていた。父に目玉を食らうこともあったが、逆鱗に触れない程度に上手く調整をしていた。優秀が故に行える所業だった。

 フラウには出来なかった。父の言いつけを守り、勤勉に真剣に、仕事に取り組むのに、いつも何処かでミスをする。その度に激しく叱責をされた。手も抜かず息抜きもせず、それなのに上手く行かない。双子の妹よりも上手く出来ない。鬱屈した思いは日に日に、胸の奥に沈殿していった。


 魔が差したとしか言いようがない。

 その日、フラウはいつにも増して鬱屈していた。体調を崩した使用人の分の仕事を任され、その所為で自分の分が終わらなかった。そのことで激しく叱責と罰を与えられ、弁明する余地すら与えられなかった。そのことはフラウを暗澹たる気持ちにさせた。真面目に働けば働くだけ、損にすら思えてくる。

 自室、双子に与えられた部屋に戻った時、ふと、フレアの服が目に入った。既に与えられた業務をこなし、遊びに行っているフレアが無造作にベッドに投げ捨てたメイド服である。

 何故そんなことをしようとしたのかは分からない。本当に、魔が差したとしか言いようがない。男女差があるにも関わらず双子の体格はそっくりだった。だから、フレアのメイド服は、すんなりと着ることが出来た。

 柔らかな生地、ふわりと広がるスカート、裾にふんだんに使われたレース。姿見に映った己は双子の片割れと瓜二つだった。そのことは、妙にフラウを安堵させた。

 余りの安堵に、フラウは背後の気配に気付かなかった。ガタリ、部屋の戸が開く音がする。慌てて振り返る先には、驚愕した父の姿があった。

――フレア? いや、フラウか? 貴様、そんな格好で何をしている?!

 偶然フレアに用を言いつけに来た父に見つかったのが運の尽きだった。

 それからのことは悪夢のようだった。叱責というよりは罵倒に近い。フラウの格好を只管に糾弾し、衆目の前に連れ出し、不埒で醜悪で卑陋であると。皆の前で辱めた。幼子にするように尻を鞭で叩かれ、気付いた時には自室のベッドでフレアに縋りつくようにして寝ていた。泣き腫らして目が痛い。

――莫っ迦ねぇ、ああいうのは隠れてやらないと、駄目よぉ。

 寝ぼけ声で呟く妹が、男と遊び歩いているのを知っている。当然、父も知っているだろう。だが、フレアは現場を掴ませない。証拠を残さない。要領よく、息抜きをしている。フラウには出来ない。出来な、かった。

 妹にきゅうと抱き寄せられ、フラウは眦を熱くしながら、浅い眠りに落ちた。


 父が亡くなったのは領主が罷免されてから直ぐのことである。

 次の領主は有能であると良い、それまで館を整えておかなくては、そう口走る父はここ数ヶ月良くない咳の仕方をしていた。夕刻から夜半にかけてが特に酷く、ゼェゼェと喉に突っかかるような咳が続いて満足に眠れなそうだった。

 医者にも掛かったが原因は分からず、処方された薬も効き目は薄かった。体調を崩した父は尚更頑なになっていた。

 秋の夜のこと、仕事を終えもう寝る所であった父は、急に息が詰まったようになり、カップの乗ったテーブルを薙ぎ倒しながら床に倒れた。自室のことである。隣の部屋にはフラウがいた。フレアはいつもの如く夜遊びに出ていた。

 物音に駆け付けたフラウが見たのは、青い顔で床に倒れる父の姿だった。呼吸が上手く出来ないようで、ひゅうひゅうと息をしながら必死に手を挙げている。ぱくぱく唇が動く。医者を呼べと言っているようだった。

 フラウはそれを見ていた。入り口から、一歩も動かず、見ていた。

 青い顔が絶望に彩られ、次第に唇が紫になり、力の抜けた手が床に落ち、ぐるりと白目を剥くのを、見ていた。只、見ていた。


 ざまあみろ。とさえ、思った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 デザートは既に食べ終わり、食後のコーヒーは随分と冷めた。給仕に手を挙げおかわりを頼んだカインは、その僅か迷惑そうな顔を見て、その手にチップを包んでやる。長居をし過ぎなのは知れていたが、もう少し、店を出るまでには時間がかかりそうだったもので。

 ぽつり、ぽつりと言葉を発していたフラウは、己の父が亡くなった顛末を語ると、すっかり沈黙してしまった。

 酷ではあるが、良くある話だ。敬虔な父、抑圧された子供、フラウの不運は双子の妹が余りにも“出来すぎている”ことであったが、それでも特段双子の仲が悪いとは思えない。寧ろ話を聞くに、フレアが執事姿をしているのは片割れの為のように思える。

 父親が亡くなったのは、出身地と症例を見るに、昨今話題となったバラカッドの木による疾患に因るものだろう。不運なことだ、としか言いようがないが、フラウにしてみればある意味解放と言っても差し支えないのかも知れない。

 それを諸手を挙げて喜べるだけの人間であったなら随分と楽だったろうに。最期の時に父を見殺しにしたこと、その際に悦びを覚えたこと、それが今もフラウの中に根強く悔恨として残っていて、苦悩に直結しているのだろう。

 少なくともカインは、フラウの笑った顔を見たことはない。


 かちゃり、音を立ててアベイルがカップを机上に置いた。当然、態とだろう。酷く面倒臭そうに頬杖を突いている。彼がこの話題に飽いているのは明白だった。

「……それで?」

 問われ、フラウは濃紺の瞳を彷徨わせた。

「それ、だけ……だけど」

「それで? 君が抑圧から解放されて目出度いというのは分かったけれども」

「めで……、そんな、簡単な話じゃ……」

「簡単だろう。父親との軋轢なんて、珍しくもない。現に僕だって、実の父に命を狙われているしね」

 ぎょっとしたようにフラウはアベイルを見つめる。カインは余計な口を挟まないよう、カップに口を付けた。

「正直な所、もし今、僕が父の訃報を聞いたら清々するだろうね。……勿論、向こうもそうだろう」

 君は違うのか。そう問う冷たい菫色の瞳に、フラウは唇を戦慄かせた。

「僕は……、僕は、そんな風に思えな、かった……」

「そうか、ならそれで良い。君は悔恨を抱えながら、片割れに劣等感を抱えたまま、好きな格好をして、人間性を失わないまま、好きに生きると良い」

「……にんげんせい」

 口元で呟くフラウは、考え込むように俯いていた。言葉はきつい。そして余りにも突き放し過ぎている。だが、カインにはアベイルがフラウを嫌っているようには思えない。寧ろそれは彼なりの叱咤なのだと、そう思えてならなかった。

 フラウはもう、大丈夫だろう。元々一人で抱え込むのにしんどさを覚えていたという側面が大きいように見受けられた。吐き出すこと、それを受け止める人間がいたこと、何が解決した訳でもないが、大丈夫だろうと思われた。

 何だかんだで話を聞いているのだ。カインは面倒臭そうな態度を隠そうともしないアベイルを窺う。フラウは大丈夫、しかし、己の人間性を捨て去ったと思い込んでいるその人の、その方が重症であるように、カインには見えるのだった。


 シニカルに口の端を上げるその人に、カインは強く言葉を向ける。

「一つだけ、訂正をしても構いませんか」

「……何をだい?」

「アベイル様がご自身を仰るようには、自分は……自分とフラウは、貴方の人間性を疑ってはいません」

 唐突に巻き込まれたフラウが、僕もなのか、 とぎょっとしたように顔を上げるが、ここにいるのが運の尽きである。巻き込まれろ。

「貴方にどのような事情があるかは知りませんが、少なくとも、自分は……貴方が、噂されているような人物だとは、思ってはいない、ということです」

 いつか明言をしなければならないという思いはあった。

――貴方を、軽蔑します

 かつて投げかけた言葉は胸を焼き、棘のように刺さってカインの心を苛んでいる。気にしているのは寧ろカインの方だ。これが只の贖罪に過ぎないとしても、告げずにはいられない。

 アベイルは虚無を湛えた瞳でカインを見返す。響かない。そう簡単に響かないのは分かっている。

「……そうか。心には留めておくよ」

 簡単には覆せない。それでも伝え続ける努力は怠りたくはない。いつか、届く日まで。

「今は、それで構いません」

「今は、ね……君はそれなりにしつこそうだ」

「貴方の強情さには負ける」

 敢えて砕けた口調を向ける。アベイルは漸く、くつと笑った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「――領主様! 大変です!!」

 随分とゆっくりとした食事を終え、店を出た時だった。

 石畳の道を馬が駆けて来る。危ない、と通行人が叫ぶのも構わずカインらの元へ走ってきた馬に乗っていたのは、領主の私兵――リゲルの仲間の元荒くれたちの一人だ。

 血相を変えた私兵は、下りる間も惜しんで馬上から叫ぶ。

「魔獣が……っ魔獣の森から、魔獣が一斉に溢れ出て――魔獣の大暴走スタンピードです!!」

 一瞬静まり返った町中が一気にざわめく。その不穏な単語に、辺りは混乱に陥った。カインは舌打ちをする。本来であればそうした報告は周囲を配慮してなされるべきだ。しかし伝令に訪れた者もまた、混乱していたのだろう。

「…………まさか、早過ぎる」

 ぽつりとアベイルが呟いた。その言葉の不自然さに、カインは一瞬気を取られる。だが、それを問い質している時間はない。事態は一刻を争う。

 慌てる兵を馬から下ろし、カインは忙しなく問い詰める。

「被害は、」

「っ村に溢れた魔獣は、警備の兵で対応出来たのですが……」

「魔獣の大暴走と言うくらいだ……何処へ向かっている」

「……っこちらへ……アーガストに……っ」

 最後まで聞くことはしなかった。馬の手綱をアベイルへ放り、駆け出し様に告げる。

「っアベイル様は住民の避難を!」

「君は?」

「兵を連れ迎撃に向かいます!!」

「分かった」

 振り返ることなく走り出す背に、頼んだよ、と静かな声が追って来た。カインの想像が正しければ、対処はアベイルに任せて大丈夫だ。自分は、自分に出来ることをする。


 石畳を踏む足に、力を込める。一歩、また一歩。常人より遙かに速く、カインは己の“ギフト”を酷使し、人垣を縫って駆け抜ける。馬を走らすより、短距離であればこの方が速い。それに住民への呼びかけに、馬は必要だろう。アベイルの元へ馬を残した己の判断を信じ、カインは衆目も気にせずひた走る。

 走って、走って、走って。町外れの屋敷に駆け込んだ先で、領主の私兵らは呑気に棒切れを振り回していた。

 素振りをしながら訝しげに首を捻るリゲルが、カインの剣幕に気付き顔を上げる。

「ああ、カイン! 何か妙な気配を感じるんだけど、何だこれ……」

「リゲル! さっさと武装しろ、魔獣だ、出るぞ!!」

 息も切らさず走るカインは、愛馬オリガに飛び乗り、庭先にいたリゲルに怒鳴る。はっとしたようなリゲルを省みず、カインは愛馬を走らせた。

 遠く、未だ遠く、地鳴りが響く。

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