8
臭気が漂っている。獣臭い、血と肉の入り交じった臭い――死の臭いだ。
穴の奥から漂う臭気に、ユージーンは眉を顰めた。生物としての危機感が、この場にいてはならないと告げて来る。だが、逃げることは許されていない。
「さっさとしろ」
後ろからせっつかれて、ユージーンは歯噛みしながら穴の入口へと向かった。
森の奥にある、洞窟である。切り立った崖にぽっかりと空いた、人の身長程の洞窟だ。奥から唸り声が聞こえる。魔獣の猛り声だ。幾度となく戦場に駆り立てられたユージーンですら、その無数の気配に背筋が凍る。
魔獣の住処とされている洞窟に武装もせず近寄るなど、正気の沙汰ではない。しかしユージーンはそこにいた。第三騎士団所属騎士、ユージーン・グロウレ。彼は今、死地にいる。
最初は第三騎士団の団長から言いつけられた、簡単な偵察任務だった筈だ。南方の領で魔獣の動きが活発になっている。その要因を調査しろ、と。
良くある任務だった。だからこそ、ユージーンは然程警戒もせず、それに当たった。
共に任務に当たる騎士が見慣れない者ばかりであることは、僅かばかりユージーンの不信感を煽ったが、騎士団の団員数は多く顔も知らない者もいない訳ではない。
僅かな疑念は消し去り、ユージーンは少数の手勢と共に森へ向かった。向かった先がカムセト領であるというのもユージーンの警戒心を鈍らせた。ユージーンの友であり、悪役令息の護衛騎士としてカムセト領に飛ばされたカイン、その様子を窺えるというのはユージーンにとっては嬉しい材料に他ならなかった。
そうして訪れた魔獣の森で、ユージーンは何故か同僚である筈の騎士に脅され、その奥深くへと足を踏み入れることになっているのである。
「……っ何をちんたらしている、さっさと投げ入れろ! 逃げる時間がなくなると俺たちまで危ういんだ!!」
後ろから再び怒鳴られ、ユージーンは奥歯を噛み締めた。その背には、剣の切っ先が突きつけられている。
何がどうしてこうなったのか。偵察に向かった騎士団員はユージーンを入れて四名、その内の二名は魔獣の森の入り口に辿り着くと、何やら目配せをし、突然もう一人の騎士に斬りかかったのだ。
予想もしていない仲間の裏切りに、不意を突かれた騎士は成す術もなく倒れた。二人の裏切り者はユージーンに、こうなりたくなければ従えと脅して来た。そうして連れて来られた森の奥の洞窟手前で、ユージーンは袋を渡された。仄かに甘く落ち着かない気持ちにさせる匂いのする袋である。中身は何だか説明などされなかったが、碌なものでないのは知れていた。
「っ早くしろ!」
焦れた声音と共に背中に僅か痛みが走る。切っ先が僅か背中に突き刺さる感触に、ユージーンは顔を顰めた。
この行為は間違っている。間違っているが、抗う術はない。ユージーンが言うことを聞かなければ、先に命を落とした騎士と同じ運命を辿るのだろう。
それだけならばまだ良い。ユージーン一人の命で済むのであれば。しかし、男たちに囁かれた言葉が耳から離れない。
――グロウレ子爵家は優秀な跡取りに恵まれたみたいだな。男が一人、女が一人、バランス良く生まれたもんだ。長男は来年学院に上がるのだったか。
上の兄の子供たちが頭に浮かぶ。歳の離れた兄の出来の良い子供たち、いつ会っても礼儀正しい彼らの存在を把握され、暗に脅されていてはユージーンに抗う術はない。もし従わなければどうなるか。想像に難くない。
抵抗は出来なかった。この行為が何をもたらすのか、分からないユージーンではない。それでも、無辜の人々がどれだけ犠牲になろうとも、家族の命の方が、余程、重い。
意を決し、手にした小袋を握り締める。ユージーンが心を決めたのを察したのか、背後の気配が遠のいた。
大きく振りかぶり、袋を投げる。遠く、遠く、洞窟の奥深くに届くように。
洞窟の暗がりの中で、軽い布はかつんと地面に落ちた。中に何か硬いものでも入っていたのか。暗がりに紫の宝石のようなものが見える。
それと同時にそこから立ち上る、不自然に甘く、神経を高ぶらせるような香りは、入り口にいるユージーンにまで届いた。脳髄を揺さぶられる不快な感触に気を取られまいと、踵を返す。洞窟の奥で蠢く魔獣の気配は膨れ上がり、今正に飛び出さんとしている。
脱兎の如くその場から駆け出そうとしたユージーンだったが、不意に、足の力が抜けた。
「……っなん、で……」
退いたと思っていた筈の騎士姿の男が、逃げようとしていたユージーンの脚を剣で薙いでいた。切断には至らなかったものの、腱をやられユージーンは洞窟の入り口に倒れ伏した。腰の剣は既に奪われている。抵抗する術はない。
ユージーンを害した男は既に離れていた。血の臭いに引かれて、背後から数多の獣が唸り声を上げる。
剣がなくて良かった。優秀なユージーンの友であれば、足が動かなくても剣さえあれば、この窮地を脱してみせるだろう。しかしユージーンは凡人だ。凡人である己を自覚している。僅かな自身を生かす方法を模索し、やってはならぬことに手を付け、そして結局は命を散らそうとしている。剣がなくて良かったのだ。ユージーンであれば、己の喉に剣を突き立てていただろうから。
(嗚呼、カイン……悪い、後は、任せた……)
血に飢えた獣が足に、背に、食らいつく。喉笛を噛み千切られるまで、身を食い千切られる地獄は続いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カインの愛馬であるオリガは、魔獣討伐の武勲で得たものだ。
一年程前に起こった北部の領の魔獣の大発生、その際の活躍により、カインは愛馬を賜り隊長へと引き立てられた。
何が活躍なものか。カインは自嘲する。カインは必死だっただけだ。只、生きることに必死だっただけだ。襲い来る魔獣を、必死に迎撃していただけだ。
カインの“ギフト”は彼の身体能力を引き上げる。しかしだからといって、超人になれる訳ではない。少しだけ剣を振るうのが速い。少しだけ動くのが速い。少しだけ、人より少しだけ、強い。只、それだけだ。
カインがどれだけ速く剣を振るっても、倒せるのは目の前にいる魔獣だけだ。眼前の魔獣を倒せたとて、 周りの全てを守れる訳ではない。カインが無傷で魔獣を倒している間に、幾多もの人間が殺められた。それで武勲など、聞いて呆れる。
今もそうだ。今も、目の前の敵を屠ることに必死で、何も守れていない。
襲って来たのは狼型の魔獣だった。数十集った群れは、野山を駆け一目散に駆け抜けて来る。
迎撃はアーガストの町の外、丘を下った平野で行われた。森から湧き出た魔獣は、不自然な程一目散にこちらを目指していた。牙を剥き出し、涎を撒き散らし、目を血走らせて。明らかに正気ではないのに、近くの村々ではなく、この町を狙って来ている。作為的な何かを感じずにはいられない。
真っ先に群れの先頭に辿り着いたカインは、馬から飛び降りるとその尻を叩いた。賢い愛馬は、迷うことなく魔獣の群れに背を向け走り去る。きっと無事に町まで逃げられるだろう。
剣を抜く。長年使っている、さして高級でもない剣だ。折れてくれるなよ。思う最中、鋭い牙を剥き出しにした灰色の狼が飛びかかって来るのを、カインは横薙ぎにねじ伏せた。
吹き出る血を避けつつ、次の相手に立ち向かう。異常なまでに興奮した魔獣は次から次へとやって来ては、カインに襲いかかってきた。
カインにしてみれば、数匹程度同時に襲われたところで、どうということはない。多少の怪我はするだろうが、持ち前の身体能力、それを強化する“ギフト”、魔獣討伐の経験、それらを駆使して命を落とさないように戦うことは出来る。
だが、それも己の命だけだ。全てを守ることは出来ない。それがどうにも、歯痒い。
「――っカイン!!」
背後からやって来たリゲルが叫ぶ。剣を振るいながらちらと後ろを見れば、リゲルを筆頭に武装した私兵たちが駆けて来るところだった。
兵とは言っても、つい先日まで只の荒くれ者だった連中である。町でたむろし、悪巧みをしていた程度の小悪党である。そいつらを戦場に引き出した。他でもない、カインが。
「……っここを通すな! 町を守れ!!」
そして今も、煽るような号令を掛けている。彼らはこの町の出身だ。戦わざるを得ない者たちに発破をかけ、戦わせている。
自然と口の端に笑みが浮かぶ。頭を過るのは人間性を失ったと思っている領主の姿だ。――人でなしなものか。戦場においては、己の方が余程、人ではない。
無数の獣が襲い来る。片っ端から斬り捨てる。自身に牙を向ける者も、そうでないものも、全て。けれど、全てを、救うことは出来ない。背後で応戦する声がする。見知った仲間の悲鳴も怒声も置き去りに、飛びかかる獣を斬り伏せ、後ろへ抜けようとする首を薙ぎ払い、尚も怯まぬその横腹を蹴り付ける。振り払うこともない生臭い血や、体液を浴びながら、カインは不敵に笑う。
人間性など、疾うに捨てている。
魔獣の波が切れた。前方から向かって来る敵がなくなったのを見計らい、カインは振り返った。
背後は地獄絵図と化していた。腕を引き千切られ呻く者、未だ交戦しやっとの思いで魔獣の背に刃を突き立てたと思ったら背後から噛みつかれる者、地に倒れ伏し息絶えた者。死の生臭さで溢れた戦場で、カインは怒鳴る。
「……っリゲル!!」
「っ何だよ! ……っなん、何だよ……これ……っ」
応じるリゲルは何とか五体満足でこの戦場に立っていた。青ざめ震える手にした剣はぬめる血で塗れていた。
「何体抜けた?!」
「いや、正直必死で……っでも、仕留め切れなかったのは、いると思う……っ」
「そうか、……後は頼めるか」
未だ震えるその肩に背負わせるには重過ぎるのかも知れない。だが、今は、それに頼るしかない。
「わ、分かったけどよ……カインは……」
「俺は、町へ行く 」
町には警備兵がいるが、どれだけ頼りになるかは分からない。カインは魔獣を追って町へ行く。行かなければ、ならない。
町を守るなどと建前だ。カインには他に、護らねばならないものがある。
僅か疲労を感じる身体を急き立て、カインは数多の屍を踏み締め走り出す。
カインは護衛騎士だ。護るものは一つだ。主の身を助けるべく、町へ向かってひた走る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「はあ~、ダルいわぁ……何であたしがこんなことしなきゃなんないのよぉ……」
フレアはぼやいた。ぼやかずにいられない。
緊急避難先として指定された領主館、以前にも水害のあった際に避難先として使われたその屋敷は、今もまた大量の避難民が溢れている。
魔獣の森で起きた大暴走により、アーガストの町民は急遽避難することになった。誘導には領主や双子の片割れも当たっているという。取り急ぎで避難場所となった館のホールには、訳も分からず避難させられた町民たちが不満と不安を口にしながら集っている。
その対応に追われるのはフレアを初めとした屋敷の人間だった。実に面倒なことこの上ない。
それでも、今回は料理人がいるだけマシだ。洪水の際にはフレアたちメイドが総出で薄く美味しくもないスープを作り、提供したのだ。少なくとも町民は、不安な中、不味いスープを振る舞われなくても済んだ訳だ。
(別にここも安全な訳じゃないと思うけどぉ)
他のメイドたちに指示を飛ばしながら、内心フレアは愚痴る。水害の時には確かにここは安全だった。しかし魔獣たちが町に向かっているのであれば、この屋敷に集ったとて襲われれば一溜まりもない。
(警備はしやすいのかも知れないけどぉ……頼りないわぁ……)
領主の私兵は魔獣の迎撃で出払っている。町の警備兵は屋敷を取り囲むように守っている筈だが、魔獣の脅威に対してどれだけ力を発揮出来るのかは不明だ。
最たる戦力である領主の下僕は、既に迎撃に出てしまっている。護衛騎士である筈なのに、領主の傍を離れるなど。本来の目的からは考えられないことだが、フレアはさして不自然にも思わない。
あの護衛騎士が護ろうとしているのは領主の身ばかりではない。とんだお人好しだ。でなければ余程の物好きだ。
(あんな得体の知れないもの護るだなんて、どうかしてるわぁ……折角の色男なのに……)
護衛騎士の顔を思い浮かべながら、フレアはぷっくらとした唇を尖らせる。短く尖った黒髪、浅黒い肌、鋭い鳶色の瞳。王国騎士なだけあってその体躯は逞しく鍛えられている。
一度くらい味見をしてみたいものだ、と自他共に認める男好きのフレアなどは思うのだが、残念ながら相手の眼中にはないらしい。一途な男は嫌いではない。だが、相手がこちらを向く気がないのならば話にならない。
初対面で双子の入れ替わりを見抜かれた時から、フレアは領主のことを苦手としている。あの冷たく感情を湛えない菫色の瞳で見つめられると、何だか無性に居心地が悪い気がしてならないのだ。
あれを真正面から受け止められる色男の護衛騎士も、大概、どうかしている。
ぼやきながらあくせくと人数の把握や飲食の提供と動き回る耳に、馬の嘶きが聞こえて来た。フレアは顔を上げる。玄関ホールから見える窓の外、領主と執事たる双子の片割れが戻って来たようだった。
「遅いわよぉ……何だって急にこんなことになっちゃったの?」
庭先に出たフレアはすかさず文句を告げる。馬から降りた領主は、すうと細めた目でフレアを見た。その瞳が、フレアは苦手である。
「住民の避難はあらかた済んだようだね」
「領主様の不満ばっかでもう大変よぉ。今中に入ったら当分詰められるんじゃなぁい?」
「それは別に構わないが」
「構えよ。領主……様、が今動けなくなったら困るだろ」
同じく馬から降りた片割れが不服げに領主に告げる。性懲りもなく女性の衣服を身につけている双子の兄に、おや、とフレアは小首を傾げた。兄とてフレアと同じく領主のことを苦手に思っていた筈だ。それなのにどうやら、この数時間で随分と気を許したらしい。
ふうん、とフレアは鼻を鳴らす。自分の殻に籠もりがちな片割れが、信用出来る人間を増やすのは悪いことではない。だがそれがこの胡散臭い領主というのは、些か気に食わない。どうせならあの色男の護衛騎士の方がマシだろうに。
「それで? 碌な説明もないまま町民を避難させろとか、意味分かんないんだけど? 魔獣が暴走したとか聞いたけどぉ?」
「ああ、……魔獣がこの町に向かって来ているらしくてね。取り急ぎ皆に避難して貰った。屋敷の人間には手間を掛けたね」
「本当よぉ」
無論、それもフレアの仕事の内である。仕事ではあるが、文句を言ってはいけない決まりはない。
「今はカインたちが討伐に向かってくれている筈だが……」
領主の言葉は不自然に途切れた。傍らの馬が、激しく身を捩り嘶いたからだった。
押さえていた手綱を引かれた領主はよろける。傍にいた双子の片割れは、馬に蹴られないように大きく後退った。
音もなく野を駆けて来る狼型の魔獣に気付いて動けたのは、だから、フレアだけだった。
(全く、イヤんなるわぁ)
いっそ笑えて来る。領主のことなど知ったことではない。フレアにとっては今を以て尚、領主は得体の知れない代物である。フレアが大事に思うのはフラウ――双子の兄、その一人だけだ。その一人が心を許した相手を捨て置けはしない。それだけだ。
一歩踏み出すフレアに、双子の片割れが目を見開く。それを尻目に、フレアは領主の襟首を掴んだ。驚いた馬が駆け出し引っ張られた領主がひっくり返る。釣られて体勢を崩したフレアの元に牙が迫る。
ああ、どうか。フレアは願う。どうか、心優しいあの子がこれ以上家族の死で苦しむことのないよう。
悲痛な叫びが響く中、儚い願いは意識の闇に、溶けた。
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