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「……という訳で、こちらのリゲルを、アベイル様の補佐に付けようと思います。例の、町長のところのドラ息子ですが、剣術経営術共に基礎の部分は叩き込まれているようです」

「カイン、元いた場所に捨てておいで?」

「いや犬猫じゃねーぞ?!」

 領主の屋敷の執務室である。リゲルは王国騎士に伴われ、領主と対峙していた。

 王国騎士は、カインと名乗った。王国の第三騎士団所属であり、現在はカムセト領領主、アベイル・エルニの護衛騎士を務めている、と。

 正に領主の犬である。そしてリゲルはカインに屈伏した犬の犬だ。だからといって、領主から犬扱いされる謂れはない。

 大量の書物に埋もれるようにして、アベイル・エルニは机上の書類と格闘している。領主のものにしては、飾りのない随分と簡素な家具だ。リゲルの勝手な想像で、貴族の領主などという代物は過度に華美な装飾品に囲まれているものと思っていた。何とも言えない違和感に、リゲルは些か鼻白みながらも不平の声を上げた。

 リゲルの抗議に、領主はついと顔を上げた。縁なし眼鏡のレンズの奥、菫色の瞳は漸くその存在に気付いたとでも言うように、リゲルを捉える。

 射竦められたリゲルはぐうと喉を鳴らす。しかし舐められては堪らないと、カインの隣、ぐいと胸を張った。

「……どうも、リゲルだ、……です」

「ご丁寧にどうも。僕はアベイル・エルニ、君に殺される予定だった、領主だね」

 今度こそ、リゲルは言葉を飲み込み唸った。弑する予定であったその人は、長い銀髪を掻き上げながら、何処か不快そうにこちらを見ている。

「リゲルは気に入りませんか?」

「気に入るも気に入らないも、まだ何も知らないからね。……だが、君は随分気に入ったようだね?」

 からかうように領主は整った眉根を上げ、リゲルの傍らに目を向ける。リゲルの隣で、カインが苦笑した。

「何と言いますか……どうにも、昔を思い出しまして」

「やんちゃだった頃のカインか。想像出来ないな」

「まあ、学のある奴は何かと重宝しますので。傍に置いても?」

「構わない、躾さえしっかりしてくれれば」

 何処までも自分は犬扱いか。舐め付けるリゲルに、今のままでは狂犬だね、とアベイルは仄かに笑う。否、笑ってはいない。瞳を細め、口の端を上げてはいるも、目の奥は昏くリゲルを値踏みしている。

 好かれていないのは重々承知、寧ろリゲルの方が領主など嫌悪の対象でしかない。今ここにいるのは、只自身より強者であるカインに従っているに過ぎないのだ。

 そのカインが言うのだから、領主の元で働くのは納得してやる。だが、敬意を払ってやるつもりは更々なかった。

「じゃあ、程々によろしく頼むよ、リゲル?」

「っ誰がよろしくするかって……っ痛ぇ! ……よろしく、お願いしま、す」

 思わず悪態を吐きかけたリゲルの側頭部を、カインが小突く。嫌々ながら告げる先、領主はふっと失笑を漏らす。

 随分と仲が良さそうだ。そう呟く瞳は何処までも冷たい。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 リゲルたちの生活は一変した。荒くれどもは仕事を与えられ、よからぬ考えも浮かばない程日々労働に終始している。主な仕事は、先日の雨季で使い物にならなくなった畑の開墾だ。リゲルを筆頭とした一部の者は、領主の屋敷で働くことになっている。

 寂れた酒場の店主であった冴えない男、エドマーは、屋敷の厨房で働くことになった。元々料理の腕は一流である。店を経営する方はからっきしだったので、料理人として働くことに異論はないようだった。寧ろメイドたちに囲まれ、あれやこれやと注文を付けられ顎でこき使われているというのに、随分と生き生きとしている。

「いやあ、誰かの為に料理するってのはいいもんだなあ」

 特にご執心のメイド長の後ろ姿を眺めながら、エドマーはにやにやと笑う。しかしリゲルは知っている。メイド長と執事、金髪の双子の男女は時折入れ替わっているのだということを。エドマーがにやにやと見やるメイド長は、結構な確率で男である。カインに聞いたその事実を、リゲルは幸せそうなエドマーには告げていない。知らない方が良いこともこの世にはある。


 仕事が終わると、領主の護衛騎士様が直々に稽古を付けてくれる。どうやらリゲルらは、有事の際に戦う私兵としての役割も持たされるようだった。そんなの聞いてないぞ、と抗議したい所だったが、有無を言わさぬカインの態度にはそれも敵わない。

 実際の所、鍛錬は悪くないものだった。一列に並び、木製の剣を振るう。最初は疲れただのかったるいだのとぼやいていた連中も、細かく指導され自身の腕が上がるのを実感するにつれ、熱心に剣を振るうようになっていた。元々承認欲求に飢えていた輩たちである。認められ褒められると、調子に乗って更に熱心に稽古をする。そうした匙加減が、カインは上手かった。


 リゲルらの企みを領主に密告したのは、リゲルの父である町長だった。

 元よりリゲルらの動向は知れていて、傍観していた所を人材を捜しにカインがやって来た。無謀な息子らの襲撃を未然に防いで欲しい、そうすれば彼らの身を好きに扱っても構わない。そうした取引がなされていたらしい。町長にしてみれば危うい計画を阻止出来る上、放蕩息子に仕事の斡旋までして貰える。さぞやほくほく顔であったことだろうと、リゲルは苦笑する。しかし全ては己の未熟と短慮が招いたことであるので、恨みはしない。

 

 とまれ、領主の元で働くことになったリゲルの生活は、これまでとは一変した。

 無謀なだけの夢は潰え、代わりに得たのは安定だ。それが良いことなのか悪いことなのか、今のリゲルには分からない。

 只一つ、分かっているのは、リゲルはそれを不服に思ってはいない、ということだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 最近、屋敷内で体調を崩す者が増えている。調理人のエドマーもその内の一人だった。

 領主にチクチクと嫌味を言われ辟易しながらも書類の整頓を追え、昼休みを貰ったリゲルが厨房へ赴くと、エドマーはゼイゼイと喉に引っかかるような咳をしていた。

「おいおい、風邪なら休めよ、移るだろうが」

「抜かせ、別に風邪じゃねえよ……何かここんとこ喉に突っかかる感じがするんたよな」

 移す感じじゃねーんだけど、首を捻りながら夕食用のシチューの鍋をかき混ぜる横で、リゲルは行儀悪く空いた樽に腰掛けながら、まかない飯を口に突っ込む。昼飯の残りである肉や野菜を、切れ目を入れたパンに挟んだだけだが、これがどうして中々に美味い。

「そういや、メイドさんの一人も咳してたなあ」

 布切れで口元を覆いながら、エドマーは首を傾げる。それは移ってるというのではないか。思いながら手についたソースを舐めとるリゲルは、ふと、厨房の入り口に佇む姿に気付いた。

「あれ、フレア……?」

「え、フレアさんっ!? どうしたんですか、夕食のリクエストですか?! 今なら何でも受け付けますよ!!」

 ぱっと振り向いたエドマーは、気味が悪い程満面の笑みでメイド長を見詰めた。完全に恋をしている顔である。

 見つめられたメイド長は、厨房の入り口から動かないまま、むすりと仏頂面を決め込んでいた。これはどう見ても、フレアではなく、双子の片割れフラウの方である。フレアは片割れを装うが、フラウは衣装を纏うだけで演じることはしない。一目瞭然なのに、エドマーは歓喜の表情でメイド服を着た青年を見つめている。案外、どちらでも構わないのかも知れない。

 メイドの格好をしたフラウという名の青年は、きゅうと唇を結び眉間に皺を寄せ、じいとこちらを――エドマーを睨み付けていた。

「……何、どうした、フラ……フレア?」

 エドマーを慮って、念の為双子の片割れの名で呼ぶ。はっと弾かれたようにリゲルを見る、濃紺の瞳が揺れていた。何かを言いたげに、けれど固く唇は閉ざしたまま、フラウはくるりと踵を返すと短いスカートを翻し去っていった。

 男のパンチラなんて見ても面白くも何ともないが。思いながらリゲルは、呆れ声で呟く。

「何なんだ、あいつ……」

「いやあ、見たか? あの人、ずっと俺のこと見詰めてたよなあ?」

 咳き込みながらも鼻の下を伸ばすエドマーは、何処までもお目出度い。


 昼休憩が終わり、リゲルが執務室へ戻ると、領主は変わらぬ格好で机に向かっていた。まさか昼飯を食わないつもりだろうか。呆れるリゲルにちらと眼鏡越しに目線を寄越し、領主は興味を失ったようにまた机へと向かう。

 鼻白みながらも、リゲルもまた執務室の端にある席へ着いた。リゲルの為に据え付けられた机と椅子は庶民が使うような堅く質素なものだが、領主も同じものを使っている為文句は言えない。余りにも硬い椅子に領主が座り続けるもので、見かねたカインがふかふかのクッションを持ってきた体たらくだ。お陰で領主とリゲルの尻と腰は守られている。

 机に向かい、リゲルは午前中も執りかかっていた仕事を再開する。こうして真面目に働こうとしてみると、己の不勉強さに頭が痛くなる思いだ。

 例えば今リゲルが見ているのは、隣の領との交易に関する書類である。品目、金額、それらを見直し疑問点を指摘するのがリゲルの仕事であるが、当然分からないことだらけである。知らない単語や制度があれば、都度都度、領主に確認するか、資料を調べるかし、そうこうする内に一日は過ぎる。カインはリゲルを領主の補佐にと推してくれたのに、これでは勉強をしに来ているようなものだ。

 領主の為になど働いてやるつもりはない。だが、リゲルを見出してくれた人に報いたい気持ちは日に日に強くなる。それが成せないことが歯がゆい。若き日に短慮を起こした自身を、恥じる日々だ。


「……領主様、ここの数字なのですが、」

 昨年度の決算とかけ離れた部分が気になり、リゲルは領主に声をかける。領主たるアベイル・エルニは、これがどうして、リゲルのそうした質問を疎んじることはなかった。作業を中断させられる煩わしさも表に出すことはなく、淡々と、リゲルの問いに答えていく。そうした姿は、リゲルには酷く意外に思われた。領主からは確実に、好かれていない自覚があったので。

「どれ……ああ、魔物除けの柵だね」

「こんなに買い込む必要あると思えないんすけど……森の側にはバラカッドの木も生えてますし」

 アーガスト町の西、二つ村を越えた先にある森――通称魔獣の森は、その名の通り魔獣の住処となっている森である。森の奥深くには洞窟がある。魔獣の生まれ出ずるとされているその洞窟から溢れた魔獣は、森を跋扈し、時折人里へと下りてくる。

 魔獣に対抗する為に森との境界に植えられているのが、バラカッドの木だ。樹高は低く晩秋から黄色の小さい花を咲かせるその木は、春先に向けて実を付ける。手のひらに収まるくらいの、茶色く堅い実である。味は渋く、食用には向かない。

 そのような樹木が何故重用されわざわざ植林までされているのか。それがバラカッドの木の持つ特性、魔獣除けの効果である。魔獣は何故かバラカッドの木の匂いを嫌い、それのある場所を避ける傾向にある。特に花や実のついている季節に人里で魔獣を見ることは、先ずない。

 それ故、森に近い村はその境に木を植え、それより先は立ち入らないようにしているのである。

「わざわざ魔獣除けの柵を置く必要性は感じられないんすけど?」

「いや、必要になる。バラカッドの木はもうなくなるからね」

「……は?」

「バラカッドの木は伐採する。……少なくとも、今年花が咲かない程度には」

「……はああ?」

 こちらを向きもせず、領主は淡々と告げる。意味が分からず、リゲルは領主の机に詰め寄った。


 バラカッドの花は、魔獣を寄せ付けない。それは幼子ですら承知の事実で、何なら森の近くの村々ではバラカッドの花や実を乾燥させたものを小さな袋に入れ、お守り代わりに所持している程だ。その付近の出身であるエドマーも、後生大事に懐に小袋を入れている。

「何考えてんだ、あんた。んなことしたら、魔獣が襲って来るだろうが」

「その為の、柵だよ」

 隣の領は加工業が盛んである。バラカッドの木材を利用した魔獣除けの柵は、国内何処でも使用しない所のない、隣領の主要な特産物だ。それの交易量が昨年度より格段に増えている。

 木があれば柵は不要である。寧ろ只の柵より永年生える樹木の方が効果もあり、長期的に見れば植林した方が安全面でも費用面でも優れていると言える。それを捨て去る理由が、リゲルには分からない。

「いや、意味わかんねぇし」

「君に理解と承認を求めている訳ではないよ」

 縁なし眼鏡の奥、菫色の瞳が冷たく切り捨てる。苛々したリゲルは、ばん、と机を叩いた。

「っふざけんな、俺だってここの領民だ! 自分らが危険になるってわかってんのに、ロクな説明もなきゃ納得出来ねぇだろ?!」

「何を騒いでいるんだ」

 がなり立てるリゲルと、とことん冷めた様子のアベイル、均衡を破ったのは呆れたように扉から入って来たカインだった。

「執務室で吠えるな、リゲル」

「吠え……っあんたまで犬扱いすんな! っていうか、聞けよカイン、領主がバラカッドの木を伐採するとか言い出してよ……っ!!」

「ああ、その件か」

 至極あっさりとカインは言う。頓着なく執務室の中に入ってくるカインに、リゲルは目を見開いた。

「その件か、って……」

「説明はしていないのですか?」

「それが必要かい?」

「彼らには納得して執りかかって欲しいのですが」

「そうかい……好きにすると良い」

 進言するカインに応じる領主はふっと表情を和らげる。明らかにリゲルに対する態度と違う。

「何だよ、カインに対してだけいい子ぶりっこしやがって」

 思わず愚痴るリゲルの向こう、領主アベイル・エルニはまるで自覚がなかったとでも言いたげに、びしりと固まり目を見開いた。その顕著な反応にリゲルは一層可笑しくなる。

「無自覚かよ……明らか、カインと態度違うだろ」

「……そんなことはない」

 否定の言葉は思ったより頑なだった。動揺を露わにした領主は、困惑したようにカインを見た。しかし銀糸の向こう、僅か揺れた菫色の瞳はすうと眇められ、直ぐに表情は色を失くす。閉ざされた、と感じた。リゲルに対してだけではない。カインに対してもだ。

 この何を考えているか分からない領主が、唯一気を許しているように見えるのが、カインである。それは別に隠すようなことでもないと、リゲルは思うのだが。


「んん、……リゲル、最近屋敷で体調を崩している者が増えていると思わないか?」

 軌道修正を図るのはカインだった。領主の件には触れず、リゲルに話しかける。追求してやっても良かったのだが、リゲルはふんと鼻を鳴らして、それに乗ってやった。

「確かに、咳してる奴らが増えたなって。町の方でも……流行り病か?」

「まあ、それに類するものだろうな」

「何だよ、煮え切らない……それとバラカッドの木を伐ることと、何の関係があるんだよ?」

 むっとしながら問うリゲルに、カインは指で顎を擦る。説明しあぐねているといった体だ。

「……今年は、雨季が長かったから」

 ぼそり、と横合いから領主が口を出す。意固地になっているのかリゲルからは目を背けつつ、それでも会話には乗ってくれるようだ。

「雨季? それと病に何の関係があるんだよ」

「これを見てみると良い」

 領主がぞんざいに寄越す書面に、リゲルは目を落とす。過去数年の死傷者数の推移が載った資料だ。それが、どうしたというのか。

 ピンと来ず渋面で数字を追うリゲルに、領主は無機質に答える。

「雨季、と言ったろう。記録的長雨の続く年はそう多くない、そこの欄だ」

 領主の細い指がとんとんと該当個所を示す。今年、昨年、それから五年前、それより前だと大分昔で、十二年前となる。その年の死傷者数は例年より多い。当たり前だ。川の氾濫や不作で、死傷者は当然跳ね上がる。寧ろ暫定とはいえ、今年の数が平年と同じ程度に抑えられているのが異常に見える程だ。

 眉間に皺を寄せ書面と睨めっこをする耳に、冷たい視線が刺さる。

「雨季の後、病死者の数は劇的に増える」

 確かに。リゲルは数字をなぞる。豪雨の酷い年に、災害による被害もさながら、病で命を落とす者が平年より明らかに多くなっている。不可解な現象だ。

「……何で、」

「そこで問題となったのが、バラカッドの木だよ。――まあ、推測でしかないのだけれどね」

「……バラカッドが病気の原因?」

「恐らく。あの辺り出身の者は、皆バラカッドのお守りを所持していると聞くが?」

 リゲルの頭に浮かぶのはエドマーの姿だった。どんなにやさぐれようとも、婆ちゃんの作ってくれたお守りだけは肌身離さず持っていた。そんな姿を。

 怪訝に睨みつける先、領主はさらりと銀糸の前髪を掻き上げ、何処か煩わしそうに告げた。

「乾燥した花や実、これが長期間に渡って所持者の肺を蝕む」

「……何を、根拠に……」

「実際、この屋敷でも咳をしているのはあの地域の者だけだ」

 リゲルは目を瞬かせる。料理人となったエドマーと、後は使用人のメイドが同じようにゼイゼイと咳を発していた筈だった。

 顔を強ばらせるリゲルの肩を、カインが宥めるように叩いた。

「まだ彼らは重症化していないみたいだからな、大丈夫だろう」

「そうか……って、重症化する例もあるのか」

 カインは沈痛な面持ちで沈黙した。代わりに答える領主は平坦である。

「フラウとフレアな父君が亡くなったのも、この病に因るものだろうね」

「っえ、そうなのか?!」

 そうなのか、と聞き返したところで、リゲルにはその病状がピンと来ない。風邪だとか内臓疾患だとかなら分かるが。長期に渡って体内で燻る病など聞いたことがない。

「長年持ち続けることによって蓄積されたバラカッドの因子が、体内で悪さをするようになる。丁度、長雨で抗体が弱まるんだろう。この時期になると発症する者が増える――君の友人のようにね」

「……それで、木を伐るってのか」

「そう。要因は早めに取り除くべきだ。勿論、市民の持つ“お守り”も処分させるけどね」

「……それで良くなんのかよ」

「対処療法に過ぎないが、少なくとも悪化はしない。症状を抑えていく薬となると、また別途考えなければならないけれど」

 リゲルは困惑した。一度に流される情報量としては多く、そして信憑性も良く分からない。推測だと領主は言っていたが、カインの方を仰いでみれば、それが確定事項のように難しい顔で領主を見ている。

 

 ふう、と息を吐いて領主はリゲルの手の内にある書類を指さした。

「バラカッドは伐る。それで昨年より防御柵が必要になる。それが予算増額の理由。理解出来たかい?」

 そういえば、最初はそうした疑問から始まった筈なのだ。感情の持って行きどころが分からず、閉口するリゲルに、カインが苦笑した。

「まあ、丁度良かった。来週には作業に入ろうかと思っていた所だったから、お前等の仲間にも伝えておこうかと思ってな。ああ、エドマー君は外れてくれ。木に近寄ると悪化する恐れがある」

「住民の許可は取れたということかな?」

「ええ、まあ、十二分に納得したとは言い難いですが。少なくとも長たちの承諾は得られていますので」

「では問題ないね」

「概ね」

 リゲルを置き去りにして話は進んでいく。疑念を挟む余地はない。それは既に決定事項であり、こうしてリゲルに説明しているのはカインによる温情に過ぎないのだ。

「来週から忙しくなる……頼んだぞ、リゲル」

 カインに背を押され、何だか色々と引き返しのつかない所に来てしまったような心地が、リゲルにはした。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 決行は一週間後。カインの元に集められたのは、リゲルの仲間の荒くれ連中の内でも比較的素直で話の通りやすそうな者たち、十数名だった。

 日々の鍛錬の時間も、そうした性質を見抜くのにも使われていたのだろう。リゲルにしていたのと同じような説明を、カインは彼らに施した。リゲルと同じくピンと来ていない連中の前で、ゼェゼェと苦しげな息を吐きながら、後は任せた、とエドマーが口添えすることによって信憑性は増したようだ。

 魔獣の森はアーガストの町から半日程の距離である。馬を持っているのはカインだけなので、他の連中は必然的に歩きだ。

 領主の馬である灰斑のヒルデは、人ではなく荷車を引いている。伐採した木は隣の領に売りつけることになっていて、その運搬用だ。実に根回しが良い。


 足取りも重く魔獣の森へと向かい、一番近い村に着いて更に気を重くさせたのは、村人たちの反応だ。当然、住民から好意的な目は向けられないとは思っていたが、実際に敵意を剝き出しにされると滅入るなんてものではない。中でも気の荒そうな村人が、本当に伐らなければならないのか、伐った後の魔獣対策はどうするのだ、と既に済んでいる議論をぐちぐちぐちぐち、訴えて来る。

 その対応に責任者たるカインが足止めをされること数回。結局村外れの森へ着いたのは、夕刻を回ってからだった。夜になると魔獣の動きは活発になる。出来るなら日中の間にやっておきたかったとカインはぼやく。しかし作業を先延ばしにする気は更々ないようで、リゲルら一行は夕暮れに染まるバラカッドの木を伐採にかかった。

 樹高は然程高くなく、幹も細い。大量の黄色い花を咲かせているので、作業をする者は布で顔を覆っている。体質もあるがこうした花粉を蓄積することでいずれ重大な疾患に繋がることもあるということだ。用心に越したことはない。

 伐採は容易いが如何せん数が多い。作業中に日が暮れ、松明を灯すことになる。そうするとやって来るのが、魔獣たちだ。本来であればバラカッドの匂いを嫌う獣たちであるが、人の気配と炎に異様な興奮状態となったものが幾頭か、木の合間を擦り抜けて走り寄って来た。

 監督に徹するらしいカインは一切手を出さなかった。それらの魔獣を蹴散らすには十二分過ぎる力を持っている彼は基本不干渉で、代わりに魔獣の対処に当たったのはリゲルたちだった。意外、と自身で思うのも何だが、本当に意外にもリゲルらは苦戦しなかった。この辺りでは良く見かける兎型の小さな魔獣だけでなく、狼型をした中型の魔獣まで。多少の怪我人は出たものの、日頃の鍛錬のお陰か難なく処理することが出来た。素晴らしい成果と言える。

「はは、やるな。この分なら魔獣の大暴走スタンピードでも起こらない限り、お前らに任せて充分やっていけそうだ」

 カインが笑いながら褒める。そういう台詞は大体変に実現するので、やめて欲しいとリゲルは苦りきった顔になる。


 作業が全て終わったのは夜半近くなってからのことである。

 木の伐採だけでなく、柵の設置で随分と時間がかかった。森と村の境目を覆うように、暗がりの中柵を設置する。時間はかかったが、それこそカインの言うように魔獣の暴走でも起きない限りは耐え得るだろう。

 村の警邏だけでなく、リゲルら領主の私兵――いつの間にかそういった体裁になっていた――も、交代で夜間の警備に当たることになった。それこそ魔獣に対する備えもあるが、住民感情を抑える為でもある。バラカッドの木がなくなり、不安に感じる村人たちに、領主の方でも対応する心積もりはあるのだと。半ばポーズに近いが、体裁を整えるのも必要な行為であるらしい。リゲルにはその辺りは良く分からないので、領主とカインの言われるがままに従うことにしている。


 夜中に村の片隅で、積み上げられたバラカッドの枝、加工も出来ないほど細いそれや、花や、住民たちの持っていたお守りなどが火にくべられた。

 中には渋る者もいた。親から受け継いだお守りであるのに、と。もし病が万人に発症するものなら、そうした声を抑えるのは容易い。しかし遅効性の病は発症するもしないも、何歳で発症するかも、人それぞれの体質でしかない。それ故、常時バラカッドに触れていながら健康体である人も多い。完全に納得するのは、中々難しいのだろう。

 ケホケホと咳き込む少女がいた。おかあさんが残してくれたものなの、と。泣きながら村民たちに説得されて火にお守りを投げ入れる様は、憐れだった。

 リゲルにはそれが正しいのかどうか分からない。

 住民たちの嘆きを聞きながら、夜半だというのに明るく燃え盛る空を、只、見つめる。

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