5
町外れにある領主の館は、夜になると静けさを増す。手にしたランプから光が伸び、長い影が先行する。その影に追従するように、カインは廊下を歩いていた。廊下の照明は既に落とされている。蝋燭の揺らめくランプを掲げながら、カインは一つ一つの窓を確認していった。
既に時刻は深夜を回っている。使用人たちは離れで、領主は寝室で、それぞれ就寝していることだろう。
人気のなくなった屋敷内を、カインは点検していく。地下の倉庫、一階のホールや大広間、厨房、食堂。そして現在いる二階の廊下、居室。消灯も戸締まりも他の使用人たちが行っている筈だが、護衛の仕事として念の為に見回ることにしている。
暗く沈む窓を一つ一つ、確認していく。ガラスに映る男の相貌は、余り顔色が良いとは言えない。苦笑すると反射した鳶色の瞳も苦く細められる。
この二ヶ月、カムセト領に来てから働き詰めであった。当初想定していた護衛の任務ではなく、主に領地経営の補佐としての仕事であるが。
カムセト領へ訪れる道中に一度あった以降、アベイルを狙った襲撃はない。邪魔な存在ではあるが、わざわざ遠方まで命を狙いに行く必要性は感じない、というところか。只、領主としてのアベイルの動きはかなり派手である。田舎に隠居していれば良いものを、領地改革に乗り出し公費の使い方も尋常ではない。それが疎ましく思われ、再び命を狙われる可能性は十二分にあった。警戒をするに越したことはない。
圧倒的に人手が足らない。しかし安易に人を増やす訳にもいかない。実の父からも命を狙われるアベイルの身が、簡単にはそれを許さなかった。
頭を悩ませながらも、カインは淡々と業務をこなしていく。窓の確認を終え、居室の戸締まりを見ていく。二階の部屋は五室、内一室をアベイルが、その隣の部屋をカインが、それぞれ使用している。
左端の居室から確認していこうと手をかけた時、丁度右端の部屋の扉が内から開けられた。
「おや、カイン。見回りかい、ご苦労だね」
丁度部屋から出て来たアベイルが、カインを見つけゆるりと破顔した。
「ええ、……アベイル様は、まだ寝ないのですか?」
「ああ、上手く寝付けなくてね……お茶でも淹れようかと思ったのだけれど」
「……失礼ですが、ご自分で淹れられるのですか?」
「何事もやってみなければ分からないよ」
ガウンを纏ったアベイルはふわふわと言う。到底出来るとは思えないカインは、苦虫を噛み潰したような顔になった。
アベイルが夜食を求め、厨房で小火騒ぎを起こしたことは記憶に新しい。お貴族様ともあれば当然なのかも知れないが、それにしてもアベイルは群を抜いて身の回りのことが出来ない。
カインの所属していた騎士団にも貴族の子息は、それこそカインの友であるユージーンなども含め、多数いたものだが、少なくとも覚えればある程度の身の回りのことは出来ていなように思う。凡そ生活というものに向いていないのだ、アベイルは。
「……自分が淹れて来ます」
「そうか、それは助かるよ。では二人分、お願い出来るかな」
己の不得手は承知しているだろうアベイルは、嬉しげに目を細める。二人分、ということはカインも共にということだろうか。
互いにゆっくりと話をする時間もなかった。その良い契機であるのかも知れない。
カインはゆっくりと首肯すると、厨房へと向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
湯気の立つポットとカップを乗せた盆を手に二階へと戻る。アベイルの部屋のドアを軽く叩くと、どうぞ、と涼やかな声が迎えてくれた。
片手で扉を開ける。壁掛けのランプで照らされた薄暗い室内、窓際の椅子に腰掛けたアベイルが物憂げに迎えてくれた。
窓際に置かれたティーテーブルに肘を突き、考え事をする美青年は酷く絵になる。灯りに照らされ長い睫毛の下の瞳が翳って見える。銀糸の髪は今は括らず、肩口までさらりと覆っていた。色白で端正な顔立ちもあって、その様は中性的で美しい。
カインは静かに部屋に入る。その静寂に包まれた絵画のような光景を、無粋に打ち破るのは忍びない。
アベイルの部屋は、領主の居室にしては一見小さく見える。入口から見て正面にアベイルの座る椅子とテーブル、壁に僅かな書棚、それ以外の調度品のない簡素な部屋だ。しかし入口から見て左手の壁は、アーチ形にくりぬかれている。その向こうには大型のベッドが置かれた、大きな寝室があった。外から直接は入ることの出来ない、領主夫婦が過ごす想定で作られた部屋である。
ベッドのある寝室の、更にその奥に小さな部屋がある。カインとアベイルのいるこの小部屋と完全に対になったその部屋は、本来は館の主の妻が過ごす為の部屋である。 しかし現在その部屋はカインが使用していた。夜間に襲撃など不測の事態に備えて、領主の傍に控える為である。
――これだけ広いベッドも無駄になるし、何なら一緒に寝るかい?
居室を与えられた際、アベイルに冗談めかして言われ、カインは閉口した。何処に主と添い寝する従僕がいるのだ。おまけにカインは、男と同衾する趣味は持ち合わせていない。
結局大して家具も置けない小さな部屋に、ソファにもなる簡易ベッドを置くことで、カインの寝床は確保された。狭く硬いベッドだが、野営の時に比べれば全然マシであるし、だから今のところ同衾の必要性は更々感じてはいない。
「いい匂いだね。僕が淹れたら、こうはいかない」
ポットからコップに並々とミルクティーを注ぐ。茶葉と家畜の乳で煮出す方法は、実家の母が好むものであった。アベイルに褒められ気を良くして、自身の分も注ぎながらカインは口が軽くなる。
「この葉は自分の故郷で良く飲んでいたものですね」
「そうなのかい? 確かカインは、もっと南の生まれだったかな」
「ええ、西南のローウェル領の田舎町ですね。国境を越えて茶葉が良く流入して来るので、毎食紅茶ばかり飲んでいました」
アベイルに手で促され、カインも向かいに座る。カップを手にアベイルは優雅に茶を口にする。
「厨房に置いてあったのを見て、懐かしくて」
「なるほど、故郷へはもう随分帰っていないのかな」
「騎士団に入ってからは帰ってないですね。もう五年程になりますか」
「君は確か……長男だったか」
「ええ、下に弟妹が五人ほど。家業の農家を継いでも良かったのですが、直ぐ下のが継ぐというので、自分は稼ぎの良い騎士団へ」
柔らかな茶を口にすると、自然と故郷が思い起こされる。アベイルには良いように言ってしまったが、実の所、平穏な日々に飽いて半ば家出同然に飛び出して来たに過ぎない。地元では他に類を見ない剣の腕だったので、天狗になっていたというのもある。“ギフト”もあるし、早々他の者に負けはしないだろうと。
その鼻っ柱をへし折られ、第三騎士団の見習い騎士として入団したのはもう五年も前のことになる。時折手紙のやり取りはするが、些か気まずく、カインは未だ帰郷が出来ないでいる。今頃皆元気で過ごしているだろうか。
感傷的になったカインは、つい口を滑らせる。
「アベイル様は、次男でした、か」
口から出た言葉は取り消せない。家族のことは今のアベイルにとっては禁句と言っても良いだろう。そうと気付き、咄嗟に尻すぼみになるカインの動揺すらも知れたのだろう。アベイルは苦笑しながらそっと湯気の立つカップを置いた。
「そうだね、兄が一人、弟が一人。兄は宰相補佐を、弟は第一騎士団で一個大隊の隊長を務めているね。……優秀な兄弟に挟まれて、僕はこの体たらくだ」
くすりと自虐めいて笑うアベイルに、カインは渋面を作った。ちっとも笑えやしない。
「そんな顔をしないでくれ、実際に僕は家の名に泥を塗ってこんな辺境に飛ばされた訳だからね」
「……アベイル様は……領主として良くやっていると思いますが」
多分に上から目線の言葉になってしまったが、それはカインの本音である。アベイルがこれまでにどのようなことを行いどのような評価を受けていようと、カインがこれまでに見てきた彼の姿は、実直で真摯である。
アベイルが自身を大事にしない、自棄の傾向にあることは知れていた。彼が己を軽視する度に、カインの胸に言いしれぬ不安が押し寄せる。思えば大胆な領土改革も、己が身を省みない性分の所為であるとも思えた。普通の貴族であれば、己と家名の保身を考えるものだろうから。
アベイルに守るべきものは何もない、己も家名も、何も。領民の為というのも建前で、本音の部分では自身を蔑ろにしているだけではないか。それがカインには、酷く不安なのだった。
「余り褒められたやり方ではないと思うけどね。僕のやり方は只々任期中に領地が立ち行くようにと急いているだけだから。……住民感情を置き去りにして、ね」
長い睫毛が伏せられる。翳った菫色の瞳が、仄かな灯りで揺らめいた。
否定を、するべきなのだろう。しかし諦念に満ちたアベイルの憂い顔に、カインは言葉を飲み込むしかない。
「……そういえば、フレアが料理人を雇って欲しいと言っていましたが」
結局カインは話題を変えるしか出来ない。踏み込むことの出来ない何かが、アベイルの中にはあって、そこを覗き込むだけの勇気をカインは持てないでいる。
誤魔化すように口に含む紅茶は、とっくに温くなっている。
「ああ、そんなことを言っていたね。カインの方に訴えるとは、相変わらず強かな子だ」
「……自分も、思っていたことですから。この屋敷は、人が少な過ぎる」
「そうかい? 家族が住む訳でもないし、十分だと思うが……とはいえ、実際働く君らが言うのであれば負担があるのだろうね。検討しよう」
冷めた茶を飲み干し、アベイルは優雅にティーカップを置く。穏やかな空気は既に失せ、空虚な義務感だけが漂っている。
「……例の件についても、人手は必要と思いますが」
「そう、……それはそうかも知れないね」
「何ならその件、自分に任せては貰えないでしょうか」
立ち上がり、告げる先のアベイルは、虚を突かれたように目を丸くしていた。明らかに護衛騎士としての領分を逸脱しようとしている。だが、踏み込むことが出来ないのならば埋めるしかない。アベイルの虚無を少しでも埋めることでしか、己の失言は取り返せない気がしていた。
驚いたような表情は直ぐに消え、またアベイルはいつもの緩やかな笑みに戻る。
「なら、任せようかな。相応の報酬は払うよ」
「ありがとうございます。実家に仕送りでもしますよ」
放蕩息子からの金を受け取って貰えるかは知らないが。苦いカインの胸中を知るかのように、アベイルは薄く笑う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リゲルはアーガスト町の町長の家の次男として生まれた。
町長である父は、リゲルに相応の教育を施したがった。リゲルの年の離れた兄がそうであるように、学業に力を入れて、家業を手伝って欲しいのだと。
しかし残念なことに、リゲルは学問に対して一切の興味は持てなかった。親に言われるがままに、アーガストにあるこの近隣で唯一の学校に通ってはいたものの、授業は上の空、終わるや否や教室を飛び出し近くの丘を駆け回っていた。
リゲルは将来騎士になりたかったのだ。だから、まどろっこしい学問なんかに、時間を割くのは無意味だと考えていた。
暇さえあれば鍛錬と称して町外れの丘で棒切れを振り回していた。時には近所の子供らを引き連れて、稽古の真似事までしていた。残念ながら“ギフト”には恵まれなかったものの、リゲルはアーガストでは一番の腕っ節だった。ガキ大将だったのだ。
子供たちを引き連れ、棒切れを片手に野山を駆け回るリゲルは、12歳になっていた。ぼちぼちと家業を手伝う者もいる中、未だ淡い夢物語を抱いて浮ついているのはもうリゲルだけになっていた。
丘の上からは領主の館が見えた。かつて人嫌いの領主が町の片隅に作った屋敷は、町の中央に位置する町長の住まいよりも余程質素である。昨年までは温厚で人好きのする領主がこの地を治めていた。
しかし歳を理由に隠居した領主の代わりに、王都から寄越されたのは、横柄で金にがめつい貴族の嫌な部分を凝縮したような領主だった。
税金も上がった。人々の暮らし向きは悪くなった。
リゲルは騎士になりたかった。それも、正義の騎士だ。
正義の騎士は、悪徳領主を許しはしない。リゲルは近所の悪ガキどもを連れて領主館へ襲撃を行うことにした。酷く短絡的な思考である。
襲撃は未然に防がれた。リゲルが引き連れていた子供の一人が裏切り、町長たるリゲルの父へ告げ口をしたのだ。実の所、リゲルに従っていた子供らは、もうリゲルに付き合うのにうんざりしていた。リゲルと違い、彼らは順当に大人への階段を登ろうとしている。いつまでも正義ごっこを続け、騎士になりたいなどと夢想している、子供なのはリゲルだけだった。
行為は未然に防がれた為大事にはならず、リゲルの父の頭を悩ませるだけで済んだ。リゲルに与えられた罰は、より厳しく教育に励むことだった。義務づけられた科目は多く。自由に遊ぶ時間は格段に減った。
そしてリゲルは、グレた。学業をボイコットし、仕事もせず、家にも寄り付かず、町中で同じように燻っていた連中と連み、夜更けまで治安の悪い地域をたむろしていた。
騎士になりたいなどともう口にすることはなかった。貴族社会である騎士の世界で、庶民に開かれた門扉は酷く狭い。それを潜り抜けるだけの腕が自分にないことを、リゲルもそろそろ自覚し始めた頃だった。
酒場でくだを巻き、絡んでくる輩から金を巻き上げ、暇があれば女を抱く。そんな自堕落な生活を続け、気付けば18の歳を迎えていた。
悪徳領主はいつの間にか罷免になっていた。結局リゲルが何をするでもなく、自浄作用は発揮されるのだ。それが早いか遅いかの程度はあれど。
けれど、次にやって来た領主は、王都で問題を起こした悪役令息だという。王女の婚約者でありながらそれを破棄された重罪人。それは、“悪”だろう。
悪は断罪されるべきだ。リゲルは短絡的思考で仲間と共に武器を集めた。12の歳から何も成長していない。まるっきり子供のままであるが、リゲルの周りにいるのは皆同じような輩の為、誰も指摘する者はなかった。
雨季を前に赴任して来た新領主は、民衆の陳情も退け長雨に対する備えも何もしなかったと聞く。それによる損害も大分出たとか。聞きかじった情報だけでリゲルは着々と義憤を募らせて行く。
夏が過ぎ、秋が訪れようとしていた。リゲルはいつもの酒場にたむろしていた。
人員の確保は出来た。皆アーガストの町でそこそこ裕福な家庭の、次男坊か三男坊で、家督は継げずかといって自身で成り上がるだけの能力もない、そうした輩だった。だが、物資の調達は中々に難航した。足の付かない武器の入手にはかなりの時間を要してしまった。とまれ、ある程度の火薬と武器を手に入れることは出来た。
決行はもう間近、気の大きくなったリゲルたちは酒場で飲んだくれていた。決起集会とは名ばかりに、今の領主への不満や悪態、それを打ち倒した時の自分たちの名声、そういった軽率な話ばかりで盛り上がっていた。
――カララン、
入り口のカウベルが鳴ったのは夜半より少し前の時分である。リゲルらは訝しく入り口を見た。リゲルらが集う時、この酒場は貸し切りにしている。客が寄る筈はないのだ。
扉から入ってきたのは、頭からフード付きのマントを被った男である。質は良さそうだが使い古したらしい、端の部分が解れ始めたフードの隙間から、浅黒い肌が覗いている。
この辺りでは見かけない男だ。マントで体を隠してはいるが、体格から男である、と分かる。その腰に帯剣しているということも。
「何だ、客人。今日は貸し切りだ、余所を当たってくれ」
カウンターから荒くれた店主がぞんざいに手を振る。この店主もリゲルらの仲間で、親から暖簾分けしたこの店を大して繁盛もさせられず、こうして荒くれの集合場にしてしまう体たらくだった。ここに集った連中十数名は、大体がそうした仕様もない手合いである。
酒と暴力の臭いのする酒場に、マントの男は躊躇なくずんずんと入って来た。途端に周囲の荒くれたちが殺気立つのを、リゲルは手で制する。何の気負いもなく、それでいて隙もなく殺気立った男たちの間を歩く男は、只者ではない気配がしていた。
マントの男はぶしつけな視線を物ともせず、ずいずいとテーブルの間を縫い、リゲルの腰掛ける卓の前にやって来る。
「お前が町長の息子か」
フードを外した男が言った。若い男だ。つんつんと尖った黒髪は、肌の色も相俟って南方の出身であることが伺える。鳶色の瞳が冷静にリゲルを捕らえている。緩んだフードの隙間から、白い制服が見えた。
リゲルのかつて憧れて止まなかった、王国騎士の、制服だ。
ガタッと周りの荒くれどもが一斉に立ち上がる。王国騎士など、彼らの敵でしかない。リゲルはもう止める気はなかった。
「なんだぁ、てめぇ……ふざけやがって、ここをどこだと思ってやがる」
リゲルの隣に座っていた、恰幅の良い若者が赤ら顔で王国騎士に詰め寄る。実力だけで言えばリゲルの次に強い、武器屋の倅のガルムだ。体の幅は倍以上はあるだろう、騎士の前に立ったガルムは、勇んで男の胸元に掴みかかる。
「いいから表に出やがれ、相手してや……」
胸元を掴んだと、誰もが思った。間近で見ていたリゲルでさえ、錯覚した。
表に出やがれ、を言い切るより前に、ガルムの体は酒場の床に叩きつけられていた。何が起きたのか分からなかったガルムは、言葉を尻窄みに目を瞬かせている。掴みかかられた王国騎士がガルムをひっくり返したのだ。そこまでは分かる、リゲルだけでなく酒場にいる誰もが分かっている。しかしその動きを、目で追うことが出来なかった。
呆気に取られ静まりかえる酒場の中央で、マントの騎士はやれやれと襟元を押さえる。
「随分と血の気が多いな……成る程、領主邸の襲撃など考える訳だ」
「ってめ、その情報を何処で……っ」
椅子を蹴り倒しリゲルは立ち上がる。しこたま飲んだ酒は完全には抜けきっていない。しかし先程のガルムの様子を見て、直ぐに襲いかかるような愚かに走る程には残っていなかった。
「なあ、……お前ら、随分と力と暇を持て余しているように見える。だったら、働いてみないか」
場違いに友好的に、騎士は両手を開き提案して来る。意味が分からない。訝しむ荒くれを前に、王国騎士はシニカルに笑う。
「お前たちの襲おうとしていた、“領主様”に雇われてみないか、と提案している」
酒場に再び殺気が満ちた。挑発するような王国騎士――どうやら領主の配下であるらしいその男に、数多の殺意が向けられる。よせ、リゲルが忠告する間もなく、ナイフや棍棒を片手に輩たちは一斉に騎士に襲いかかる。
数瞬の後、それらは全て叩き伏せられていた。
「……っはは、」
リゲルの口から乾いた笑いが漏れる。次元が違う。
酒場には呻き声が溢れている。荒くれどもは全員床に倒れていた。武器は辺りに散らばり、背中から床に打ち付けられた大の男たちが堪らず唸っているのだった。
王国騎士は静かに酒場の中央に佇んでいた。動いたが故にマントははだけ、騎士の証である翻る鷲の記章のついた制服が露わになっている。だが、それだけだった。彼は剣を抜いてすらいない。恐らく“ギフト”持ちであろうことは察せられた。けれどそれだけだ。リゲルには彼の動きが分からなかったので、それ以上にどうとも判断のしようがない。
素手で幾多の男たちを倒した騎士は、悠然とリゲルの方へ顔を向ける。敵わない。悟りながらも、リゲルは王国騎士の前に立った。酔いは疾うに消えている。
「……相手をして欲しい」
気付けばリゲルは、騎士を前にしそう告げていた。腰に下げていた剣を抜く。いつか騎士になりたいと、夢想していた頃に親にせがんで買って貰ったものだった。まだ子供の時分のことである。だから、剣の長さは大人が扱うには些か短い。それでも手放せず、ずっと携えていたそれを相手に向ける。
騎士は、鳶色の瞳を細めてリゲルを見た。そして腰の剣を抜く。気負いはない。冷静で隙のない姿勢だった。戦い慣れている、一瞬でそれが分かる。
幾度となく繰り返した鍛錬が無意味と化すようで、僅か切っ先を震わせながらリゲルは剣を構える。一太刀、せめて、一太刀でいい。それだけでかつての己が報われる気がする。
「っうぉおおおおっ!!」
怯えを隠すように叫ぶ。相手の切っ先はぶれない。
力を込めた剣を振り下ろす。届くように、届くように。
キィン、高い金属音と共に手の内の剣が重さを失う。折られたのだ。自覚した時には相手の剣が眼前に迫っていた。
死を、覚悟した。実に呆気ないものだ。
しかし目前に迫った死はリゲルを捕らえてはくれなかった。切っ先は首筋に当てられ、そして下ろされる。死すら与えられないまま完全に敗北したリゲルは、膝から崩れ落ちた。
力の抜けた手から剣の柄が落ちる。途中から叩き折られたそれは、リゲルの幼い矜持のようだった。
「…………参った。降参だ……どうとでもしてくれ」
辛うじて口から苦く紡ぐ。相手は王国騎士である。それも恐らく、領主の手の者だ。どうしてか知れないがリゲルたちの謀反の計画も知られていた。この場で殺さないのは見せしめの処刑でもするつもりなのだろう。それも構わない、と折れた心でリゲルは考える。騎士になりたいなど無謀な夢を抱き、叶わないからと腐り、悪を倒すなどと嘯きながら只の八つ当たりをしようとする。現実を見られないガキには、こんな顛末がお似合いだろう。
「ああ、それは願ったり叶ったりだ。こちらは兎に角人手が足りない。先にも言ったが、お前たちには領主様の元で働いて貰う」
息の一つも乱さず、さらりと騎士は告げた。見上げるリゲルはぽかんと、目を瞬かせる。どうとでもしてくれ、とは言ったが、そういう意味ではないのだが。
「煮るなり焼くなり好きに使ってくれ、と言った言葉、後悔するなよ」
そこまでは言っていない。抗議する間もなく、しゃがみ込んだ騎士に顔を覗き込まれる。鳶色の瞳が、酷く楽しげに眇められていた。
そうしてリゲルは、領主の下僕の下僕となった。
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