第捌章

「ねぇねぇ、おかーさんとおとーさんとおねーちゃんとおにーちゃんはいつ来るの?」

 生憎と、霜乃華担当の看護師はお昼休憩で席を外していた。ゆえに、その質問への返答を返す者はいない。

「はーやーく、かーいーてー」

 小さいてのひらを差し出して、霜乃華は空に向かって喋り続けた。幼い少女が空気に向かって話す、その光景は傍から見ればさぞかし珍妙に映るだろう。

「こたえてってば‼」

 とうとう待ちきれずに、声を荒げて歩き出す。よたよた、ふらふら、歩き始めたばかりの赤子のごとく不安定な歩行を見せた。

「だれか‼ ねー来てっ‼」

 思い切り眉を顰め、手探りで探し出した病室のドアを開け放って廊下へ飛び出す。

「だーれーかー‼ ねえねえねえねえねえ」


 ——思えば、この頃にも兆候はあった。




「やだやだやだ‼ なにするの⁉」


 ——初めの頃はまだマシだった。いつかはどうにかなると、この事態を甘んじて受け止めていたのだ。

「だれか」

 今、自分は何と言っている? 頭で話す内容を考えて、喉を震わせる。ただそれだけの動作に、〝聞こえない〟というものが付いただけで不安になる。

「だれか」

 今、自分の言葉に耳を傾けてくれる人は目の前にいるのか? 誰もいない空気に向かって話していたら、それはひとがりな行動に思えて怖い。

「ねぇねぇ、」

 そこまで訊きかけて、霜乃華はぴたりと言葉を止めた。

 周囲の空気が微かに揺らいで、霜乃華の後れ毛を誰かが耳に掛けてくれる。

「やっ」

 しかし霜乃華はその他人ひとを、全力で拒絶した。女性看護師だろう者の手を叩いて振り払い、辺りのイスにぶつかりながら部屋中を走り回る。


 ——も、う、ぜんぶ、が、こわい。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 明らかに情緒不安定な混乱状態。

 知らない誰かが、そっと霜乃華の手首へ触れる。

「やめ、だれ、あなたは知らない‼」

 全てを拒絶して、本当の〝助け〟を求める。


「そうやって手をさし出すなら、ほんとに助けてよぉ……っ」


 日常的に能天気で考えなしの霜乃華。しかし考える時間は幾らでもあった。

 現実を見て、受け止めようと努力した……が、受け止めきれなかった。現実は、想像より遥かに固く重い。

 ——ㇵッ、ㇵッ、ㇵッ。

 苦しい。急に体を動かした所為か、それとも心が疲れ果てている所為か。


 ——結局、人は壊れてしまうのだ。

 ——一筋の光が見えたと思いそちらに向かって駆けても、実際はそこに光など無かった。

 ——前向きポジティブな者こそ、失望した時の喪失感は人一倍大きい。

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