第肆章

 ここ数日で、霜乃華は自分の置かれている状況が何となく分かってきた。否、正直なことを言うと理解したくなかったのだから『分かってしまった』の方が正しいのかもしれない。

 霜乃華の居るところは、白鳥邸からさほど遠くはない石亀いしがめ病院の病室だ。設備は整っているが如何せん田舎の病院なので、施設自体の大きさは高が知れていた。霜乃華の病室は特別室と呼ばれる個室であるため、シャワー室付きの良い待遇だ。

「おなかへった」

 霜乃華は、暗闇の先に居るであろう誰かに告げてみた。己の要望を口に出せば、大抵のことはすぐにでも叶えてもらえた。

『おなかへった。ごはん食べたい』

 ——少し経てば、目の前にほかほかと温かい食事(であろう何か)が用意され、誰かがそれを手ずから食べさせてくれる。

『みんなに会いたい』

 ——それはすぐには叶わなかったが、毎日夕刻頃には家族と思わしき誰かが来て、手を握ったり抱き締めたりとその存在を示してから帰っていった。両親は勿論、穂乃華や漣も来ているようだ。くすぐるような触れ方は穂乃華、がっちりと手を握るのは漣だと判断した。

 聞こえないのだから、当然のように会話は成立しない。こちらが一方的に話しかけるか、あちらが一方的に話しかけるか。それだけだった。

『ねぇだれか、こっち来て』

 触覚が失われずに有ったことは、不幸中の幸いだろうか。

 誰か、誰かと呼びかけると、決まって〝あの人〟がやって来る。ごつごつした手の感覚や乱暴に頭を撫でるその行動から、霜乃華はその人とその他の人を区別した。その人は此処の男性医師で、寂しい頭の気のいいおっちゃんだ。

 そっと手を取られて、掌に丸い何かを握らされる。少し粘着質で固いそれは、毎日のようにこのおっちゃん・橋本はしもと あつしから貰っている飴玉だ。

 ぱくりと口内へ放り込み、舌で転がそうともその甘味は感じない。ただ空腹感を満たすだけであるが、彼も優しさであった。

 粘ついた掌を、淳がウエットティッシュで拭いてくれる。

「ありがとっ」

「        」

 近くで感じる吐息。微かな空気の揺らぎ。

 多くの感覚が失われたせいか、霜乃華は触覚と感覚が異常なほどに発達していた。

 第六感とでも言うべきであろうこの感覚は、周囲に誰かがいることを確認することができ霜乃華に少なからず安堵をもたらす。


 ——だけ、ど。

 嗚呼、辛い。嗚呼、苦しい。

 まともな会話、はたまた意思疎通ができないのは辛くて苦しくて悲しい。例え返事が返ってきていたとしても、聞こえていないのならば相手にされないのと同じことだ。

 〝言葉のキャッチ—ボールが、せめて意思疎通ができれば〟。

 思考はネガティブな方向に向かうばかりで、明るい方へは傾かない。

 真っ暗な闇が心を蝕み、不安を煽ると同時に空虚感ばかりを感じさせた。

 ——なんで、こんなにもさみしさを感じるのかな。

 嗚呼、暗い。



「光が見たい」



 ——それは、幾ら経とうと叶えられぬただ一つの願いだった。

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