第弐章 

 ——その日は、父・白鳥 一也かずやに送られ塾へと向かっていた。

 いつものように問題を解き、定刻になると自然に解散。

 家族が迎えに来る人や、一人で帰る人もいる。ちなみに霜乃華は前者の方で、送り迎えの全てが家族の送迎であった。

「なんか甘やかされてるみたいではずかしい」

「霜乃華は甘やかされてていいよー。可愛い子は甘やかすのが親の特権だからね~」

 一也はそう言って聞かなかった。

 この日も父に送られ、父の迎えが来る。

「今は舞依さんが買い物に行っててー。車がないから自転車で来たよ」

 霜乃華は、自転車のサドルより後ろに付けてあるイスに座った。所謂いわゆる二人乗り自転車だ。最近Ama〇nで購入したためまだ新品に近い。綺麗なイスは、想像よりもずっと座り心地が良かった。



 暫く自転車に乗り、熱唱しながら歩道を悠々と進む。

 ——と。

「えっ?」

 霜乃華は素っ頓狂な声を口から漏らした。


 キキィッ——。

 ドカッ———。


 急激にぐにゃりと狭まる視界に映ったのは、車のボンネットらしき青いものと壊れて歪んだ自転車のペダルやチェーンだった。

「——霜乃華⁉ 誰か、救急車を‼」

 暗い。目の前に闇が広がっているようだ。

 痛い。身体が動かない。

「いたいいたいいたい」

 霜乃華は、想像を絶する痛みに悶える。生温いものが額と腹部から伝い、汗がどっと吹き出した。

 生憎と視界は真っ暗なままで、何も見えやしない。

 現時点での霜乃華は、出血多量で気絶寸前の状態だ。

「っつぅ……たすけて」

 失神をすると、人は痛みさえも感じなくなるという。意識を失ってしまいたいと思えるほどの苦痛を耐え忍びながら、霜乃華の見る世界はチカチカと白黒の光が瞬きぐにゃぁっと形を崩した。



 ♢♢♢



 白鳥 霜乃華はこの日、車の追突事故に巻き込まれた。

 追突の衝撃で吹き飛んだ車が霧乃華を押し潰しただけの、不遇な事故だ。日本の交通事故の約40%は、車同士の追突事故で構成されている。

——おなかと頭がいたい。なんでだろ?



「霜乃華さんの神経は衝撃で切断され、視覚・聴覚・嗅覚・味覚がない状態です。頭部に外力が加わった結果生じる脳震盪のうしんとうの可能性もありますので、事故の記憶が飛んでいるかもしれません。触覚と意識はありますが、こちらから声をかけても聞こえないので、意思疎通は難しいかと」

 病院の医者が、ベットに座り布団をぺたぺた触る霜乃華を一瞥して言い放つ。

「そんなっ」

 ——ねぇ、今どうなってるの?

「ねぇねぇ。だれかいるなら電気つけてほしいなぁ。真っ暗だからなんにも見えないの。なんにも聞こえないし。だれかいますかぁー?」

 ひゅ、と家族皆が息を飲む。

「先程からずっとこのような状態でして。話しかけても聞こえない、人がいることにさえ気付けない、微かな風音さえ拾い上げることができない。我々には想像のできない恐ろしさでしょうなぁ」

 頭の寂しい中年医師が、痛ましそうな顔で霜乃華を眺める。眉尻を下げぽりぽりと頭を掻くその姿は、お手上げだと暗に告げているようなものだ。

 霜乃華の手に縋り付いて、さめざめと舞依が泣き始める。顎の先から滴り落ちた涙の粒が、布団を濡らしていった。

「そのちゃん? 何かの間違いでしょう? ほら起きて。もうこんな時間よ」

「人の手? あったかいけど……だれ? みんな、どこ行ったの?」

 己の母親の言葉を無視し、霜乃華は話し続ける。

 聞こえないのだ。見えない、聞こえない、味がない、匂いがしない。

「こわい」

 果たして、人は想像できるだろうか。音のない闇のみの世界で、ただ独り孤独な自分の姿を。

「おかーさん、おとーさん? おねーちゃん、おにーちゃん」

 ——どこに、いる? 今触っている物の感触は伝わってくる。ふわふわの布だ。恐らくは布団などの類だろう。

 怖い、怖い、怖い。

 思考はまったくもってネガティブだ。


 

 ——何が、どうなってる?

 ——助けて。



「たすけて」



 放った声は届いても、届いたかどうか本人には分からない。

 其処に在るのは恐怖、恐怖、恐怖。

 誰もが、絶望に胸を沈ませた。

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