第22話 舞姫
「緑川さんが遊びに来るなら、私と藍田くんがシフト一緒の方がいいよね?」
教室に戻ると、葉山はメイド服から制服に着替えた。
「緑川さんと瑠璃垣さんは、最近仲いいの?」
葉山は俺の隣に席を持ってきて、かなり近い距離に座った。教室では、クラスメイト達が最後の仕上げに取り掛かっている。
「ねえ、藍田くん。文化祭、一緒に回らない? 友達と回る予定だったんだけどね、時間が合わないみたいなんだ。それで、藍田くんが良ければ……」
「葉山は、どうして俺を誘うの?」
「え……? あっ、ごめん、もう別の人に誘われてた?」
「……葉山とは一緒に行けない」
顔を背けた葉山は、手を膝の上において、ぎゅっとスカートの裾を握り込む。それを見ていると、何も言えなくなりそうだった。葉山は小さい手で、必死に何かを掴もうとしていた。
「私、何か勘違いしてたのかな……藍田くんって、いまフリーなんだよね? というか、やっぱり私が相手じゃ迷惑――」
口元を手で抑えて、葉山は何かを我慢するように押し黙った。血の気の引いた彼女の首筋が、怖いくらいに白く見えた。俺は、静かに質問を繰り返した。
「――どうして、俺なの?」
「理由って必要なのかな? 逆に、藍田くんはどうして緑川さんなの? 私じゃ駄目な理由って何……おしえてよ」
泣き出すかと思ったけれど、葉山は身体に力を込めるみたいに、ぐっとこらえた。
「緑川さんのことは忘れて、私にしておきなよ。あの人ほどじゃないけど、私もけっこうかわいいよ? なんて、あはは……」
自虐するように言う葉山は、ちっとも笑っていなかった。笑うふりだけして、ひたすら俯いている。ひどいことだけど、俺は、こんなとき緑川ならどうするかを考えていた。
もし葉山が緑川だったら、彼女は泣いたり、落ち込んだりしない。ましてや、笑いたくもないのに、笑わないだろう。
「葉山は、緑川じゃないから」
二人は別人で、俺が好きなのは、葉山じゃない。それは、葉山も分かってるはずだ。
「……そんなに好きならさあ、別れたら駄目じゃん。ちゃんと緑川さんのこと、見ててあげないと」
俺の方を見た葉山は、涙目で俺のことを睨んだ。
「期待させないでよ……ひどいよ」
俺が何か言葉をかけようとすると、葉山は、
「慰めないで……!」
と俺を拒絶した。結局、俺は何も言えず、席を立った。
+++
『いま、どこにいる?』
緑川にメッセージを送ったが、既読は付かなかった。
『緑川に会いたい』
図書室、空き教室の順で覗いたけれど、緑川はいなかった。空き教室はほとんど展示が完成していて、壁掛け新聞もパーテンションに固定されている。
そのうちの一つに目が留まった。
『舞姫』森鴎外の作品。
新聞のあらすじには、ドイツ留学中の豊太郎が、踊り子のエリスと恋に落ち、自らの生き方に苦悩する物語、と書かれている。豊太郎は仕事上の出世と、真実の愛との間に揺れる。エリスが妊娠していることを知った豊太郎の選択は……?
壁掛け新聞には、結末は書かれていなかった。
俺はスマホを取り出して、もう一度緑川にメッセージを送る。
『舞姫の結末を教えてほしい』
メッセージの着信音が、背後で聞こえた。背中に何かが強く当たる感触があった。
「振り返らないこと、いいね?」
振り返ったら、もう一発なぐる、と緑川は言った。
「舞姫ぐらい図書室にあるだろう? 借りてきてあげようか?」
「……緑川に聞きたかったんだ」
緑川は深く、溜め息をついた。
「君がどういうつもりで言っているのか、私には分からないよ……。さっき、君と葉山さんの邪魔をしたから、御機嫌取りでもしに来たの?」
俺は振り返って、緑川を見た。
「殴るって言ったよ」
「いいよ、緑川なら」
緑川は困惑したような、諦めたような顔をして、ぽすっと俺のお腹を殴る。彼女は俺と目を合わせないようにしていて、不機嫌そうに唇を真一文字に結んでいた。
「私は君の何? 都合のいい図書委員? それとも、ただの緑川? 恋人の伊織ではないんだろう?」
何かを諦めたように、緑川は力なく言う。
「エリスは、豊太郎の友人から、彼が日本へ帰ってしまうという話を聞かされるんだ。エリスは精神を病んで、パラノイアに陥ってしまう。豊太郎がもう一度、彼女に会いに来た時には、エリスはもうまともに話すことも出来なくなっていた。豊太郎はそんな彼女を置いて、日本に帰る。舞姫って、そういう話だよ」
豊太郎は君に似ていると思わない? と緑川は呟いた。
「私と君が恋人じゃないって、瑠璃垣さんから聞いたとき、私は何も考えられなくなったよ。息が詰まって、呼吸が出来なくなった。さっきだって、君が葉山さんと一緒にいるのを見て、もう恋人じゃないのに嫉妬して、めちゃくちゃにしたいって気持ちを我慢できなかった……エリスみたいにね」
下を向いたまま、緑川は手で顔を覆った。くぐもった声は、泣いているみたいだった。
「私は君のことが好きなのに、君が幸せそうにしていると嫌な気分になった。君と葉山さんに意地悪なことを言うのを我慢できなくて、私は自分がもっと嫌いになったよ。君に好きになってもらいたいのに、ひどいことを言うたびに、すごくすかっとした。君を傷付けると自分だって傷付くのに、それがすごく気持ちいいんだ」
嗚呼、と緑川は声を漏らした。はは、ははは、と乾いた笑い声を上げる。
「私は今でも君のことが好きだ……! 好きなんだ……」
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