第3話 犬も食わない

 緑川と付き合い始めて、一番の変化はクラスの女子に頻繁に話しかけられるようになったことだ。


 といっても、大抵は緑川についてで、普段どんなことを話すのかとか、何が好きなのかとか、本人に尋ねればいいことを、何故だか俺に聞いてくる。


 緑川は駅前の洋菓子店のアップルパイが好きで、食べるときにはコーヒーを淹れること、とか。


 深夜に突然難読漢字を送ってきて、君には読めないだろ、私は読めたけど、と謎の自慢を始めること、とか。


 おすすめだと言って渡してきたミステリのネタバレを意気揚々と話すこと、とか。


 そういうことを話すと、クラスの女子たちはなぜだかにやにやしはじめる上に、そういう時に限って、緑川がやってきて、俺をからかう。


「楽しそうに話してるじゃないか。君は案外、モテるんだねえ」


「どう見ても、そういう場面じゃないでしょ」


「私という恋人がありながら、いけないなあ」


「だから……」


 などと言い合っていると、女子たちは逃げていき、疲労ばかりがたまっていく。 


 ある日、そんなことが続いて、俺は苛立っていた。


「君を満足させられない、ふがいない恋人でわるかったね」


 とか、


「恋人がモテるのは、嬉しい限りだ。ふふふ」


 とか言うのを、いちいち否定していたのだけれど、ついに、


「告白したのは私だものね。君も本当は嫌だったんだろう?」


 という緑川の言葉にキレてしまった。


「確かに、俺が好きになった人はそういう嫌味は言わない」


 緑川が一瞬おびえたような目をしたのが見えたが、止まらなかった。


「馬鹿にしてるだろ」


 俺は俺なりに緑川のことを好きだったけれど、それが伝わっていなかったのがショックだった。ずっと、渋々付き合っていると思われていたんだろうか。それなら、いちいち突っかかってくる理由にもなる。


 ……だとしたら、そんなことを言わせた俺の責任だ。


 緑川は唇を引き結んで、俺をじっと見ていた。その表情は怒っているようにも見えたけれど、すぐに、緑川はその場から離れていった。


 それから一週間、俺たちは顔も合わせなかった。


+++


 連絡が来たのは、昼休みだった。


「放課後、会えるかな?」


 とだけメッセージが届いていた。俺は緑川の席まで行って、


「今でもいい?」


 と話しかけた。


 緑色の瞳が、まっすぐに俺を見つめた。彼女は何か言いかけてから、思い直したように口を閉じた。


 そして、静かに頷いて、


「場所を変えよう」


 と小さな声で言った。


 俺たちは昇降口の下駄箱前に移動した。空き教室はどこも先客がいたからだ。


 緑川は小さな紙袋を手に持っていた。


 俺はまず初めに、言わないといけないことから話すことにした。


「まず言っておくけど、俺は謝るつもりはないよ。間違ったことを言ったつもりはない」


 頷きつつも、緑川の瞳に不安げな光が宿る。俺は話を続けた。


「だけど、それはが間違っているからだ、って言うつもりもない。俺は、伊織が言うことには、ぜんぶ意味があるはずだと思ってる」


 緑川が口を半開きにして、固まる。どんな間抜け面をしていても、様になるのが憎らしかった。


「聞いてる?」


「ねえ、君。私の名前をフルネームで言ってくれる?」


「緑川伊織」


「さっき、君は何て言った?」



 まぶたを閉じた緑川は噛み締めるように深く頷いて、


「……君が、私のことをどう思ってるのか、しっかり受け止めたよ」


 その上でなんだけど、と緑川は続ける。


「謝ろう、と本当は思っていたんだよ? だけどねえ、言う気が失せた」


 俺の肩に思いっきり、正拳突きをしてきた。


「今のは、照れ隠しのぶん」


「は?」


 腕を入れ替えるように、緑川はもう片方の手で、正拳突きした。骨がぶつかって、ごり、と音がした。めっちゃ痛かった。


「っ……今のは、君がそういうことをさらっと言ってしまう人間であること、のぶん」


「怒っていい?」


「いや、いま怒っているのは私だから、君の番はもう少し待ってくれるかな」


 緑川も痛かったのか、手をふるふると振った。涙目になっている。


「私は、君に嫌われたかと思って……た。君は、人によく好かれるし」


 また、緑川の瞳がきらきらと光り出した。その綺麗な瞳で、緑川は俺を見る。


「まあ、いいや。ゆるしてあげるよ。君が案外、私のことを好きだってことも分かったし」


「こっちの台詞だよ。下の名前で呼ばれて、泣くほどうれしかったなんてね」


「……そういうことにしておいてあげるよ」


「それじゃあ、そういうことで」


 それで、俺と緑川は仲直りした。


 埋め合わせに、遊園地に連れていくように、と緑川は言った。それから、手にしていた紙袋から、小さなチャームを取り出した。


 小さな緑の宝石のついた花の模様のペンダントだった。


「これ、何の花?」


「意味は知らなくていいよ。肌身離さず持って、それを見るたび、私を思い出すように」


「伊織の瞳の色といっしょだ」


「……口にしなくてもいいことだってあるよ」


 そう言うわりに、緑川はうれしそうににやにやしていた。

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