うっかり海に行きたい
教室には気怠い空気が漂っている。
天井に設置されている年季の入ったエアコンはハネをパタパタと上下に振り、ギーギーと小さく鳴いている。一生懸命に冷気を届けようとしているが、この暑さの中では心許ない。シャーペンを持つ手にはうっすらと汗が滲み、ノートがふやける。ジメジメと暑い。せめて、生地の薄い夏用スカートを履いてきていれば。黒板の前では教師が意味不明な数式を使って、落としたボールの速さがどうのこうのと訳のわからないことを言っている。そんなことを私が知ってどうなるというのだ。鉄球を屋上から落とすな。危ない。
tだVだと、異星語の書かれた黒板から、窓の外に視線を移す。真っ青な空に入道雲が要塞のように立ち昇っている。その姿は雄大で、アニメーションの巨匠たちがこぞって空の青と雲の白を描くのもうなずける。その夏の権化とでもいうべき空を眺めていると、ある衝動が全身を駆け巡る。
「ああ、海に行きたい」
制服のまま、靴下とローファーを脱いで砂浜を踏みしめたい。寄せては返す波に人生を重ねたい。そして、なぜか気になる男の子とふたりきりになって、海の向こうに隠れていく夕日を一緒に眺めたい。本来なら海にいる私がなぜこんなところにいるのだ。未来を担う学生の貴重な青春(ver.夏)をこんな狭く四角い教室で空費させている、その損失、もとい過失に学校は気が付いているのか。地動説を唱えたことにより異端審問で有罪となったガリレオに対し、近年のローマ教皇が謝罪したのと同じように、お前らは300年後、私たちに謝ることになるだろう。
そんなことを考えていると授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
と、誰しもこんな学生時代があったことだろう。
学校をエスケープし、夏に誘われて海に行きたいと願ったことが。そして、それを阻む教師を恨めしく思ったことが。現在、私は学校教員をやっている。その教師の立場である。黒板の前で講釈垂れる教師が何を思っているのか、この立場になって分かった。
「ああ、海に行きたい」
海に行きたいのだ。
幕末、黒船と一緒にレジャーとしての海水浴が日本にやってきて以来、青空の広がる夏には海に行くのが日本人の習わしである。それなのに、なぜこうも汗だくになり、黒板の前で声を張り上げているのだ。生徒を「僕の海行きを阻む者」として恨めしくさえ思う。私の場合は、通勤時、バスに揺られている時から「海に行きたい」「このバスが海まで連れて行ってくれないかな」と思っている。殊に、僕は島根県出雲市の生まれであり、青春を日本海と共に生きてきたため、海の恋しさは一入である。
教室にいる全員の思いは一致している。今度、授業中にクラスみんなで海に行こうかな。
数年前、「会社員の女性が通勤電車で降りる駅をうっかり逃してしまい、ビーチに来てしまう」というテレビCMがあった。私も降りる駅をうっかり逃して海に来ちゃいたい。京都市在住だけど。夏の陽気に誘われ、うっかり日本海に来ちゃいたい。
朝、勤務する学校に向かう。
学校は家の近所のバス停から市バスに揺られて10分ほどのところにある。いつも通り、バスに乗り込む。しかし、うっかりと学校とは反対方向へ向かうバスに乗ってしまう。うっかり。そして着くのは京都駅である。J R京都駅でバスを降りる。この時点ではまだ、いつもの通勤経路を外れていることに気がついていない。なにせ、うっかりしているので。
J R京都駅では窓口で特急券を買う。ついでに駅弁も買う。これまたうっかり。うっかりの人。うっかり日本代表。そして0番ホームで待つ。このあたりでは、「“0”ってかっこいいよな。異端さがかっこいい。インドで生まれたという“出自”がはっきりしているのもかっこいい」などと考えている。白く長い電車が0番ホームに入ってくる。大阪、京都と北陸を繋ぐ特急、『サンダーバード』である。私はこれにうっかりと乗り込む。旅券に書かれた番号の座席を探し、ぼすんと座る。そして、発車した『サンダーバード』に揺られ、流れゆく景色をボーッと見つめるのだ。少しすると大きな湖が見えてくる。琵琶湖だ。さすがにこの辺りで気が付き始める。「もしかして通勤経路から外れてる?」と。
なんやかんやあって、私は日本海を臨むビーチにいる。マリンブルーの海が宝石のようにキラキラと光る。真っ白な焼けた砂の上に仰向けに倒れ込む。夏の日差しが眩しい。
「水野先生、それで、今どこにいるんですか?」
「わからないです。潮の香りがします」
あー海いきたい。
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