正義で踊り、正義でウォッカを呷る

ロンドンの語学学校に通っていた頃、ナイトクラブへ行ったことがある。


私はナイトクラブを楽しめるような人間ではない。好きな音楽は部屋の隅っこでヘッドホンを通して聴きたいし、お酒は記憶が無くなるので飲みたくないし、身体を動かしてウケを取るほどお笑いに強くはない。大学生の頃、ひとりで大きなナイトクラブに行ったことがあるが、その時は「ボケがよ!」と吐き捨てて帰った記憶がある。それ以来、私は「ナイトクラブとかは向いていない」という自覚を小脇に抱えて人生を送ってきた。


そんな私だが、懇意にしている語学学校のメイトたちに誘われたので行くことにした。「行くことにした」というより、英語がわからず、「イエス、イエス」と言いながらヘラヘラしていたら、いつの間にかメンバーに加えられていた。私のロンドンはずっとこんな感じであった。いい加減に「イエス、イエス」と言っていたら、目の前に大麻があったこともある。まあ、初めてのナイトクラブから年月は流れ、私は大人になり、趣味嗜好も変わった。もしかしたら楽しめるかもしれない。一応、空気感に馴染めなかったときのためにカバンにはキンドル端末を忍ばせた。最悪、隅っこに座ってナイトクラブで殺人事件が起こる小説を読めばいい。


会場に着くと、入り口前には長い行列ができていた。もうこの時点で騒々しい。世界的にも有名なナイトクラブらしく、最大収容人数は2500人にもなるらしい。2500人て、街じゃん。入り口でパスポートを提示し、顔の写真を撮られ、スマホのカメラ部分にシールを貼り、所持品検査を受け、入場料金を払ってから中に入る。全然、入国検査より厳重だ。ここからが本当のイギリスかもしれない。


入場ゲートを抜けると、そこは絵に描いたようなナイトクラブであった。爆音で鳴り響く音楽、閃光のように明滅するカラフルなライト、そこかしこで上がる歓声と奇声、酒とタバコと香水と人間が入り混じった匂い、子猫のように震える私。大勢の人間がベースヘビーなビートに合わせて身体を揺らしている。語学学校のメイトと共に会場内を周り、群衆に加わる。


私は見様見真似で音楽に乗って身体を動かし、歓声をあげ、ウォッカのショットをあおった。


そして私は思った。


「ボケがよ!」


ちゃんと腹が立ってしまった。


低音だけ無闇矢鱈に強調された音楽を耳を壊すほどの音量で聴くことも、音楽に合わせて身体を動かす会話に自信のない人間たちのコミュニケーションも、ウォッカのショットを一瞬で飲み干すことも、全部意味が分からない。ひとりひとりに「どういうつもりですか?」と聞いて周りたい。


心の中の悪魔が「家に帰っちゃえよ」と囁く。


いつの間にか私の肩には小さな悪魔が留まっている。悪魔は「悪態を吐いて家に帰っちゃえよ」「ネットフリックスでカードキャプターさくらを見た方が楽しいよ」「キンドルの出番じゃない?」「正直のところ、見た目で判断して間違えたことってないよね」と私を誘惑する。確かに、一刻も早くこんなところ抜け出して家に帰りたい。


しかし、私はお酒で弱くなったなけなしの理性で悪魔の甘言に抵抗した。


私はナイトクラブではしゃぐ人々に対して「どういうこと?」と思っているが、彼らからすれば、私が木之本桜さんの勇姿に涙することだって「どういうこと?」という感じだろう。私たちが互いを理解するには人間の寿命は短すぎるかもしれない。しかし、だからといって理解する姿勢を放棄するのは違う。それは人間的態度ではいない。自分が楽しさを享受できないからと言って、それを否定して良い訳ではないのだ。これは正義の話である。


私は正義で踊り、正義でお酒を飲み、正義で歓声をあげ、正義で肩を組み、正義で笑った。まるで楽しんでいるかのように。


朝方、メイトと共に帰路につく。ロンドンの朝は静かで冷たくて青い。肩に留まった悪魔が言う。


「バーカウンターでお酒煽って、ダンスホールで踊って汗だくになって、またバーカウンターに帰ってお酒を飲んで。なんか、海水浴みたいだったね」


これは、うん、そうだね。

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