チキンカツカレーに吹くファンクの風

料理を表現する語彙がめちゃくちゃ少ない。


私は毎日のように日記を書いている。ある日、私は「今日はココイチのチキンカツカレーを食べました」といった内容を書こうとキーボードを叩き始めた。しかし、味を表現する段で手が止まる。食べたものがチキンカツの載ったカレーであること、うまかったこと、それ以上の表現ができないのだ。私の中にある味覚表現の語彙が「うまい」「まずい」だけしかないことに気が付いた。業務スーパーの寿司も銀座の高級店の寿司も同じ「うまい」のカテゴリーで捉えている。


なぜ、味の表現に乏しいのか。理由は明白である。私の味覚が終わっているからだ。


私は味を捉えるのが苦手だ。味音痴とも言う。味への解像度が粗く、大まかな差異すら認識できない。牛肉と豚肉の違いもわからないし、熱さと辛さは同じものだと思っているし、葉物の野菜はトラップだ。


味をあまり楽しめず、得られる満足度が低いので、結果として、日々の食事が粗末になる。最近は、朝は卵納豆かけご飯、昼はフルーツグラノーラ、夜はカット野菜とウインナー、合間合間にビタミン剤を齧る、このルーティンをほとんど毎日続けている。以前はウインナーを冷蔵庫から取り出して、そのままポリポリと食べていたが、一線を超えてしまっている気がしてレンジで温めるようになった。


郷里の母君は「コンビニ弁当ばかりじゃだめだよ」と言う。恐らく、もっと良いものを食べないと、という意味だろう。しかし、私に言わせれば、コンビニ弁当など上から数えたほうが早い。私はドラッグストアで買えるものしか食べていない。食事の固定化がまた味覚を衰退させる。悪循環である。語彙も貧困になる。


良くないことはわかっている。


料理を表現する語彙が「うまい」「まずい」の二単語だけなのはどう考えても良くない。ひとりきりでの食事であれば問題はないが、誰かと食事を共にする席では気を付けなければならない。まだ見ぬ恋人(背は低く、髪は肩までのウルフカット、大きな黒目が特徴的でウサギのような印象を受ける可愛らしい女性)が手料理を振舞ってくれた時に「これはカレーだね、チキンカツの乗ったやつ。うまいね、チキンカツカレー、うん、知ってる知ってる」だけのリアクションで良い訳がない。もっと、料理を表現する語彙を持っておいた方がいい。


ただ、味についての衒いが行き詰まるのは目に見えている。味覚は技能だ。一朝一夕に身につくものではない。私のように味覚が終わっている人間など、甘いものを渋いと言ったり、苦いものをしょっぱいと言ったりする。どうしたものであろうか。


味以外の部分に目を向けた方がいいのかもしれない。


例えば、ここに塩がある。塩は調味料であり、舐めるとしょっぱい味がするという性質に目が向けられている。しかし、塩は小瓶に入れて振ると音が鳴るし、近くで見ると白くて綺麗だ。物にはそういう弱い性質みたいなものがある。ここに注目していけば良いのではないか。


ココイチのチキンカツカレーについて、味以外の性質に言及して日記を書いてみよう。


4月8日火曜日


「こちら、チキンカツカレーです」テーブルの上に大皿が置かれた。チキンカツカレーからはほのかに湯気が立ち上っている。いい香りだ。スパイシーさの中に甘さもあり、南国を連想させる。私はカバンから温度計を取り出し、チキンカツカレーに差し込む。温度はルーが80度、ライスが60度。基本に忠実な温度管理に好感が持てる。まだカレーを味わうには早い。指触りを確かめなければならない。私は素手でルーを掬い、指と手の腹でカレーを揉む。確かな粘りと強度がある、まさに横綱相撲のようだ。私は再度カレーを掬い、床に落とす。ベチャと粘性の高い音がする。特徴的な高音の下に流れる確かな低音のビート、70年代ファンクの風を感じる。


店員さんが駆け寄ってきた。出禁の風を感じる。

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