アマルフィへ迎えに行く

バスの窓に運転手募集の広告が貼ってあった。そこには「バスの運転免許取得費用を当社が負担します」と書いてある。貧困に喘いでいる私だ。お金を出してくれるなら、やってみてもいいかもしれない。大きなバスを操り、華麗に道路を滑らせる自分を想像する。いい。気分はロボットアニメの主人公だ。バスを運転してみたい。


バスの運転手になった自分を妄想していると、思い出したことがある。「思い出したことがある」というか、思い出したおじさんがいる。


南イタリアのアマルフィ海岸に行ったことがある。「世界一美しい」とも称される半島の海岸線で、世界遺産にも登録されている。ひとり旅で南イタリアを訪れ、半島を海岸線沿いに一周した。


アマルフィ海岸に佇む港町での旅程を終え、私は隣県のナポリまで帰ろうとしていた。


イタリアでバスに乗るには事前にチケットを購入しておく必要がある。SUICAやPASMOなんて無粋なものは地中海にない。私は事前にチケットの買い方を調べるような真人間らしいことはできないので、チケットがどこで買えるかを聞き込みしなくてはならない。その辺の人に聞いてみると、どうやらタバコ屋でバスのチケットが買えるらしい。密売してるの?私はタバコ屋を探して街を回る。なんで南イタリアの港町に来てまでタバコ屋を探さないといけないんだ。舎弟じゃねえんだぞ。


季節は夏。汗だくになりながら、ようやくタバコ屋を見つけた。チケットを購入し、バス停まで行く。辺りはすっかり暗い。


バス停に着くと、そこにはひとりの青年がいた。どうやらアメリカからのバックパッカーらしい。暗い海に光る美しい港町を眺めながら待っているとバスがやって来た。これでやっと帰れる。「帰るぜ」と決めてから大変だったが、いざ帰るとなると寂しくもある。


バスが近づいてくる。


バスは止まらずに通りすぎる。


なんでよ。


停留所を素通りしていった。間違いなくこれが私の乗るべきバスだ。私と青年は「乗るぜ、停まってくれ」と合図を送ったのに、バスは止まることなく行ってしまった。運転手のジェスチャーから察するに、「満員だから次のバスに乗れ」ということだろう。だとしても素通りすんなし。


次のバスは30分後に来るらしい。しかも、最終便。これを逃せば、地中海を見ながら夜を明かすことになる。それはそれで結構な体験だが、帰りの飛行機の時間もある。青年と結託し、次のバスを強引に止めることにした。30分後、次のバスが来る。見るからに乗客でいっぱいだ。私と青年は両手を広げて道を塞ぎ、バスを止めた。「ふたりだけだから!」叫びながら。我々の努力は実り、バスに乗せてもらうことができた。私は運転手の真隣に立つ。海岸線は曲くねった道を猛スピードで飛ばすバス。倒れないように両手で手すりを握る。


次のバス停に止まった。どうやら、この街にはバス停がふたつあるらしい。そのバス停では5、6人のおじさんが待っていた。ただ、先程私たちがされたように、バスは止まることなく停留所を素通りした。運転手は「次のバスに乗れ」と叫んでいる。次のバスなんてないのに。おじさんたちが縋るようにバスの窓を叩いている。しかし、おじさんたちを引きちぎるようにバスはずんずん進み、結局、おじさんたちを港町に残してバスは行ってしまった。最後まで抵抗していたおじさんは今にも泣きそうな表情をしていた。


バスの運転手募集の広告を見て、このおじさんたちを思い出した。


その後、彼らはどうなったのだろうか。


別の手段で帰れたのだろうか、それとも近隣のホテルに泊まったのだろうか。もしかしたら、まだあの街のあのバス停にいるのかもしれない、そんな気もする。彼らはバス停で佇み、家に帰る日を心待ちにしている。しかし、来るバス、来るバスに素通りされる。もはやバスを止めようとはしない。期待するのに疲れてしまったのだ。どうしようもなく1日を過ごし、たくさんのバスを見送るだけ。もうここで生きていくしかないのか、そんなことを思っていると、再びバスが現れる。おじさんたちはへたりこんだままこちらへやって来るバスを見つめる。全員が「今回もきっと素通りされるだけだろう」と思っている。しかし、予想に反してバスは止まる。ドアが間抜けな音を立てて開く。驚いて見上げると、運転席にはサングラスをかけた私が座っている。

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