映画はちゃんと見なくていい
ひとの考えた嘘の話が好きで、よく映画を観ている。
ペースとしては、週に3本くらい。映画館へもよく足を運ぶ。殊更「たくさん見てまっせ」と思っているわけではないが、少なくとも日本人の真ん中よりは多いだろう。趣味や休日の過ごし方を聞かれた際には、映画鑑賞を挙げることが多い。本当は別に趣味はあるのだが、相手をびっくりさせないために聞き馴染みのある趣味をあげている。人間関係の序盤で「“恋人ができたら一緒にやりたいことリスト”を編纂しています」「aikoの歌詞を写経するのが好きです」とは言わない。私は社会性がめちゃくちゃあるので。
先日、初対面のひとと喋っている時に趣味の話になった。
いつも通り、私は映画鑑賞を挙げる。週3本くらいのペースです、映画館も毎週行きます、と。私がそう言うと、「すごいですね」と返された。困惑した。すごいですね?どういうこと?煽られているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。彼曰く、映画を観たい気持ちはあるが、映画を見ることが難しい、とのことだ。なかなか手がつけられず、映画を観ても途中で止めて別のことを始めてしまうとのことだ。そして、映画を観たい気持ちだけが積み上がっていく。
私としては、映画鑑賞なんてただスクリーンを眺めるだけで、なんら難しいことはない。フカフカのソファに座り、ポップコーンを啄み、コーラを飲みながらガハハと観ればいい。うどんを茹でる片手間にでもスマホで流しておけばいい。
まあ、映画への抵抗感は理解できる。
障害になっているのは、まず、「理解しなければならない」というプレッシャーだろう。
どんな映画にも視聴者に訴えかけてくるメッセージがあり、それを受け取らなけれなならない、そんな気がしてしまう。ストーリーを把握し、構造の分析し、通底するテーマを読み解く、また、自分の生活へのフィードバック、独自の切り口による解釈の上乗せも必要な気分になる。このプレッシャーは映画を観る気力を折るには十分だろう。
もうひとつはストレスにある。
ほとんど人は映画を1本みたら疲れてしまう。2時間も頭や心を揺さぶられるのは精神的にかなりしんどい。スクリーンの中の感情を、自分の中に生まれた感情を噛み砕いて、身体に馴染ませるには、かなり負荷がかかる。
「なかなか映画を観られないんです」という彼は、プレッシャー、ストレス、そういったものが混ざり合って、映画をうまく観られない状況なのだろう。
片や私である。
なんにも分かっていないし、覚えてもいない。
観た映画について、「〇〇が△△したシーンで~」などと言われても困ってしまう。まず、〇〇って誰だよ。自分が何を考えたのかも忘れている。観た端から全てを忘れているので、ストレスもない。ただただ2時間スクリーンを眺めただけ。依存症のようになっているスマホを断つ時間を作れたことだけが成果として積み上がっている。
映画を観るコツって、「ちゃんと観ない」かもしれない。
家のパソコンで、流行りの恋愛映画を見た。
部屋を暗くしてを再生ボタンを押す。序盤から、それはもうベタベタの恋愛ものであった。恋愛の妙味を知らずに生きてきたせいか、とにかく何が起こっているのかわからない。私は早々に興味を無くした。だって、意味がわからないんだもの。視聴を続けるのが苦痛だったので、映画を流しっぱなしにして外出した。帰って来た時にはエンドロールが終わっていた。私はこれで「観た」ということにした。内容なんて想像すればいい。確か、エンディングで巨大なヘラジカが暴れまわって全てを終わらせていた気がする。
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