スーツとご祝儀の二択
結婚式に出席する。
私には友人が6人いる。このうちのふたり、友人夫妻の結婚式だ。彼らの起居する京都での式ということで、東京に住む私にとっては遠出になるが、這ってでも駆け付けなければならない。
しかし、ひとつ問題がある。
結婚式に着ていくような服がない。
結婚式にはスーツを着て、ネクタイを締め、革靴を履いてと、フォーマルな出立で出席するのが慣わしだ。手持ちの装備品は袖の裂けたカジュアルジャケット、自転車を漕ぐせいで右足にチェーンオイルのべったりついたスラックス、踵の壊れたパンプス。とても結婚式に出席できる状態ではない。普段着の柄シャツとスニーカーで「あえて」を演出した方がマシかもしれない。
前々から結婚式があることはわかっていた。それこそ、東京に来る前から。私は昨春に出雲からここ東京に移住したが、出雲に住んでいる頃から挙式の日は伝えられていた。しかし、キャリーケースひとつで東京にやってきたこともあり、スーツや革靴を持ってくる余裕はなく、当時は「まあ、夏に実家に帰るからそんとき持っていけばいいや」と思っていた。そして、完全に忘れた。自分、完全に忘れないでほしい。
どうしたものであろうか。
スーツや革靴を買えばいい、そんな正論は百も承知だ。しかし、今の私にはとにかくお金がない。「めちゃくちゃ歩く」という手段を用いて職場から貰った交通費をちょろまかしているほどだ。結婚式への出席は何かとお金がかかる。京都までの交通費、宿泊費、ご祝儀、これらで手一杯だ。スーツや革靴を買ってしまっては、どれかを削らなければならない。交通費、宿泊費は仕方がない。ならば、ご祝儀か。ご祝儀かスーツ、どちらかを諦めるしかない。もしくは税金をちょろまかすか。
みたいなことをインターネットに書いた。
すると、インターネットの人からメッセージが届いた。
「実家から送ってもらえばいいのでは?」
舐められている。
この人はこう言っているのだ、「この世には"郵送"というシステムがありますよ」と。もっと言うと、「世間知らずの水野さんは"郵送"を知らないだろうから教えてあげますよ」という感じであろうか。相手を馬鹿だと思っていないと出ない発言である。舐められたものだ。このメッセージを受け取り、私がどう思ったか。
そうじゃん。
この社会には「郵送」があるんだった。
実家には私を溺愛する両親が暮らしている。かわいいかわいい私のためなら荷物を送るくらいはしてくれるだろう。全く思いつかなかった。郵送というシステムを知っていても、思考がその前を素通りしていた。実家の納戸に掛けられている紺のスリーピースを思い浮かべたときに、ただただ出雲東京間の物理的距離に絶望するだけだった。遠いから取りに行けないや、と。
今まで私が抱えてきた困難って、解決策自体は簡単なものだったのかもしれない。その解決策が死角に存在しているだけで。人間の眼は前にふたつしかついてない。一人称視点であれば、確実に死角が存在する。他者が簡単に見つけられる解決法は、その人の死角にあったりもする。
そう考えると、「実家から送ってもらえばいいのでは?」は、この真理を前提とした上での提言だったのだろう。決して舐めているとかではなく。私であれば、「その手段を選べないのっぴきならない理由があるのだろう」と口を噤んでしまう。そこに深遠な理由を想像する。しかし、このインターネットの人はそんなことを百も承知で、そこを乗り越えた末の親切だったのだ。頭があがらない。
そうであれば、私もこのインターネットの人にならって、世の人に色んなことを教えてあげていった方がよい。
例えば、半袖で街を歩いている人。もう完全に秋だ。これほど寒いのに、半袖で外を出歩く合理的理由などない。そこにはのっぴきならない事情があるのだろう、かつての私ならそう思っていた。しかし、もしかしたら、寒くなっていることに気が付いていないのかもしれない。なんなら、『長袖』を知らない可能性だってある。教えてあげた方がよい。
「すみません、あの、あなたが着ているのは『半袖』といって、袖が半分しかないものなんですね。この世には、手首まで布が覆っている『長袖』もあるんですよ。えっ、暑い?あっ、そうですよね。失礼しました」
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