また別の日。

 大学のバイト帰りで夜遅く、バスに乗って家まで帰っていた日。

 同じバスに高校生くらいの女の子が乗っていた。

 夜の10時も後半だ。


 学校帰りだろうか、部活帰りだろうか、塾帰りだろうか、どれにしても、本当にお疲れ様だと思った。

 そしてまた、無理しないでね、と知らない子ながらに思った。


 そんな女の子は私の降りるバス停の2、3個前で降りたと思う。


 こんな遅い時間に大丈夫かな、と少し心配になった。

 バスはバス停で止まったあと、赤信号で止まっていた。


 バス停には一人白いダウンジャケットを羽織り、丸メガネをかけた女性がいたが、女性はバスには乗らなかった。


 信号の目の前は横断歩道だ。


 何気なく外を見ていると、その女性と女の子が横断歩道を渡っていった。


 二人の間には少しだけ距離があったため、最初は何も考えていなかったけれど、女性が振り返って女の子を待つところを見て、あぁ、女の子を迎えに来たのか、と。


 恐らく母親だろうか。それとも姉だろうか。

 顔が見えなかったのでよく分からなかったけれど、わかることは、その女性は夜遅く帰ってくる女の子を迎えに来たのだということ。


 少し俯いて女性の後ろを着いていく女の子を見ながら、勝手に思春期かな、と思って少し可愛いな、と思ってしまった。

 疲れているのかな、お家では素っ気ないのかな、とか。


 あまり会話が弾んでいるようには見えなかった。

 隣を歩く訳ではなく女性が先に、女の子が後ろを着いていく。

 それがいつもなのだろうか。

 恐らくいつもなのだろう。


 私の家族も私の帰りが遅くなると、いいよ、大丈夫だよ、と言っても必ず、危ないから、と迎えに来てくれていた。


 子どもにとってはもしかしたら、過保護すぎる、と思う方もいるかもしれない。

 思春期になればなるほど。

 全てが鬱陶しく感じてしまうかもしれない。

 もう放っておいて、と。

 一人で帰れるから、と。


 確かにそれは親も重々承知だ。

 子どもだって本当は親が自分一人では帰れないから、と迎えに来てくれる訳では無いことはわかっている。


 ただ、最寄りの駅だろうと、バス停だろうと、どんなに近いコンビニだろうと。

 その少しの距離に子どもに何かあってはいけないと。危ない人がいるかもしれないからと。親はどうしても思ってしまうのだろう。


 私はまだ結婚してもいないし、子どももいない。

 けれど思春期を過ぎて、社会的に大人になった今ならわかる気がする。


 迎えに行く、という行為の温かさに。


 実際には自分はもうそこまで子どもではないけれど、まだ社会的に考えたとき、もし自分が子どもに当てはまるかもしれない、と思う方が、この文章を読んでくださっていたら、どうか鬱陶しく感じてしまう時もあるかもしれませんが、そこは抑えて迎えにきてもらってください。


 それは愛がなければできない行為なのです。


 寒い冬空の下。

 私がこの光景を見たのは1月の夜中。


 ただじっと子どもの帰りを待って居られたのでしょう。


 親子の関係だけではありません。

 友人。恋人。家族。先輩。後輩。上司。部活。

 そしてその他の全ての関係。


 迎えに来てくれる、その行為は間違いなく相手を思う心があってこそです。


 どうか、相手の心に甘えてあげてくださいね。





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