3

 言葉が詰まり、ロンドは俯いた。

 孤独に研究をしていたロンドは、ラウルの存在がありがたかった。その著作でもって自分をこの道に連れてきてくれた、いわば師のような存在である。そのラウルがなぜアランを殺したのか、ティティを捕え、ロンドをこの島に呼び戻し、今何を考えているのか。ロンドはどうしても知りたかったのだ。

「ライオネル、あなたは嘘を吐きました。あなたは、兄から話を聞くもっとずっと昔から、アラシアの壁が危険であることに、とうに気づいていたのではありませんか?」

 そう言うと、ロンドは拳を握り締める。

「ダグラス――侍従に調べてもらいました。今よりも数十年前、アラシアの壁の危険性について説いた学者がいたと記録が残っておりました。その学者の名前は」

「左様」

 ロンドの言葉を遮り、ライオネルがぽつりと言葉を落とした。

「本当に、立派になられましたな、ロンド様。概ねおっしゃる通りでございます。まさか、アラシアの壁のことまでご存じとは、おみそれいたしました」

 こみ上げてくる感情を、ロンドは無理矢理呑み込んだ。では、やはり。

「あなたが、兄さんを殺したんですね」

「おっしゃる通りでございます」

 ティティが悲鳴を呑み込んだ。黒い目は極限まで見開かれ、ラウルの顔を凝視している。

 ラウルはうっすらと微笑むと、天を仰いだ。

「一度だけでよかったのです」

 その老人は、疲れ切ったように頼りない表情で、ぽつりとつぶやいた。

「たった一度だけでもいい。アラン様が過去に慈悲をくだされば、わしはそれで満足だったのです」

「過去……?」

「左様。……もう随分と遠い昔の事のように思われます。わしには宝と呼べるものがありました。賢き妻と、生まれたばかりの娘がわしの全てでございました」

 ロンドは目を見開いた。

「あなたは……妻子はないと。親戚縁者とも縁を切っているという話では」

「妻子はありませぬ。彼女らは天に召されたのでございます。他ならぬあなた様の父王、その愚王の施政で! わしの宝は奪われました」

 ラウルは天を仰いだまま、皺だらけの頬に涙を落としている。

「当時わしは、アラシアの壁の近くに居を構えておりました。日長農家を手伝い日銭を稼ぎ、その隙間で薬学の研究をする。そのような身だったため、親族からも縁を切られていたのでございます。しかし、わしはそれでよかった。身分などはいらぬ。理解のある妻を娶り、好きな研究をし続け、裕福ではないが満ち足りた生活を送っておりました。やがて妻が身ごもり娘が生まれ……幸福な日々が続くとばかり思っておりました」

 ラウルの妻は元来体が弱く、子を産んでからはより一層線が細くなった。生まれたばかりの娘もまた、そんな妻の体質を受け継いだかの如く体調を崩すことが多かった。

「当時アラシアの壁の近くは、同じように裕福ではないものたちの居が集まっておりました。おかしい、と気づいたのは、妻や子だけではない、その者たちの中に体を壊すものが多かったことでございます。確かに我々は裕福ではない。しかし、生活を切り詰め体を壊すようなほど、厳しい環境でもなかった」

 薬学を学んでいたラウルは、当然病にあっている者たちを助けようと動いた。そして、薬を調合し、症状を聞いているうちにある符号を見つけたのである。

「体調を崩すものには共通点がありました。それは、大きな病のあとや怪我のあと、産後の女性、小さな子供、それから老人。体が持っている本来の力が発揮できないような状況下のものが、回復しきれずに倒れていくのです。それは人間だけではなかった。野生の鳥や兎は勿論のこと、家畜も次々と体調を壊し、亡くなる個体も多かった」

 皆かたずをのんでライオネルの言葉に耳を傾けている。

「わしは亡くなった山羊を一頭買い取りました。これだけ異常が続くのだもの。何かしらのことが分かるかもしれない。その一心で、山羊の腹を開いたのでございます」

 ロンドの脳裏に、木箱に入れられた魚が過った。

「まさか、その山羊は……」

「左様。山羊の腹にびっしりと付着していた青茸瘤をみて、わしは確信したのです。この地には何かしらの毒物があり、体の弱い者はその毒に耐えきれないのだと。このままだと取り返しのつかないことになると思ったのです。だからわしは、一度捨てた身分を使い、王族に近い権力でもって王城の図書館に入る許可をもぎ取った。そこで調べていくうちに、アラシアの壁の材料がシャラノキであることを知りました」

 ラウルは仰天した。そのような猛毒の木が壁として使われていることを、いったい何人の国の者が承知しているのだろう。どんなに頑丈にできているものでも、いずれは朽ちて滅びていく。その時の対策がなにひとつとして取られていないことに、ラウルは恐れおののいた。

「わしは調査内容を巻紙にしたため、当時の官人に提出した。これで何かしらの処置がとられるものと思っていた。しかし、あやつらは証拠がないという。確かに小動物の類に影響はあり、多少の家畜に被害が出ている可能性はある。しかしながら、人にまで作用しているという確証はない。それゆえこれ以上の調査は不要であり、対策も不要であるとする……。そして、わしの妻と子は、亡くなりました」

 そこまで話すと、ラウルは俯いた。

「証拠が必要だ、と彼らは言うのです。人に作用しているという確固たる証拠を見せよ、と。だから、わしは」

「まさか、ライオネル……あなたは、まさか」

「あなた様に想像できますかな。かつてわしの腕の中で笑っていた娘の柔らかな体を! 妻の腹を! わしはこの手で切り開き……見つけたのでございます。彼女たちの体の内部には、びっしりと青茸瘤が付着しておりました」

 ロンドは絶句した。言葉にならない。なるわけがない。その時のラウルの心情は、いかほどだったであろうか。

「しかし、わしはこれで安堵したのも事実でございます。証拠を見せよという、あの官人の言葉に足るものが見つかったのだ。これでアラシアの壁の危険性を証明することができる。そして、今なお体調不良に苦しむ民を助けることができる。それならば、わが子と妻の死は無駄ではない。しかし」

 ラウルは唇を噛み締めた。引き攣れた唇に、ぷつりと血の玉が宿る。


「――あなた様方は、何もしてくださらなかった」


「――そんな」

 声を挙げたのはヴォルクだ。青ざめた顔でヴォルクは言葉を重ねる。

「そんなことがあったなど、父は知らなかったはずだ……! 知っていたら、父だって何かしらの対策を……!」

「そうでしょう。きっと知っていたら何かしらしてくださったのかもしれませぬ。しかし、我々にとっては、あなた様のような立場の者が何もしないという事実。それだけが真実なのでございます」

 こみ上げる感情を抑えているのだろう、ラウルは荒くなった息を整えるように深く息を吐いた。

「しかし、わしは諦められなかった。なんとしてもあの壁の危険性を証明するのだ。さもなくば我が妻と子が浮かばれまい。王城の教育係としての地位を得たときは、しめたと思ったものだ。次期王と細やかな話ができる立場を得られたのだもの。悲願の達成も近いと思っていた」

 実際、アランはよい王子だった。父王とは違う。自らの頭で考え、目で見て、物事を判断する資質には目を見張るものがあった。

 ラウルはじっくりと待った。この王子が成長し、王権を手に入れてからが勝負だと分かっていたからだ。

 そして、無事に王位についたアランは、ラウルに命じたのである。それがこのミツチの島の調査だった。

「それからはロンド様、あなた様も知っての通りでございます。アラン様は事態を重く見、すぐに対策を取ろうとご帰還されました。わしは嬉しかった。本当に嬉しかったのでございます。しかし、あの方は……」

 ラウルは拳を握り締め、叩きつけるように叫んだ。

「何も言わなかったのでございます! 明らかにアラン様はご存じありませんでした。わしがアラシアの壁について問題提起をしていたことも、妻と子が死んだことも、このことを証明するためにわしが行ってきたことも、何一つ! あの方はご存じなかった。全てがなかったことにされていたのだ、そのことに気づいたとき、わしは自分の中で何かが崩れていくのを感じました」

 ロンドは冷や汗が背中を伝うのを感じていた。アラシアの壁の材料がシャラノキであるという文献を、ロンドは一度も見たことがない。恐らく、処分されたのだ。他の誰かがおなじ事実に行きあたらないように、何かしらの圧力が働いたに違いない。それだけではない、壁についての文献が異様に少なかったのは、もしやこのことが原因なのではなかろうか。

「ほんの少しでよかったのです。偉大なるアラン王が、わしの妻と子の死に労いの言葉をかけてくださったなら……わしに謝罪の言葉を述べてくださったなら……それだけで……」

「しかし、ライオネル、あなたはまさかそれだけで……!」

 ラウルの心情は理解できる。無念であるとも思う。しかし、彼の言う通り本当に、数十年前の出来事が隠されていたのなら、アランはどうしてそのことを予め知ることができようか。それは無理だ。アランはその時の王として最善を尽くすことしかできず、そしてそれを実行しようとしただけだ。

「それだけで! そう、そうおっしゃるとわしは思っておりました。だからこそロンド様。わしはあなた様をここに呼んだのでございます」

「……どういうことでしょう」

 ラウルはその問いには答えなかった。彼はゆっくりと小屋の中に入り、うつぶせになっているティティの体を上から押さえつけた。

「もう遅いのです。もうわしは戻れぬところまで来てしまった。何度も何度も自分を納得させようとしました。こうしてアラン様に国の危機を伝えることができたのだもの。わしの人生は無駄ではなかった。しかし、そのアラン様の作る新しい未来に、そして過去にさえも、わしの妻や子はおらんのです! 何のために心血を注いで研究をしていたのか。それは国の為ではない。妻子の屈辱を晴らすため。全てを無にされたものの苦しみがあなた様には分かるまい」

 そう言うと、ラウルルはティティの髪を掴むと、ぐいと上に持ち上げる。喉がのけぞり、ティティは苦悶の表情を浮かべた。

「痛っ……」

「親愛なるロンド様。あなたは次期国王であらせられる。そのあなたに、大切な人を失う気持ちを味わっていただきたい。そしてもう二度とわしのような竜を産み落とすことのないように。この出来事をあなた様の戒めとしていただきたいのです」

 滂沱の涙を流しながら、ラウルは懐から小刀を取り出し、ティティの喉に押し当てた。

「ライオネル! やめろ!」

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