白は黒

1



 ティティは暗闇でぽっかりと目を開けた。

 体が動かなかった。拘束されているわけではないのに、四肢に力が入らない。何度か目を瞬かせ、闇に目が慣れるのを待つと、辛うじて首を動かし、周囲の状況を確認する。

 見慣れたラウルの小屋である。小屋の中に敷布が敷かれ、その上にティティは寝かされているようだった。窓や小屋の入り口には板が打ち付けられ、入るはずの日の光が遮断されている。甘い、香ばしいような香りがティティの鼻をくすぐった。

「良い選択をされましたな」

 聞きなれた、物柔らかな声がもったりと闇に木霊した。

「良い選択をされました。それでこそ、長というもの」

「ラウル……」

 暗闇にちんまりと座る老人の姿を認めて、ティティはもつれる舌を操った。

「あまり動かない方がよろしいですぞ。そなたに飲ませた薬はそう簡単に切れるものではない。無理に動くと、お辛いでしょう」

「皆は……無事だろうな……」

 辛うじて息に乗せた言葉に、ラウルは含み笑いをすることで答える。

 なぜこのようなことになってしまったのか、とティティは何度目かの自問をする。ロンドを助けたことが間違いだったのか。ラウルをマレ人として重用したことが誤りだったのか。それともアランと繋がりを持ったがゆえの今なのか。ティティには分からない。


 ケチャの葬儀は無事に終わり、継承の儀は滞りなく行われた。ティティは沈む気持ちを何とか奮い立たせながら、長としての最初の仕事にとりかかっていたのである。

 継承の儀は丸三日かけて行われる。先代の長の葬儀から始まり、冠をいただいてから三日三晩。篝火を焚き、魔よけの太鼓を打ち鳴らす。早い話がお祭である。

 度重なる食糧難と海の竜の襲来に疲労しきっていた島民も、この時ばかりは浮き足立つものだ。十分とはいえないが島民全員の腹が満たされる程度の食べ物と、僅かばかりの酒を用意し、ティティは自嘲の笑みを零したものだ。

 本来なら、豪勢な食事と振る舞い酒で祝うはずの儀式だ。それがこんなにも慎ましやかに行われることが情けなく、今の自分にぴったりだと思ったのである。

 ロンドはいない。儀式の会場に現れなかったところを見ると、何らかの手段で、本当に島から出て行ってしまったのかもしれない。そのことを考えると、ティティはぽっかりと心に空洞ができるような心持ちになる。

 だから、ティティはもしかしたら心ここにあらずだったのかもしれなかった。ラウルが振舞った酒の舌先に苦みを感じても、頭が朦朧として、呂律が回らなくなったとしても、酔いが回ったのだとばかり思っていたのである。

 目が覚めたときの光景を、ティティは一生忘れないだろう。

「皆は無事か……と聞いてるんだ、ラウル」

 島のあちこちで倒れ、意識を失っていた島民のことを思い出し、ティティは唇を震わせた。

「勿論、無事だとも」

 老人はそう言いながらゆっくりと顎を撫でている。

「わしは、約束は破らないと決めておる。ティティ、そなたの身柄を預かる代わりに、島の者は助ける――そう約した以上はしっかり従うまで。もっとも、毒が抜けるにはまだ時間はかかりましょうが」

「そう……」

 老人の瞳に真実の光を見て、ティティは体の力を抜いた。四肢が痺れ、体が思うように動かない。その事実にティティは顔を顰める。

「――何が望み?」

「望みですか……」

 ラウルは細い目をさらに細め、ゆったりと呟いた。

「わしにはもう分からないのですよ。望みがあれば、きっと別の選択もできたのやもしれんが……」

 悲し気に呟いて、老人はそろりと立ち上がった。枯れ枝のような細い腕だ。顔に刻まれた皺に光るものを落としながら、ラウルはゆっくりとティティに近づいた。

「ただわしに言えるのは、もう何も許せないということだけでしょう。ミツチの民も、アラシアの民も、未来に生きる生きとし生ける全ての生き物が、わしには憎い」

 思いもよらぬ言葉に、ティティは息を呑む。

「ロンド様は、城へ帰られました」

 口調を変えて、ラウルはそう述べた。

 心に空いた穴に、ひょうと音を立てて風が舞い込んだ。ロンドは城に帰った。その一言は、思いもよらぬ衝撃をティティに与えたのである。分かっていたことだ。自分が追放したのだから、もうこの島にはいないかもしれないと思っていた。しかし、それを改めて突き付けられ、ティティは動揺した。動揺した自分に驚き、自然と呼吸が荒くなる。

「あの方は変わられましたな。以前は殻にこもっていたところがございましたが、今は違う。ここ数日のロンド様は、変わらぬ研究者の目を持ちながらも意志の強さが見られるようになった。あれこそ、まことの王というもの。そなたと過ごすようになったからでしょうな、ティティ」

 老人の瞳は真の優しさを湛えている。声には真実、ロンドの成長を喜ぶ色が宿っている。その目の光と声とは裏腹に、彼が行っている行為の違和感。ティティは背筋が冷えていくのを感じていた。

 ――何かがおかしい。この老人は、どこかが壊れている。

「そなたはどうやら不思議な力があるように見受けられる。アラン様もそうだった。そなたと話し、この島で過ごすようになってからあの方は随分とお優しくなられた。――その優しさとお情けを、欠片でもいい。過去に向けてくだされば、こんなことをしなくてもすんだものを……」

 そこまで言うと、老人は一度言葉を区切る。

「アラシアへ鳥紙を飛ばしました」

「――なんだって?」

「ロンド様はここへ来るでしょう。そなたを大切に思っていた彼だもの、恐らくすべてのものを置いてでも、駆けつけてくださるでしょうな」

 ティティは瞠目した。

「まさか、お前」

 自然と声が震える。

「それが狙いなのか……ロンドをここに呼ぶためだけに、島の民や私を……!?」

 ラウルの微笑みを見て、ティティは確信する。

「何故そんなことを」

「さて、何故ですかな」

 老人の細い目がゆっくりと細められていく。その眼光の鋭さにぞっとしながらも、ティティは舌を操った。

「……あいつは、来ない」

 まだ痺れる顔の筋肉を動かして、ティティはにやりと笑ってみせる。

「何か……勘違いしているみたいだけど。あいつは私のことを嫌っている。だから、もうここには来ないよ」

 最後に見たロンドの顔を思い出す。絶望に打ちひしがれた瞳を思い出す。自分はきっとロンドを知らないうちに傷つけていたのだ。そのロンドに塩を塗るだけでは飽き足らず、怒りに任せ絶縁状を叩きつけたのも自分だ。

 だから、ロンドはきっとここには来ない。

「まあ、ゆっくりと待ちましょう」

 鷹揚に頷くと、ラウルはティティに近づいた。

「失礼。薬が切れてきたようなので、少し縛らせていただきますよ」

 後ろ手に捻られ、手首を拘束される。ティティは心の中で舌打ちをした。薬が効いているふりをしていればよかったと思ったが、時すでに遅しだ。

 ティティを拘束したことで満足したのであろう、ラウルは立ち上がると小屋の奥へと背を向ける。その背中を目で追いながら、ティティは再び目を閉じた。四肢の痺れはまだあるものの、言葉は操りやすくなっている。その薬とやらが完全に切れたら、隙をついて小屋から逃げなければ。島の者も心配だ。無事だとラウルは言っていたが、命があることと無事であることは別物だ。自分の目で確認しなければならない。

 ロンドのことを考える。もし、自分が囮に使われているのなら。ラウルは自分の命や身体と引き換えに、ロンドに何かしらの交渉をするつもりに違いない。

「……よかった」

 ラウルに聞こえぬようティティはひっそりと笑みを零す。絶縁状を叩きつけておいてよかった。きっとあのとき、感情をぶつけ合っていなければ、彼は今もきっと傍にいたに違いないのだ。ロンドは優しい。だからラウルの言葉をそのまま受け入れ、どんな要求も呑んでしまっていただろう。

 それは嫌だった。自分のために、あの美しい彼が苦しむのは嫌だった。彼が大切にしているものが壊されるのは嫌だった。それならば一生嫌われていた方がいい。

 心の穴に気づかないふりをして、ティティが息を吐いたときだった。

「あのー、ライオネル?」

 こつこつ、と軽やかに入り口の板を叩く音。そして、能天気な声が小屋に響いたのである。

「開けてください。ロンドです」



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