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  ***



「この書は、記録が残っておりません」

 図書館の奥、古書や文献がうずたかく積まれている場所で、埃まみれになっていた書を取り出した司書は、記録を眺めながら顔を顰めたものだ。

 ロンドとダグラスは互いの顔を見合わせた。

「本当ですか?」

 思わず問うと、司書は鷹揚と頷いた。

「記録は嘘をつきません。この記録紙によりますと、この書は寄贈されてからただの一度も開かれなかったようですね」

 そう言って、司書は書を恭しくロンドに手渡した。ロンドは手でざっと埃を払いのけるようにする。懐かしい書だ。初めて手に取った時は、この世にこれほど面白いことがあったのかと夢中になったものだったのに。

「王族の方は記録に残しませんゆえ、王族のどなたかが読まれた可能性はあります。しかし、それ以外の者は、だれひとりこの書を手にとってはおりません」

 一礼し、仕事に戻る司書の背を眺めながら、ロンドは考える。

 当然、ロンドの家族――弟妹は読んではいないだろう。兄王はもしかしたら手に取ったことくらいはあるだろうが、ロンドに毒についての報告をさせていたくらいである。内容まで覚えてはいないはずだ。

 手がかりへの期待を込めて来訪した図書館だったが、どうやら徒労に終わったようだった。

 改めて書の背表紙を見る。

 随分と汚れて見えるが、その実装丁は新しく、古書といった趣ではない。初めて読んだときには気付かなかったが、小さく著者の名前も見て取れた。

「――これは」

 見るともなしにその名を目にし、ロンドは息を呑む。ロンドの様子が変わったのに気づいたのであろう、ダグラスも同様に書の表紙を見て、首を傾げた。

「……ロンド様」

 ダグラスは慎重に言葉を重ねる。

「関係があるか否かは、私には分かりかねます。しかし、私は、この著書のお名前を、先日見たばかりでございます」

「先日……?」

「ええ」

 ダグラスは小さく頷いた。

「先日、アラシアの壁に亀裂あり、と陳情が入ったのでございます。ヴォルク様のお申しつけで修繕方法を探していたのですが……」

 一度言葉を区切り、ダグラスは息を整えた。

「その一連の調査で判明したことがございました。それは、アラシアの壁の危険性について、数十年前に当時の陛下に陳情したものがいた、との記録が残っておりました。その陳述書に記載されていた名が……その著者と同じ名だったと記憶しています」

 ロンドは今度こそ目を見開いた。再度書に目を落とし、著者の名を手でなぞる。そこには、紛れもない筆跡で、ライオネル――ラウルの名が刻まれていた。

「ダグラス」

「はい」

「兄さんの部屋に入れますでしょうか。――確認したいことがあります」

「承知いたしました」

「それと、その陳述書も見せていただけませんか」

「手配しましょう」

 ロンドは拳を握り締めた。

 ラウルは元々、毒や薬草に関する有識者だった。当然彼もロンド同様に研究をしていたはずで、著作が残っていることは不思議ではない。しかし、ダグラスの証言が正しければ、ラウルはひとつ嘘を吐いていることになる。このことがアラン暗殺に関係があるのか否かは分からない。だが、見過ごすには引っ掛かりが多すぎるのも事実である。

 ロンドとダグラスはその足でアランの執務室へ向かった。

 扉の前には衛兵が控えていたが、ダグラスとロンドの姿を認めると頭を下げ、一歩控えて道を譲る。早速ヴォルクの根回しが効いているようである。

 久しぶりに足を踏み入れた兄王の部屋は、驚くほど記憶のままだった。

 机の上に無造作に置かれた手袋や、記録を取るための記録紙の束、愛用していた羽筆。どれもロンドの記憶のそのままである。流石に拭き取られてはいたが、兄王アランの執務室にはまだ生々しい血の跡も残っている。

「部屋を清めるのはこれからなのでしょうか」

「ヴォル様が、全てが終わるまではこのままに、と。ですので、この部屋は陛下がお亡くなりになった時のままにしております」

「――なるほど」

 好都合である。ロンドは持参の手袋をはめ、注意深く部屋を探る。

 ラウルとアランは鳥紙でやり取りをしていたはずだ。その内容を見れば、何かしらの手掛かりになるかもしれない。しかし、慎重に机や引き出しを探ったが、鳥紙は出てこない。

 処分してしまったのだろうか。

 その時、ふと何かに呼ばれた気がして、ロンドはくるりと振り返った。

 兄王の執務室には、立派な暖炉が設置されている。勿論実用していたもので、今も灰が中に残っているのが見て取れた。

 焼いてしまったのなら、もう残ってはいないだろう。それでも何かしら分かることがあるかもしれない。その一念でロンドは暖炉の灰を火掻棒でまさぐった。

「……これは」

 ごくりと喉を鳴らした。灰の一部が、変色している。

「ダグラス、密閉できる硝子瓶を持ってきてください。匙もお願いします」

「御意」

 それらを受け取ると、ロンドは慎重に灰の変色した部分を掬い取り、硝子瓶に密閉する。

「今から僕は自室に戻ります。誰も僕の部屋には近づけないでください」

「承知いたしました」

「それと、陳述書はお手数ですが届けていただけますか? 扉の前に置いていただければ大丈夫です。くれぐれも勝手に扉を開けたりはしないでください。危険ですから」

「はい」

 踵を返し、部屋から出ていくダグラスを見送り、ロンドは手にした硝子瓶を目の高さに掲げる。

「……ライオネル」

 嫌な予感に胸を痛めながら、ロンドは瓶をそっとしまうと、足早に部屋を出る。自室に戻らなければ。早急に確かめなければならなかった。




 一方その頃、ヴォルクは不可解な報せを受け取っていた。

 兄が帰城しているとはいえ、無罪が確定していない以上執務についていただくことはできない。しかし、国王代行の仕事は山ほどあるのだ。書類の山に埋もれながら、ヴォルクは嘆く。兄、ロンドを手伝いたくともこれでは身動きが取れないのである。しかたなく政務に精を出していた折、鳥紙が届いたのである。鳥紙の中でも緊急性の高い、赤い紐で結ばれた紙だった。

 報せをもたらした鳥使いは、首を傾げながらこう述べたものだ。

「わたくしどもは日に数十、月にして数百の鳥紙を扱っております。しかし、この鳥紙を運んできた鳥に覚えがありません。宛名も宛名でございますし、お手に渡る前に中を改めさせていただこうとも考えましたが、できぬ決まりごとでございます。それで、このままお持ちいたしました。どうかくれぐれもお気をつけて開封していただければと存じます」

 城の鳥使いは鳥紙を勝手に開けたりはしないし、口が堅いことは折り紙付きである。また、そうでなければ務まらない職でもあった。

「――わかった。気をつけよう」

 ヴォルクは鷹揚に頷き、鳥紙を受け取る。急いでいたのであろう、乱雑に巻かれた紙にぐるりと赤い紐が通され、一部切り取られた極彩色の布が挟み込まれている。差出人の署名はない。ただ一言、兄ロンドの名が走り書きされている。

 ヴォルクは一瞬迷った。これは、兄に当てた鳥紙だ。しかし、以前の兄は、今まで一度も鳥紙を使ったやり取りをしたことがなかったはずである。ということは、以前からの知り合いが出したものではない、ということだ。差出人が書いていないこともヴォルクの心配を加速する。この時分に、このような緊急の鳥紙が届くこと自体変な話だ。

 考えていても仕方がない。兄にこの鳥紙を渡し、その場で一緒に中を改めればいい。

 ヴォルクが執務室の椅子から立ち上がった時である。

「ヴォルク!」

 青ざめた顔のロンドが、部屋に飛び込んでくる。兄は見たことがないほどひどく狼狽していた。荒ぶる呼吸を整えるように、自らの胸に手を置いて、ロンドは途切れ途切れに言葉を放つ。

「分かりました! ――信じたくなかったけれど、あの方がきっとアラン兄さんを殺したのです!」

「兄さん?」

「急ぎ島に戻らなければなりません。話を聞かなければ……!」

「兄さん、話が見えません!」

 焦るヴォルクの手に握られた鳥紙に気づき、ロンドは目を見開いた。

「――それは?」

「丁度良かった、兄さんに鳥紙です。差出人の署名はないのですが、心当たりは……」

 ヴォルクは最後まで言うことができなかった。ロンドが勢いよく鳥紙を奪い取ったのである。

「兄さん!? そんな乱暴な!」

「これは……!」

 赤い紐に挟み込まれた極彩色の布は、ティティが好んで着ていた服に酷似している。嫌な予感にロンドは手が震えた。

 取り落さないように気を付けて、鳥紙を開き――今度こそロンドは瞠目する。

 目に入ったのは黒の流れだ。髪の毛がひと房、切り取られ束ねられた状態で潜ませてあったのである。そして紙には一言。

 ――すぐに戻られたし。

 流れるような美しい筆跡に、ロンドは背筋がすうと冷えていく。

「ティティが――危険だ」

「兄さん!?」

「島へ戻ります!」

 そのまま脱兎の勢いで、ロンドはヴォルクの部屋を飛び出した。嫌な予感がふつふつと沸き、ロンドの胸中を黒く染めていった。



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