黒は白

1


「……お兄様」

 そう言ったきり、エルザは口を閉ざした。折り目正しく膝を折り、最敬礼を取る。

「お帰りをお待ち申し上げておりました」

「エルザ……」

 アラシアの王城の裏手には、海に通ずる船着き場が整備されている。元々漁港だった城下町にはアラシアの壁が立ち、港としての用途を成さなくなってしまった。そのため、城の裏手に新たに船着き場を作ったのだといわれている。

 船から降りると、懐かしい裏門が見えた。その前に立つ一人の女性を認めて、ロンドは目を丸くしたものだ。

 普段はほとんど塔から出ないはずの、エルザがそこにいたのである。

「どうしてここへ……」

「ヴォルクお兄様から鳥紙を受け取りました。わたくし、エルザが居た方が、都合がよろしいかと思いまして。はせ参じた次第です」

 そう言うとエルザは目に涙をため、ロンドをついと見上げたものだ。

「よくぞご無事で……ご無事でいらっしゃいました」

「エルザ」

 ロンドは嬉しかった。エルザの白銀の瞳は真摯な光に打ち震え、真実ロンドの無事を喜んでいるように見える。

「エルザ、悪いけど、あまり人目につきたくないんだ」

「分かっておりますわ、ヴォルクお兄様。さ、こちらへ」

 エルザは再度膝を折ると、自ら先頭に立ち裏門を潜った。驚くべきことに、通常ならばそこで厳重に見張りをしているはずの門番や侍従たちの姿が見えない。

「エルザ、これもお前が?」

 ヴォルクの問いに、エルザは口元に扇子をあてて含み笑いをする。

「普段は煩わしい聖女の肩書も、こういう時には便利だと思いましてよ。ただし、全員が全員、物分かりがいいとは限りません。まずはわたくしの塔へいらっしゃいませ。そこでならある程度融通が利きますゆえ」

 異論はない。エルザの塔はこの裏門から裏庭を抜けてすぐのところに建っているし、聖なる娘の住まう塔は治外法権である。そこではエルザを筆頭とした聖職者の意見が重んじられるのだ。

 驚いたのはエルザの塔の者たちである。突然の第二王子のお出ましに塔の門番はうろたえ、誰何する。

「エルザ様!? それに、ヴォルク様も……お連れになっている方は、もしやロンド様では?」

「ええ。それが何か?」

「何か、と言われましても……」

 門番はしどろもどろに口ごもる。

「許可は……許可はお取りなのですか?」

「妹が、兄たちと語らう家族団らんの場を設けるのに、誰の許可がいりまして?」

「ですが、ロンド様は……その……」

「そこをお退きなさい」

「ですが!」

「アラシアの聖女として命じます。そこをお退きなさい」

 門番は逡巡し、従うよりほかないと思ったのであろう。しぶしぶと言った風情で塔の門を開けたのである。

 訝るような視線を背中に感じながら、ヴォルクはこう囁いたものだ。

「エルザ、口止めはいいのか」

「あの者はわたくしの指揮下にあります。この塔の者は皆『アラシアの聖女』には従順ですの。この名で命じたのですもの。口止めせずとも、見聞きしたものを所かまわず触れ込んだりはしませんわ」

 そう言うと、エルザは口元を扇子で隠し、くすりと笑う。

 ロンドとヴォルクは目を見合わせた。知らないところで、随分と妹は逞しく育ったものだ。

 エルザが扉を打ち鳴らす。すかさず扉が開き、侍女たちが頭を下げた。

「お帰りなさいませ、エルザ様」

「エルザ様、その、お連れの方は……」

 侍女たちの瞳に、一瞬動揺の光が見えたのをエルザは見逃さなかった。

「あなたたち、なにを呆けているのです」

 顔を青くする侍女たちに、エルザは叱咤を飛ばした。

「次期国王の帰城に道を開けぬなど何たる無礼。控えなさい!」

 堂々たるものである。その一声で侍女たちの動揺は消え、一歩下がると一斉に頭を下げる。その様子を見てロンドは目を丸くした。治外法権とは知っていたが、なるほど頷ける。この塔はエルザの城で、主人はエルザただ一人なのだ。

「エルザ、何もそのような……」

 自分は冤罪とはいえ、正式な裁判を経た罪人であることは間違いない。この扱いはおかしいのではないか。そう言おうとした口を塞ぐように、エルザはロンドの眼前に扇子を突き付ける。

「いいえ、お兄様はまだこの国の次期国王であらせられます。誓文をいただいていない以上、そのように扱かわせていただきますわ」

 儀式を取り仕切る聖女からの言葉である。従うよりほかはない。自分が居た方が、都合がいいとはこういうことか、とロンドは頷いた。

 エルザは客間の一室に二人を招き入れると、扉を自ら閉めた。そのまま扉を後ろ手にし、二人ににこりと微笑みかける。

「人払いをしてありますゆえ、行き届かない点はお許しください。――それで」

 そう言うと、エルザはす、と形を改めた。

「ロンドお兄様。ヴォルクお兄様からひと通りお話があったかと思います」

 エルザの真摯な瞳がロンドを貫くように見つめている。

「わたくしも、ロンドお兄様も、本当のことをお聞きしたいと思っています。――どうかひとことで結構です。お兄様の真実を話してはくださいませんか」

 言い終わると、エルザは手を前で組み、祈りの姿勢で言葉を待った。

「僕からも、お願い申し上げます。どうぞ真実をお話しください」

 ヴォルクは妹姫の横に立ち、同じように最敬礼を行う。

「僕は……」

 ロンドは拳を握り締める。様々な出来事が、ロンドの脳裏をよぎった。兄王の死を見たときのこと、島にたどり着いた時のこと。蛇竜や竜神、ラウルとの邂逅、そして兄王アランの思い――。

 ティティの瞳を思い出す。黒々とした瞳で、いつでも未来を見ていた、眩い輝きを湛えた瞳だ。ロンドは頷く。もう逃げないと決めたのだ。


「僕は、兄を殺してなどいません」


 言葉が震えないように気をつけながら、ロンドは息に声を乗せる。

 沈黙が客間を包み込んだ。どれほどの時が経ったのだろうか、ヴォルクがほう、と息を吐き、泣き笑いの表情でロンドの手を取った。そのまま固く握りしめ、肩を抱く。

 エルザは扇子で顔を覆い、嗚咽をこらえている。耐えきれなくなり、二、三歩駆け寄るとそのままロンドの首に抱き着いた。

「お兄様……!」

 あとは言葉にならない。二人の熱い抱擁に、ロンドも涙が出そうになる。二人の親愛なる弟妹が自分の無実を信じてくれていたことが、これほどまでに嬉しいと思わなかったのだ。

「すぐに正式に調査をいたしましょう」

 そう言ったのはヴォルクである。

「すでに兄さんの刑は決まっておりますが、僕には幸いなことに権限がある。法官へ再度申し立てを行いましょう。アラン兄様には申し訳ありませんが……」

「――待ってください」

 今すぐにでも扉を出ていこうとするヴォルクに、ロンドは待ったをかけた。

「もう少し、それは待っていただきたいと思っています」

「兄さん? なぜです?」

 ヴォルクは理解しかねるという風情で首を捻った。ロンドは意を決し、目に力を込めて二人を見た。

「僕は、アラン兄さんは自害ではないと思っています」

「自害ではない……!?」

「ええ。兄さんは、殺されたのです」

 かいつまんで事情を話すと、ヴォルクもエルザも口を閉ざした。ややあって、ヴォルクが細く息を吐き出しながら言葉を落とす。

「先日兄さんにもお伝えした通り、裁判が異様に早かったのです」

 ロンドは頷いた。入り江でヴォルクと対峙したときに言われた言葉だ。

「本来なら王家の裁判は年単位で行われるはずなのに、なぜか兄さんの時は素早かった。気づいたときには法官の書類が出来上がっておりました」

 その時の記憶は、ロンドは正直曖昧である。兄王の死の衝撃と、隠し通さなければという緊張で、他の事を考える余裕がなかったのだ。しかし、言われてみれば確かにあっという間に拘束され、いつの間にか船に乗せられていたように思う。随分早いとは思ったものの、確かに自分の身分を考えたら異様である。

「すぐに調査を行いましょう。兄王アランと兄さんがいなくなって、利がある人物に絞れば、そう難しいことではない」

 そこまで言って、ヴォルクは息を呑む。片眉を下げ、奇妙な顔をした。

「……念のため、申し上げますが。僕ではありませんからね」

 恐る恐る述べるヴォルクに、ロンドとエルザは顔を見合わせ、吹き出した。

「確かに、王位という意味で言うならばヴォルクが一番怪しいでしょうね」

「本当に! 早速、調査しなくてはなりませんわね」

 無論、本気ではない。じゃれ合っているだけなのだが、ヴォルクは赤くなったり青くなったり大忙しだ。

「兄さん! エルザも! 冗談はおやめください!」

「あら、エルザは冗談など言っておりませんのよ。だからこそ即位の儀を伸ばしたのではありませんか」

 その言葉に、二人はぎょっとして目を剥いた。

「エルザ?」

「即位の儀を伸ばした、と?」

「ええ」

 問いかける視線に、エルザは涼しい顔をする。

「明らかにおかしかったのです。司祭様も、今回は仕方がない、やむを得ない。誓文がなくともやらねばならぬ、と儀式を急いでいらっしゃいました。ですからわたくし、反対申し上げましたの」

 こほん、とエルザは咳をする。

「伝統あるアラシアの即位の儀でございます。どんな理由があろうと、儀式を軽んじることは許されませんわ。アラシアの聖女として容認いたしかねます!」

 芝居がかった口調でエルザはそう述べた。

 確かに、笑い事ではない。ロンドの早すぎる裁判といい、その後の即位の儀の件といい、明らかに通常とは違う速さで物事が動いている。

 ロンドはじっくりとヴォルクを見つめた。その視線に気づいたのであろう、ヴォルクが眉を跳ね上げる。

「兄さん!? 違いますからね!」

 あまりに必死な様子に、ロンドは軽く笑い、表情を引き締めた。

「分かっています。ただ」

 最初にアラシアの壁のことがあったので、てっきりそのこと事ばかり考えていたが、実は違うのではないか。もっと単純な利益だけで言えば、王位は実に魅力的な餌だ。

「本人は知らなくとも、恐らくはヴォルクを早く王位につけたかったものがいるのでは……と、そう考えておりました」

「わたくしも同じ考えですわ」

 エルザも同意する。そして、何を思ったのであろうか、突然扇子を自らの口の前に持っていく。静かに、と暗に二人に指示をして、そのままするすると扉に近づくと、扉を背にしてにこりと笑った。

「……とりあえず、事情を知っていそうな者には心当たりがありますの」

 そう言って、エルザは突如、扉を開いたのである。

 城内の扉は基本内開きで造られている。心悪しきものが入り込んできたときに、体重をかけて扉を閉められるようにという配慮がされているのだ。だから、エルザが扉を開けたとき、転がり込むように部屋に入ってきた者を見、ロンドは一瞬警戒をした。曲者か何かが入り込んでいたのか、と思ったのである。

 しかし、意外なことにその顔は見知った人物だった。ロンドは首を傾げる。

「レミリアではありませんか」

 エルザ付きの侍女、レミリアが青ざめた顔で立ち尽くしていた。

 ヴォルクは天を仰いだ。何事にも動じない妹姫の強かさも、ここまでくれば考え物だ。呆れたように溜息を吐き、片眉をあげた。

「この塔は、お前の指揮下にあるんじゃないのか?」

 肩を竦めたヴォルクに、エルザはぴしゃりと言ったものだ。

「お兄様は人が良すぎます。どんなに強固に教育をしたとしても、集団の中に異分子が混ざることなんてざらですのよ」

「だからと言って、腹心が聞き耳を立てているようじゃ、世も末だな」

「あら」

 そう言って、エルザは扇子を広げてにやりと笑う。

「お兄様、お兄様はあまりそのことは言わない方がよろしくてよ。ね、レミリア?」

 名前を呼ばれたレミリアは肩をびくりと震わせた。そのままわなわなと震えだし、戦慄く足で平伏したのである。

「どうか……どうかお許しくださいまし!」

 ロンドは更に首を捻る。どうも自分だけがこの展開についていけていない。問いかける視線をエルザに向けると、彼女はさも呆れたようにこう言い放った。

「本当に……。どうしてこうもみな、人が良いのでしょうね」

 そのままエルザはレミリアに向かい合い、世にも優しい笑顔で微笑んだ。

「さあ、お立ちになって、レミリア。聞き耳を立てていたことくらいで、わたくしはあなたを責めるつもりはありませんのよ」

「エ……エルザ様」

「わたくしが知りたいのはただひとつ」

 妹姫は扇子を自らの掌の上で打ち鳴らす。鋭く高い音に、レミリアは首を竦めた。

「――誰に、頼まれたのです?」



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