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 アラシアの壁は、もはや有毒である。あの壁を撤去しない限り、アラシアの壁周辺は危険だ。国土だけの問題ではない。海に流れ出た毒物は、生態系に多大な被害をもたらすだろう。沖の魚だけではなく、近海の魚も青茸瘤を発症した場合、それを食べるミツチの民にも影響が出ることになる。

 海の竜もすでに青茸瘤を発症しているはずだ。痛みと苦しみから彼らは更に狂暴化し、先日のベラのような出来事が増えていくに違いない。

 しかし、だからといってアラシアの壁を撤去するのか。その可能性を考え、ロンドは眉を寄せた。

 それは無理だ。アラシアの民の今の暮らしは、アラシアの壁があってこそ成り立っている。すでに農業を生業としている国民に、今後の農作物を諦めろというのは酷だ。塩害への備えも必要になってくる。アラシアの国が長い歳月を駆けて行ってきた施政を根本から覆さなければならないのだ。

「アラン様は苦しんでおられた」

 木箱を元に戻すと、ラウルは息を吐いた。

「アラシアの壁をそのまま活かしておけば、国土並びに海の汚染は進む一方でしょう。海の生き物や竜は勿論のこと、ミツチの民やアジュガ、イリア海域に点在する島々にも影響が出る。しかし、それはすぐのことではない」

 ロンドの耳に、太鼓の音が届く。

 すぐのことではないとラウルは言う。しかし、アラシアの壁を放置することは、近い将来に緩やかな死を迎えるということである。

「アラシアの壁を壊せば、国土や海の汚染に歯止めをかけることができる。長い年月はかかるとはいえ、毒は薄まり、清浄な流れを取り戻すことが可能でありましょう。しかし、壁を壊すことは容易ではない。特に今のアラシアでは……」

 アラシアの壁は、国の生命線だ。あの壁があってこそ、今の豊かさがあるのである。害があるからといって、はいそうですかと壊すわけにはいかない。

「ティティとあの方が出会ったのも丁度その折でした。このことはアラシアだけの危機ではない。ミツチの民とて同じ危機を抱えているのだ。ともに解決するための協力者として、ぴったりの娘が見つかった、とおっしゃっていた」

 そう言うと、ラウルは小屋の入り口に立つ。響き渡る太鼓の音に耳を寄せるように、しばし黙った。

「しかし、状況を知れば知るほど、アラン様の苦しみは深まったに違いないのです。ミツチの民の影響は深刻だった。すぐにでも解決して差し上げないと、彼らの未来はない。しかし、だからと言ってすぐにアラシアの壁を壊すわけにもいかん。しかし、何としても助けたい。ミツチの民は気持ちの良い民族だ。王だけではない、わしもこの島に来て、自らの考えを改めることが多かった……」

 それは、ロンドも同じだ。文献でしか知ることのなかったミツチの民や海の竜。この島で生きる人たちの魂を知ってしまった。日々を精一杯生きている、柔軟な考え方を持つ、尊敬すべき人たちである。

「……兄さんは、どちらを選択したのでしょうか」

「――それこそが、今あなた様がここにいて、アラン様がお亡くなりになった理由だと、わしは考えておるのです」

 ラウルはロンドに向き直り、ひたと瞳を見つめた。色素の薄い瞳がロンドの心の奥底を探るように光っている。

「もし弟がここへ来たならば、自分はその時この世にいないだろう」

 ラウルの口調に亡きアランを感じ、ロンドははっと目を見張った。

「その時はどうか伝えてほしい。自分自身の判断ですべてが変わる。そのことを肝に銘じて欲しい、と」

 言葉を落とすと、ラウルは俯いた。皺の寄った頬に一筋の光るものを見て、ロンドは息を呑む。

「わしは確かに伝えました。ここからあなた様が何を選択し、どう生きるかはロンド様次第でございます。後悔のなきよう――」

 そこまで言うと、ラウルは手の甲で涙を拭い、小屋の入り口の白い布をたくし上げる。

「もうじき、ティティ様の継承の儀が行われます。それまで、どうぞごゆるりと」

 小屋を出ていくラウルの背を見つめて、ロンドは息を深く吸い、細く吐きだした。

 ロンドは小屋から出ると、眼下に広がる景色を眺めた。太陽が傾きかけた金色の空に、千切れた綿帽子のような雲が揺蕩っている。

 浜辺には篝火が焚かれていた。規則正しい太鼓の音がもの悲しく響いている。ケチャの小屋の前には木棺が置かれ、簡易的な祭壇が組まれていた。継承の儀はその祭壇で行われるのだろう。

 兄がこの島で、どのように過ごし、何を思ったのかは分からない。しかし、兄は王だった。国土の豊かさとこの島の未来を天秤にかけるなら、当然前者を選択しなければならない立場だ。

 しかし、本当に前者を選んだのだろうか――?

「違う」

 ロンドは声を風に乗せた。

 兄王アランは、いつだって前を向いていた。できることを一つずつ、確実に行う王だった。どんな小さな陳情にも耳を傾け、自らの目で、耳で判断し、物事を多角的に考える王だった。その兄が、一時しのぎの豊かさを惜しみ、後の窮地を許すはずがない。どちらかを選ぶことなどは端から考えもしなかっただろう。


 答えは一択だ。

 アランは、どちらも守る道を選んだのだ。


 アラシアの壁をそのままにしておけば、確かに一時的の豊かさは保つことができる。しかし、国土はじわじわと弱っていく。そのような施政をアランは決して行わない。アラシアの未来も、ミツチの民の未来も、海に生きとし生けるものすべてを守る今と未来のために、アラシアの壁を壊すという選択肢しか持たなかったに違いない。

「僕は……最初から、間違えてたんだ」

 ロンドは膝から崩れ落ちそうになる。両膝を手でつかみ、浅く息を紡いだ。そうだ、自分はなんて思い違いをしていたのだ。

 自分と兄しか知らない方法で、兄は死んでいた。自分が手を下していない以上、兄は自害したとばかり思っていた。

 そんなわけないのに。

「兄さん……!」

 激しい後悔がロンドを襲った。兄はいつだって国のことを考えて、自分にできる最善のことを淡々と黙々と行う男だ。国に帰ってからも、恐らくは必死で、アラシアの国も、ミツチの民も守れる方法を探していたに違いない。

 ロンドに問うた問いもそうだ。ロンドの研究の成果を報告させていたのも、アラシアの壁を撤去した後のことを考えていたのだろう。

 ロンドの研究が、近い未来に必要になることを見越して。そして、その事態が起こった時に、ロンドが指揮を取るであろうことも見越して。ミツチの民とロンドが手を取り合うことができるのかを確認するために、ロンドの意見を聞いた。

 その兄が、自害などするわけがない。

 ――誰かに殺されたのだ。

 もしかしたら、とロンドは震える手で額を押さえる。

 もしかしたら、兄を殺した誰かは、ロンドがこういう行動を取ると予想していたのではないか。アラシアの王族にとって自害は恥だ。兄が殺されているところをロンドに見せることで、アランを庇い、ロンド自ら流刑となるように仕向けられていたのではないか。

 そこまで考え、ある可能性に気づいた。ともすれば倒れてしまいそうなほど、強烈な眩暈がロンドを襲う。

 アランは、自分の身に迫る危機を生前から察知していたのではないか。

 アラシアの壁を壊すという選択だ。そうされて困る者は片手では足りないはずである。いっそこのまま、何も知らないという体を貫けば、自分たちが生きているうちは大丈夫だ、と考える者もいるはずである。

 豊かさを奪われるのは誰でも恐ろしい。それが、未来を救うことであっても、今を顧みない施策として捉えられてしまう可能性は高いだろう。

 兄王は、自分の命が狙われていることに気づいていて、恐らくは実行しそうな者も分かっていたのではないか。

 ――弟が島に来たときには、自分はもう死んでいる。

 ヴォルクの話が脳内を駆け巡る。ロンドの裁判は異様な速さで行われたという。それは何故だ?

 ロンドは毒の知識がある。そのロンドが王冠を被ったら、アラシアの壁の危険性に気づかないはずがない。だから、アランとロンド、両方を一度に排除する必要があったのではないか。


 太鼓の音が、より一層高く響いた。継承の儀が始まろうとしているのだ。ロンドはよろめく足を宥めながら、一歩一歩歩を進めた。

 草をかき分け、丘を降りる、太鼓の音がすぐそばまで聞こえる。祭壇が見える場所まで降り、ロンドはそのまま草むらに身を隠した。ティティの顔をまともに見る自信がなかったのもある。二度と顔を見せるなと言われた以上、のこのこと出ていくわけにもいかなかったのもある。それ以上に、ロンドの頭をぐるぐると回っているのは、兄王アランの死の真実だ。

 ケチャの小屋の前には人だかりができていた。皆神妙な顔つきで、簡易に組まれた祭壇を見上げている。

 ティティは極彩色の衣装をまとい、頭に葉でできた冠を抱き、祭壇の前に立っていた。

 太陽がゆっくりと海に沈み始めている。その赤に燃える夕日と、燃え上がる篝火に照らされて、ティティは神々しいばかりに美しかった。

 あの少女は、人を惹きつける力を持っている。それはロンドだけではなく、アランもそうだったのだろう。ラウルは多くは語らないが、ティティの言葉の節々に感じるアランの痕跡は、とても優しく、温かく、慈愛に満ちたやりとりだった。

 それだけで、兄が、この少女を大切に思っていたことがよくわかる。

 ティティの横にはユマがついた。その反対側にはガルダがつき、ティティの後ろに控えている。彼らは長の補佐として、これから島を盛り立てていくのだろう。

 兄王は、自分自身の判断ですべてが変わる、とそう言っていた。

 

 だから、ロンドは決意する。


 翌日。

 入り江に姿を現したヴォルクに、ロンドは頭を下げた。

「ヴォルク。僕を城へ連れて行ってはくれませんか」

「兄さん……?」

「昨日のヴォルクの問いには、今すぐには答えられません」

「どういうことですか」

「アラシアへ着いたら、知る限りのことをすべて話しましょう。――急いだほうがいい」

 そうだ、とロンドは頷く。アランは自害したわけではない。誰かに殺されたのだ。今のまま知らぬ顔を貫き通してしまったら、アラシア国に膿を残したままになってしまうだろう。その膿を排除し、適切な処置を行わない限り、アラシアは内部から崩壊してしまうに違いない。そして、その膿を取るならば早い方がいい。遅ければ遅いほど膿は広がり、取り返しのつかない事態になってしまいかねない。

 ロンド自らが城へ行き無罪を主張することで、きっと何かが動くはずだ。

兄の死の真相を突き止める。そして今度こそ逃げずに、自分の責務と向き合おう。

 ――そして、僕はどちらも救う。救ってみせる。

 アラシアの国も、ミツチの民も。この海に生きとし生ける全ての生き物を守るために。

 兄王、アランの意思を継ぐわけではない。これはロンドの意思だ。

 ロンドの決意を感じ取ったのであろうか、ヴォルクは重々しく頷いた。先んじて小舟に乗り込み、ロンドを見上げるようにする。ロンドは頷き、彼の後ろに乗り込んだ。船頭が櫂を漕ぐ。舟はゆっくりと、確実に島から離れていく。

 遠くで、竜神ベラの鳴き声が聞こえた気がした。


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