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***



「――お久しぶりですね、兄さん」

「ヴォルク……」

 弟ヴォルクはロンドを認めると、ほっとした顔を浮かべ、ややあって苦笑した。

「随分と日焼けされましたね」

「……そうでしょうか」

「それに、なんだか少し、逞しくなられました」

 ロンドは周囲を見渡す。入り江の先端には、小舟が一艘。漁師のような漕ぎ手が一人いるだけで、他には誰の姿もない。

「ヴォルク、どうしてここへ……? まさか一人で来たのではないでしょうね」

「そのまさかです。この島のすぐ近くに、我が国の拠点があることをご存じない? 国からの船はそこに停めてあります。目立ちますから」

 ご存じなかったので、ロンドは大人しく口を閉じる。

「僕の方こそお聞きしたい。何故アジュガへ連絡を取らなかったのです? この島の者とて、鳥紙の使い手くらいはいるでしょう。随分と探したんですよ」

「しかし、アジュガへ行かなくとも、僕はこのありさまだ。自動的にヴォルクが王になるのなら、必要ないでしょう」

「兄さん。……やはり知らなかったのですね」

 ヴォルクは呆れた口調を隠さず、眉を下げて苦笑した。

「僕が王になるには、兄さんから誓文をいただくか、兄さんが死ぬか、のどちらかが必要なんですよ。生死不明の状態では僕が即位できない。……だから探したんです」

「――そうだったんですね」

 自国にいたときはほとんど施政に関わってこなかった。それがこういう形で露呈するのは今に始まったことではない。以前はそのことについて何も思わず気にもならなかったものだが、今回は違った。

 猛烈な羞恥心。ヴォルクの目を見ることができず、ロンドは俯いた。こんなことすら知らない自分は、本当にどうしようもない愚か者だったのだ。

 そんなロンドに何を思ったのであろうか。ヴォルクは複雑そうな顔で、笑いをかみ殺した。

「生きていてくださって、本当に良かった」

「……ご心配をおかけしました」

 ロンドは素直に頭を下げる。

「では、僕は誓文を書けばいいのですね」

「そのことですが」

 ヴォルクは一度声を潜める。確かめるように周囲を伺い、ぽつりと言葉を落とした。

「――僕は兄さんに確かめたいことがあります」

 そのヴォルクの真剣な表情に、ロンドは息を呑む。彼は一度口を開き、迷い、もう一度口を開いた。

「……兄さんは、アラン兄さんを殺してなどいない」

 ロンドは目を見張る。ヴォルクは拳を握り締め、ロンドから瞳を逸らさない。まるでどんな反応も見逃すものかと言わんばかりの視線に、ロンドはたじろいだ。

「おかしいと思っていました。兄さんはアラン兄さんを慕っていたはずです。また、施政に興味をお持ちでもない。だから、王位を狙ってアラン兄さんを殺す、など、天が裂けても起こりえないことだと思っています」

「天が裂けても……ですか」

「言葉が悪いのは謝ります」

 ヴォルクの瞳が揺らいでいる。

「そもそもおかしいのです。兄さんの裁判自体が、通常では有り得ないほどの速さで進んだことも、あなたの自白を待たずして死刑を求刑されたことも――おかしいのです。王族の裁判だ。下手したら年単位で行わなければならぬこと。それなのに」

 そこまで言うと、ヴォルクは唇を噛み締めた。

「あの時は動転していて、何も力になることができませんでした。せめて死刑は避けねばならぬと、そればかりで……」

「……ヴォルク」

「兄さん、僕はあなたを信じたい。……なぜ、無罪を主張しないのです? それさえ言ってくだされば、僕はいかようにもできる。今すぐこの場から兄さんを連れ出し、王城に迎え入れ、再度調査をすることだってできるんです。それなのに……!」

 叩きつけるように、ヴォルクはロンドに言葉をぶつける。

「なぜ、何も言わないのですか、兄さん!」

 ロンドは黙っていた。黙って、ヴォルクの瞳を見つめていた。親愛なる弟。アランによく似た空色の瞳を持つ、自分よりも余程王になるに相応しい人物を。

「――エルザが、こんなことを言っていました」

 ロンドに話す意志がないことを感じ取ったのであろう。ヴォルクは息を細く吐き、言葉を落とした。

「アラン兄さんは死ぬ数日前より、様子がおかしかった。思い悩んでいらっしゃるようだったと」

 正確にはエルザだけの証言ではない。侍女レミリアの伝手を使い、使用人たちから話を集めたものだ。兄王アランは隙を見せない王だった。それなのに、死の数日前よりぼんやりと考え事をすることが増えていたという。それだけではない。何日も食事を取らずに過ごしたかと思えば、何かに取り憑かれたかのように古い文献を読み漁っては溜息をつく日々だった、と。

「王族の中で最も重い罪は死罪。次点で流罪ですが、それよりも重い罪がある。王としての名誉と誇りを地に落とし、その魂をも汚すといわれる罪――自害です」

 ヴォルクはひたとロンドを見つめている。いっそ睨んでいると言ってもいいほどの眼光で、ロンドの一挙手一投足を逃すまいとしている。

「アラン兄さんは、兄さんと仲が良かった。よく二人で、兄さんの研究のことを話し、報告し合っていた。だから、今のアラシアで毒を扱えるのは、アラン兄さんも同じなんです」

 ヴォルクは苦しげに言葉を重ねる。

「兄さん、あなたは、アラン兄さんを庇って――名誉と誇りを守ろうとしたのではありませんか?」

 どうかそうであってほしい、とヴォルクの瞳が訴えかけている。

 ロンドは口を閉ざしたまま、ヴォルクの瞳を見つめていた。ありがたいことだと思う。ロンドには分かっていた。この弟は、ヴォルクの無実を信じて、自ら足を運んでくれているのだ。もしロンドがここで諾を言えば、きっとヴォルクはロンドの手を取り、国へ行き、今度こそロンドの無実を証明するために全力を注ぐに違いない。

 ロンドは覚えず、微笑んだ。

「ヴォルク。――ありがとうございます」

 愚かな兄だ、どうしようもない兄だ、と言われ続けていた。自分でもそう思っているし、その評価には異論はない。しかし、ヴォルクはこうしてロンドの無実を信じてくれている。そのことが、涙が出るほど嬉しかった。

「僕は、あなたの口からその言葉が聞けただけで満足です」

「――兄さん」

「誓文を書きましょう。書類は持ってきているのですね」

「兄さん、なぜ答えてくれないのです! 僕の問いに答えてください!」

 悲鳴のような声を挙げたヴォルクに、ロンドは笑って首を振った。そのまま口を閉じたロンドに、ヴォルクは絶望を貼り付けたような顔をする。

「……兄さん」

 呟きを落とすと、ヴォルクはくるりと背を向けた。

「――明日の朝、もう一度ここへ来ます。一晩考えてはいただけませんか」

「……ヴォルク」

「兄さんは一度も、アラン兄さんを殺したと明言していない。……兄さんは、そういう時に嘘を吐けない人です」

 泣いているのだろうか、ヴォルクの肩が震えている。

「明日、本当のことを教えてくださると……信じています」

 ヴォルクを乗せた小舟が、ゆっくりと波間に漕ぎだすのを見て、ロンドは天を仰いだ。兄王アランの瞳のような、青々とした空。その空に抱かれて、ロンドはしばし目を瞑った。潮騒と、砕ける波飛沫。鳥の声、風の音。遠くに聞こえるのは太鼓の音だ。

 ケチャの葬儀が始まる。

 ロンドはゆっくりと目を開け、踵を返すと歩を進めた。

 聞かなければならないことがある。兄王が、死の直前に何を悩み、何を考えていたのか。ロンドがここにたどり着くときには、すでに命はない、と告げていた兄王だ。

確認しなければならない。

 ライオネルに、すべてを聞かなければならなかった。


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