想い
1
ケチャの小屋の中は暗かった。ヒルユメの実の香が焚き込めてあったのであろう、残り香の甘い匂いが床板や壁に染みついている。ケチャは、小屋の中央の敷布の上に寝かされていた。枕元に水桶がひとつ、濡れた布が幾重にも重なり積み上げられている。熱が下がらず、体を冷やすために使われていたのだろう。
ティティはケチャの枕元に座り込む。息を整える暇もない。浅く呼吸しながら、少女は父親の顔を覗き込む。怪我をしてもなお覇気のあった瞳は閉じられ、唇は青く、逞しかった体からは力が抜け落ちている。
「……父さん」
声をかけても、父は目を開けない。ティティは自らの口を掌で押さえた。食いしばった歯の隙間から、唸るような声が漏れる。
ラウルに促され、ユマとロンドは小屋を出る。父と娘の最期の別れだ。他人が傍にいない方がいいだろう。
「――親父さんは、死ぬのか」
ユマの呟きが、風に乗って空に溶ける。
既に夜明けである。薄紫色の海は普段と変わらず、寄せては返しを繰り返していた。
「元々助かる傷ではなかったのだ」
ラウルはそう言うと、枯れ枝のような指で眉間を押さえた。
「ケチャどのの傷はあまりにも深かった。今まで起き上がっていたことが既に奇跡と言ってもよい傷だったのだ」
ロンドは深く息を吸い、ゆっくり細く吐き出した。
ユマは先ほどから拳を握り締め、必死に自分の感情と戦っているように見えた。そのまま歯を食いしばると、小屋に背を向け歩き出す。
「……まだ皆には言うでないぞ。ティティには時間が必要だ」
「――分かってる」
ゆっくりと、砂を踏みしめるように歩くユマの背中に、抑えきれない悲しみを見た。ロンドは唇を噛み締める。声を掛けない方がいいのだろう。きっと今、彼も一人の時間が必要なのだ。
「――これからがこの島の真の試練になりましょう」
ラウルがぽつりと言葉を落とした。
「ケチャどのは立派な方であらせられた。今まで大きな騒ぎもなく過ごしてきたのも、ひとえにあの方がどっしりと構えていらっしゃったがゆえ。その長が亡くなったとあらば……島の民の動揺は避けられないことでしょう」
「ティティは、大丈夫でしょうか……」
「……ただの別れではありませぬ。ティティはケチャどのの死に責を感じておられる。――お辛いのではないでしょうか」
ラウルはぽそりと言葉を落とした。
海が紫から金色に染まり始めた頃、ケチャの小屋の入り口に垂らされていた極彩色の布がたくし上げられた。その入り口の柱に、ティティが体をもたれかからせるようにして立っている。
「ラウル、父が……息を引き取った」
感情の読めない声で、ティティが言葉を放つ。
「処置をしてくれないか」
そういうと、ティティは眉ひとつ動かさず小屋を離れ、その後ろの丘へ向かおうとする。
「ティティどの、どちらへ」
「一人にしてほしい」
「だが、長が亡くなられた今、次の長はそなただ。そなたの口から島の民に告げる必要がありましょう」
「そんなの分かってる!」
声を荒げたティティに、ラウルはしばし口を閉ざした。息を整えようとしているのだろうか、ティティは自分の口元に指を当て、浅く呼吸を紡いでいる。
「――ごめん。すぐ、もどるから」
ぽつりと言葉を落とし、駆け出したティティを見て、ロンドは迷った。
今は一人にした方がいいのかもしれない。ティティには時間が必要だろう。そっとしておいて、落ち着くのを待つべきだ。ティティは強い。きっと立ち直ることができるだろう。そう思う心とは裏腹に、ロンドの足は丘へ向く。
自分でも分からない、心の奥底の炎が燃えていた。自分に何ができるのかもわからない。慰めごとなど、きっとティティは要らないというだろう。だが、理屈ではなかった。感情として、ロンドはティティの傍にいたいと思ったのである。
ケチャの小屋の奥、ラウルの小屋を超えた先に、小高い岩が連なる場所があった。赤茶けた岩の群生はずっと昔の溶岩が固まってできたものだろう。ざらざらとした手触りで、所々にきらりと輝く鉱石の結晶が見える。
ティティの姿を岩の先端に認めて、ロンドはそっと近づいた。その姿に気づいていないわけはないだろうに、ティティは何も言わず、ただ黙って海を眺めている。
ロンドも同様に、眼下の海原を見る。ここからは島の大半が見えるのだと改めて気づいた。奥には、ロンドが流されたどり着いた入り江が見える。なだらかな砂丘と、ケラの木の群生。漁をする浜辺、島民の集落。ケチャの小屋も、その前で泣き崩れる多数の島民も見える。
太陽が金色に海原を染めていた。夜が明けたのだ。
「すぐ戻る」
唐突に、ティティが声を挙げた。
「分かってる。次期島長がこんなところにいたら示しがつかない」
ティティはまっすぐに島の集落を見つめている。
「私なんか、いなければよかったのに」
唐突に放たれた言葉に、ロンドは目を瞬かせた。
「ティティ? 何を言うのです?」
「私なんかを庇ったせいで、父は死んだ。私がいなければ死ぬこともなかったのに」
そう言うと、ティティは天を仰いだ。
「……ティティ」
「慰めなくてもいい。そういうの、今いらない」
ロンドは言葉を呑み込んだ。きっと何を言っても彼女の心には届かないだろう。
ロンドはティティの隣に腰をかけた。そのまま一緒に天を仰ぐ。夜明け特有の、色素の薄い青空が視界いっぱいに広がっている。
「私は……両親二人の命を奪ってしまった」
「両親、二人……?」
「ああ。母もそう。私を産んだせいで亡くなった。父も、母も、私のせいで……」
ティティは自嘲の笑みを浮かべている。
「私がいなければ、二人とも死ぬことはなかった。次の長も、きっともっと有望な――それこそガルダやユマが長になっていたんだろうな。その方が島の民にとってもよかったんだ」
「……そうでしょうか」
「そう。ガルダは漁が巧いし、ユマは人望がある。気遣いもできるし、良い男だ。自分の両親を殺し、その長の娘というだけで島長に選ばれる私より、余程適していると思わない?」
「……僕は、うまく言えないのですけど」
唇を舐めながら、ロンドは言った。
「長だから、だとか、適している、だとか。そういうのはみんな後から考えればいいのではないでしょうか」
ロンドはこの島に来て、少しだけ考えが改まった自分がいることに気づいている。
アラシアでは散々馬鹿にされていた自分の知識が、役に立っているという事実。そして、人々から向けられる感謝の言葉のありがたさ。
ロンドはいつも、逃げることしか考えていなかった。施政は自分に向いていない。だから自分よりももっと王に相応しい兄や弟にすべての責任を押し付けていた。
でも――。
「僕は、あなたを見ていて、とても素敵だと思いました。自分のできることを精一杯やろうとしている姿に胸を打たれたのです。大切なのは、漁が巧いことでも、人望があることでもない。この島の者を守ろうとせんがため、行動し続けていること。それが、あなたが長であることの何よりもの証拠ではありませんか」
ティティの島民を思う気持ちの強さは、一緒にいる日が浅いロンドでもよくわかる。彼女はいつも自分の身を犠牲にしてまで、皆を守ろうとしているのだ。
だから、ロンドは思う。
もし、時間を巻き戻せたら。兄が死ぬ前の日々に戻れることがあったなら。ロンドは今度こそきちんとしたいと思っている。自分にできることを精いっぱいやりたい。兄と手を取り合って、逃げることなく、諦めることなく、兄の悩みに寄り添うことができたとしたら、もしかしたら違った結果になっていたのかもしれない。
もしやり直すことができるのなら、とそう思えるようになったのは、ティティのおかげだった。
「あなたに救われた人が、今目の前にいます。ガルダでも、ユマでもない。ティティだからこそ僕は救われたんです。あなたがいなかったら、僕は以前のまま……どうしようもない駄目王子のまま、この地で死んでいたのだと思います」
入り江でティティに助けてもらったとき。ケチャの小屋でティティに庇ってもらったとき。ミラやベラの一件もそうだ。ティティが居なければロンドは今、ここにはいない。
「僕にはあなたが必要なんだ。だから、いない方がいい、など……言わないでほしい」
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