5

「――そう?」

「はい。海に落ちたとき、助けてくれたでしょう。水に揺らめくこの髪が、空気をまとってきらきらと輝いていた。すごく美しいと思ったのです」

 そう言うと、ティティはくすぐったそうに笑った。

「本当に、同じことを言う」

 ティティはそっとロンドの手から自分の髪を取り戻す。返した手で、ロンドの前髪をそっと掬った。

「私に言わせれば、お前の髪の方が綺麗。まるで太陽の色だ。日の光が透けると波飛沫のように輝く。美しい色」

「……! ティティ?」

 ティティの黒々とした瞳が、ロンドを覗きこんだ。その、思わぬ顔の近さに、胸がさざめく。

「……僕は口説かれているんでしょうか」

 目を白黒させるロンドに、ティティは一瞬目を瞬かせ、体をくの字に折って笑った。

「そういうのは思っても口にしないのが嗜みなんじゃない?」

 そう言われて、ロンドは今度こそ赤くなった。むきになって言い返す。

「今までそんな風に言われたことないんですから。誤解してしまったら大変でしょう!」

 ティティは涙目になりながら爆笑している。

「そもそも、最初に言い始めたのはお前の方。だから私はやり返しただけ」

 ティティはひとしきり笑うと、体を戻して天を仰いだ。

「でも、言ったことは本当。お前の髪も、瞳も綺麗だと思う。アランは空の色だけど、お前の瞳は海の色なんだね」

 その言葉に、ロンドは息を呑み込んだ。聞かねばなるまい。今まで聞けなかったことを、聞くなら今しかない。

「ティティは……」

「なんだ?」

 ロンドは逡巡し、ややああって口を開いた。

「――アランとは、どういう関係なのですか?」

 言葉を息に乗せるのには、意志の力が必要だった。

「関係――?」

 ことりと首を傾げるティティに、ロンドは頷いた。

「アランは、アラシアの王でした。ミツチの民と諍いのある国の頂点に立つ男です。その男と、あなたと、どういう関係だったのでしょう」

 そう言うと、ティティはしばし口を閉じた。星が瞬く。潮騒の音が二人を緩やかに包み込む。

「アランは、友だち」

 たっぷりと時間をかけたわりには、あっさりとした答えである。

「友だち……?」

「うん。色々考えたんだけど、その呼び方がしっくりくる」

 そう言うと、ティティはよいしょと手足を伸ばした。

「アランと初めて会ったのは、ラウルの丘。私はその時、ラウルに相談をしようとして……小屋まで出かけて行った」



  ***



 島で魚が取れなくなり始め、ティティは焦っていた。今でこそ、ケラの木の実で凌げてはいるものの、それもいつまでも持つか分からない。早く次の手を打たなければ取り返しのつかないことになる。

 ラウルは信頼のおける薬師である。すでにケチャも相談をしてはいるだろうが、ティティは自分の目と耳で物事を判断したかった。改めて意見を聞きに行こうと丘を走っていたのである。

 丘の草をかき分け、乾燥した大地を蹴る。実際、ティティは焦っていた。だから、普段なら気をつけなければならないことも、すっかりと頭から抜けてしまっていた。

 ふと、空が陰った気がした。空を見上げるが、何もない。抜けるような青空と、眩い太陽が燦燦と輝く、いつも通りの空である。ティティは首を傾げたものの、なおも走り出そうとして――嫌な予感に足を止めた。

 静かすぎる。

 普段であれば聞こえるはずの鳥の声が、一切聞こえないのである。ティティは注意深く耳を済ませた。肌がひりひりとする。ティティの第六感が、危険だと告げている。

 その時、丘の上から嬌声が聞こえたのである。

「……しまった!」

 赤子が泣くような声と共に、強風がティティを襲う。巨大な影が太陽を隠し、耳を劈くようなけたたましい声に身を竦めた。

 ――鳥竜マチュラ。

 マチュラは滑空し、鋭い爪を光らせた。ティティは驚愕する。マチュラは、余程のことがない限り人を襲ったりはしない。それなのに、鳥竜は明らかにティティを狙っている。

 ティティが鳥竜マチュラを避けることができたのは、運が良かったからだ。巨大な翼が風を切り、その風圧に煽られて倒れる。まさに間一髪、ティティの髪の一筋を引っかけて、マチュラは天高く飛び上がった。

 気は高ぶっていても、マチュラは鳥竜である。こちらが礼を尽くせば彼らは大人しくなるはずだ。立ち上がろうとして、ティティは痛みに顔を歪めた。足を捻ってしまったのだろう、起き上がろうとするがうまくいかない。これではとても形を改めることができない。

 頭上でマチュラの声がする。赤子の泣き叫ぶような声で、ティティの周りを旋回している。ティティは焦った。体中から冷や汗が噴き出て、心臓が激しく鳴っている。このままでは危険だ。何とかしなければ。しかし、どうしたら――。

 その時だった。

 丘の上から、駆け降りてくる者がいる。男性だ。腰に下げた剣を抜き、ティティに駆け寄ると背後に庇った。

「大丈夫か!?」

 陽光に金色の髪が煌めいている。この島では一度も見たことがないその髪色に、ティティは一瞬目を瞬かせる。鳥竜マチュラは大きく旋回し再び、滑空。鋭い爪は正確にティティと男を狙っていた。男は剣を正眼に構える。

 その男の背中に殺気を感じて、ティティは思わず叫んだ。

「切るな!」

 男は驚いたようにびくりと肩を震わせ、剣を横へ構え直した。マチュラの爪をそのまま受け止め、返す刃で弾き返す。

 マチュラは再び飛び上がり、二人の上を旋回する。その姿から目を逸らさずに、男は怒気を露わにした。

「馬鹿者! なぜ止めた!」

「馬鹿はお前だ! 神を切ろうとするやつがどこにいる!」

「ここにいる! お前、死にたいのか!?」

「待て!」

 ティティは何とか起き上がると、礼の構えを取った。マチュラは一声鳴くと、まっすぐに二人目掛けて滑空する。

「鳥竜マチュラ! 鎮まりたまえ!」

 ティティは手を前に組む。そのまま目を瞑り、丁寧に拝して祈りを捧げたのである。

 どれほどの時間が経ったのであろうか。ティティが目を開けたときには、マチュラはもういなかった。目の前の男は未だ剣を引っ提げ、呆れた顔を隠さずにこちらを見ている。その遠慮のない視線が少し癪に障り、ティティは眉を寄せた。

「ミツチの民は、竜を操れるという噂だが」

 男は剣を鞘に戻した。

「信じられん。こんな非常識的なやり方だったとは思わなかった」

「信じられないはこっちの台詞。神を傷つけようとするなど、何たる無礼」

 そう言うと、ティティは痛む足を引きずりながら体制を整えた。

 改めて男を見る。父ケチャほどではないが、逞しい体つきの青年である。眩しい金色の髪に、空の色を溶かし込んだかのような青い瞳が印象的だった。しかし、明らかに初めて見る顔だ。ここ数日は嵐も来ていないので、マレ人ではないだろう。

 警戒心をあらわにしたティティに気づいたのであろう、男は形を改めると、ティティの瞳をまっすぐ見た。相変わらず遠慮のない視線だ。だが、先ほどまでの不快は感じなかった。

 人も、竜も、瞳を見ればある程度の生きざまが出るものだ。この男の瞳に映るのは、真実の光だった。ティティを傷つけたり、騙したりするような類の人種ではない。

「――誰?」

 少しだけ緊張を解き、ティティは問う。

「名乗る前に、そちらの名を聞かせてほしい」

 男は慎重な口調でそう言った。

「ミツチの民、長の娘。ティティ」

ティティは小さく息を吸い、自らの名を告げた。男は軽く目を見張ると、ふ、と瞳を細めて笑う。

「次期長どのとは思わなかった。失礼をお詫びしよう」

 男は姿勢を正した。何かを迷い、それを振り切るようにして手を胸に当てる。

「――アラシア国。国王、アランだ」

「そう。よろしく」

 ティティの言葉に、男――アランは目を丸くしたものだ。

「それだけか?」

「それだけ、とは?」

「アラシアの民のことを恨んでいるのでは?」

 ああ、とティティは頷いた。ミツチの民とアラシアの民は因縁の仲だ。その国王と聞けば、何かしらの反応が返ってくると思っていたのだろう。

「私はお前自身になにも思うところがない。だから、お前の話を聞いても、そう、としか思えない」

 ティティは今、それどころではないのだ。食糧難という、今日、明日を争う危機の方が、国同士の諍いよりも余程緊急性が高いのである。早くラウルの元へ行って、今日できることを考えなければならないのだ。

 その答えを聞いて、アランは今度こそ目を剥き、ややあって爆笑した。

「長に話を、と考えていたが。なるほど、お前の方が話が早そうだ」

 そう言うと、アランはす、と手を差し出した。意図が読めず、ティティは首を傾げる。

「我が国と、お前の民を守るため。手を組まないか」

 空の色のような青い瞳が目の前の少女を見つめている。陽光に輝く金の髪が目に眩しく、ティティは目を細めたものだ。

「お前の力が必要なのだ、ティティ」



***



 そこまで話すと、ティティはくすりと笑った。

「実際は、ちょっと面食らった。いきなり国王です、と言われても、反応に困る」

「はあ……」

「だからお前が『第二王子』って話してくれたとき、思わず笑いそうになったんだ。間違いない、アランとロンドは兄弟だ。馬鹿正直に話すところがよく似てる、って」

 ロンドは、ティティの話の影に確かにアランを感じていた。あの兄ならばおそらく、そのような行動を取るだろう。

「それで、手を組んだんですか?」

「ううん」

 ティティは首を振る。

「手を組むというのは同盟だ。私はただの長の娘でそんな権限はない。だから断った。その代わりに『友だち』としてなら協力する、と」

 その答えを聞いて、ロンドは少し笑った。アランは国王だ。友だち、という響きがこれほどまでに似合わない職業はない。

「兄さんは驚いたでしょうね」

「笑ってた。でも納得してくれたみたいで、承諾してくれた」

 目を細め、心の底から楽しそうに笑うティティを見て、ロンドは胸がずきりと痛んだ。この少女と出会ってまだ日が浅いとはいえ、分かることも多い。ティティは、さっぱりとした性格で飾らない笑顔が魅力だ。しかし、少女は兄王アランのことを話すとき、柔らかく、甘やかで、花が綻ぶような笑顔を見せる。

 彼女の、アランに対する感情は、友情の域を超えているのではなかろうか。

 ロンドはずきずきと痛む胸を押さえた。話せない。とてもではないが、この少女にアランの死を告げることはできない。

「――それで、ティティはどんなことを協力したのです?」

 苦し紛れに問うと、ティティは口元に指を置き、ころころと笑った。

「大したことはしていない。ただ、この島にいる鳥や魚、生えている木や草。それらを知りたいと言っていたので、教えただけ」

「理由は? なぜそれを知りたいかは聞いたのですか?」

「いや。聞いてないな」

「……不安はなかったのですか」

 思わず問うた。自国の生態系を教えることは、敵に情報を与えることになる。いくらティティに敵対心がないとはいえ、利用されるとは思わなかったのだろうか。

 その言葉を聞いて、ティティは不思議そうに首を傾げた。

「ない。アランは自分の国のためとも、この島のためともと言っていた。その言葉に嘘はないと私は思っている。――いや、知っている」

 そう言うと、少女はロンドにずい、と近寄った。

「嘘を吐くとき、人は目に出る。だから目を見ると分かる」

 ティティの瞳がロンドを捕えた。黒曜石のような黒々とした瞳が、いたずらっぽく光る。

「――ロンドは、何か私に隠している」

 思わぬ言葉に、ロンドは息を呑んだ。動揺したことに気づいてはいるのだろう。しかしティティはそのままくしゃりと笑い、ロンドから目を外した。

「アランは国に帰って、皆を救うための手立てを考える、と言っていた」

「――え?」

「だから、無事に帰れてよかった。――そう思っている」

 そう言いながら、ティティはもう一度、ロンドの瞳をしかと見つめた。心の奥底まで見通すかのような光だ。話すなら今だぞ、と暗に言われているような気がして、ロンドは目を泳がせた。

 ――言えない。

 喉元まで出かかった言葉を辛うじて呑み込んだ。

 ――兄さん……。どうして。

 ロンドは心が冷えていくのを感じていた。

 ライオネルとの話を総合すると、兄王はミツチの民のことについて何かしらの調査を行っていたのだろう。現地に来て、青茸瘤のことやティティの話を聞き、自国に何かしらの不利益がある物事を見つけたに違いないのだ。

 兄は悩んでいた。死ぬ直前までミツチの民について調べていた。それがミツチの民のことなのであれば尚の事、この少女に兄の死を告げることはできない。

「ティティ!!」

 その時である。緊急性の高い声に、ティティとロンドは振り返った。ユマだ。蒼白な顔をして、息を荒げながらもこちらへ駆けてくるのが見える。何かがあったのだ。

「ティティ、戻れ」

 ユマは息を整える間もなく、ティティの肩を掴んだ。

「ラウルが呼んでる! 親父さんが……!」

 弾かれるように、ティティは走った。ロンドも後を追う。

 暁闇。緩やかに太陽が昇り、月と星が消えていく。風が舞い、ティティの黒髪を巻き上げていく。

 夜明けが近かった。新しい朝が生まれようとしていた。





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