3
舟は回る。先導するユマの小舟を追いかけて、竜は速度を上げている。長い尾が海原を叩く。そのたびに舟は大きく傾ぎ、ティティは歯を食いしばりながら必死で櫂を握った。竜の周りに円を描くように舟を操ると、竜と並列で走らせる。
先頭のユマは背後を振り返らない。櫂を両手で持ち、死に物狂いで猛進している。竜はすぐ後ろだ。ティティは背筋にひやりとするものを感じた。ユマはもう限界に近い。速度が少しずつ落ちている。
「ロンド! 行くぞ!」
「はい!」
ロンドは懐から木筒を取り出し、しかと構える。
ティティはロンドを一瞥し、櫂を握る手に力を込めた。ぐん、と舟の速度が上がる。竜の真珠色の鱗が目の端に移り、波飛沫にきらきらと輝きを残しながら残像となって後方へ流れていく。
竜が首をもたげた。ベラが首を持ち上げるときの行動は二つ。そのまま薙ぎ払うように首を振るか、吠えるかのどちらかに限定される。可能性は二分の一だ。もし外したらロンドもティティもかなり危険なことになるだろう。
「ティティ!」
「よし!」
そのまま更に速度を上げる。耳の横を風が切り裂く。水飛沫が顔にかかる。緊張のあまり張り裂けそうになる鼓動を抑え込むようにして、ロンドは木筒を後方に構えた。一か八かやるしかない。
「ユマ!」
「ティ、ティ」
「変われ!」
そのまま雪崩れ込むように、ティティは舟を竜神ベラとユマの間に滑り込ませた。
竜が吠える。耳を劈くような声がロンドの鼓膜を震わせた。
――勝った!
その竜の、大きく開いた口の中に。
「頼む!」
ロンドは満身の力を込めて、木筒を投げ入れたのである。
綺麗な放物線を描き、木筒は竜神ベラの口内へと吸い込まれる。一瞬の出来事だった。驚いたのであろう、ベラは速度を落とし、首を左右に振り始める。そのまままるで操り人形の糸が切れたかのように、水面へ崩れ落ちた。
轟音。壁のような波が舟を襲う。きりきりと舟が舞い、衝撃で宙に浮く。
「掴まれ!!」
舟の縁にしがみつきながらティティは叫んだ。ロンドも同じように縁を掴もうと試みた。しかし、上下左右に揺れる舟がそれを許さない。波飛沫がまるで魔の手のようにロンドの体を絡めとる。手が滑る。足が縺れた。そのまま体が投げ出され――落ちる。
「ロンド……!」
ティティの悲鳴が、水音にかき消された。海の青、波の白に抱かれて、ロンドはもがいた。焦れば焦るほど水面は遠ざかり、意識に霞みがかかっていく。
ゆっくりと沈むロンドの、その腕を握る者がいる。力強く腕を引き、水面へと泳ぐ者がいる。
薄れゆく視界の中で、黒髪を藻のように揺らめかせるティティの横顔を見た。黒々とした目は水面を睨むように見上げ、ただひたすらに上に向かうためだけに水を蹴る。黒髪が空気の泡をまとい、まるで宝石のようにきらきらと輝いていた。
***
ようやく小舟で浜に乗り上げたときには、ユマは膝が震えて立ち上がることができなかった。
「おお……! 無事か!」
ラウルだ。蒼白な顔で小舟に近づくと、ユマの肩に手を回して舟から引き上げるようにする。
「怪我はしてなかろうな」
「だいじょうぶ、だ……ただ」
脳裏に水面に広がる赤が浮かび、ユマは唇を震わせた。
「ティティと、ロンドがやられた。……畜生、なんでこんなことに」
ロンドが何かを竜神に投げ入れ、竜神が暴れた。ユマに分かったのはそのくらいである。荒ぶる竜神の立てる波は容赦なくユマを襲い、舟から落とされないようにするので精いっぱいだった。気づいたときには、竜神と対峙していたロンドも、ティティも姿が見えない。ただ彼らの乗っていた小舟の残骸が、まだ荒れている波間に浮き沈みしているだけだった。
息も絶え絶えに舟から降りた島民たちも、茫然と海を見つめていた。竜神ベラの姿はもう見えなかった。沈んだのか、あるいは泳いで逃げたのか。ただ荒れた波が、白い飛沫となって浜辺に打ち寄せられていた。
「ベラは……」
「死んだのか……?」
「ティティは……」
島民の囁き声が、ざわざわと潮騒のように広がっていく。その騒ぎを鎮めるかのように、厳かな声が響いた。
「――生きておる」
ケチャだ。傷を庇っているのであろう、ゆっくりとした足取りで浜へ降りると、島民たちを見渡した。一歩、一歩歩み、水面に足をつけた。
「ケチャ様、お体に障りますぞ!」
ラウルの制止も振り払い、ケチャはそのまままっすぐ水の中へ入っていく。顔が歪む。潮水が傷に障るのだ。そのまま腰まで水に浸かると、ケチャは手を前で組んだ。
その意図に気づき、ユマは目を見開いた。震える足で同じように海へ入り、ケチャに倣って手を組む。そのまま丁寧に拝し、祈りを捧げた。島民もひとり、またひとりと海へ入り、手を組んで頭を垂れる。
それは静かなる祈りだった。
言葉はいらない。誰も何も話さない。ただ柔らかな潮騒と、風の音、鳥の声だけが辺りを包み込んでいた。
その音に異質なものが混じった気がして、ユマははっと顔を挙げる。水面から、まるで卵が孵化するかのように頭が一つ。続けてもう一つも浮かび上がり、こちらに向かってゆっくりと泳いでいる。
「――ティティ! ロンド!」
こちらに気づいたのだろう、ティティは一度水面から大きく手を伸ばし、ゆっくりと振った。島民の歓声が響く。急いで舟を出すもの、泳ぎ迎えに行こうとするもの、皆が二人の帰還を心から喜んでいた。
「まさか、あの竜神ベラを相手に……」
「ああ」
ラウルの呟きに、ケチャも相槌を打つ。
「あのマレ人、ロンドと言ったか。彼と、わが娘ティティ。それにユマ。この三人の成したことは、きっと後世に残る伝説となろう」
「ええ。――きっとそうでしょうとも」
頷きながら、ラウルはそっと海に目を移した。ロンドの策は見事成功したといえよう。だかしかし、根本の解決には至っていない。まだ気を緩めてはいけなかった。
ロンドに伝えなければならない。彼の兄、わが国の王が何を懸念し、何を考え、何を行おうとしていたのか。
ラウルは決意を新たにし、ティティとロンドを迎えに行こうと歩を進めた時だった。
「……後は頼んだぞ」
潮騒に溶けるように、ぽつりと落とされた言葉がラウルの耳に届く。
ケチャの体が大きく傾いだ。体中が脂汗にまみれ、顔色が土のようになっていく。
「――いかん! 長どのを小屋へ!」
駆け寄る数人の島民に指示をしながら、ラウルは胸の中心が冷えていくのを感じていた。
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