2
***
ユマは、どこか呆然としながら目の前の光景を見ていた。青い空に、ちぎれて浮かぶ白い雲。きらきらと輝く水面。普段と変わらないその海辺に、突如現れた異質のもの。
「竜神、ベラ……」
小山のような大きな体だ。鱗は真珠色で、陽の光に煌びやかに輝いている。神々しくも恐ろしい竜の姿がそこにあった。
「ベラが……!?」
「なぜこんな近くに……」
漁の手を止め、島民たちが興奮気味に騒めいている。しかし、ユマの脳裏にはひとつの事実が過っていた。先程のティティの話が、ちかちかと脳内で信号を放つ。
肌がひりひりする。喉が干上がり、引っ掛かりながらもユマは声を風に乗せた。
「逃げろ……」
「なんだって?」
「早く、逃げろ!」
ユマの叫ぶ声は、竜の咆哮にかき消される。体を引き裂かれるかのようなおぞましい声が耳から脳天へと突き抜けていった。
弾かれるように櫂に飛びつき、無我夢中で浜を目指す。その背後で、竜神ベラは再度吠え、長い尾をくゆらせた。水面に一撃、小舟が一瞬宙に浮き、強か水面に打ち付けられる。
水に叩き落されそうになり、ユマは必至で小舟の縁にしがみついた。目の前で、仲間の船が空に浮く。ベラはそれを逃さずに、尾で船を薙ぎ払った。水面に瓦礫となって落ちていく船と広がる赤い血で、ユマはようやく理解した。
危険だ。ベラは今、正気を失っている。
「逃げろ! 早く! とにかく浜へ!」
ユマは叫び、再び櫂を手に猛然と漕ぎ始める。
「手を動かせ! 死ぬぞ!」
同じく声を挙げているのは、ガルダだ。まだ若い島民を叱咤し、しんがりに回って追い立てるように舟を操っている。浜がぐんぐんと近くなる。しかし、それ以上に竜の咆哮も背後に迫っていた。
ユマの背後の舟からくぐもった声がした。振り返る余裕はない。櫂を持つ手に力を入れ、必死に漕ぎ続ける。その前方に浜が見える。怯え、逃げ惑う島民と、そして。
――ティティ!?
丘から駆けつけてきたのであろう、ティティと、ロンドが浜にいる。ひどく強張った顔で、逃げる小舟と、その背後にいるであろうベラを凝視している。
「ティティ、行きましょう!」
ロンドが叫ぶ。ティティはその声に合わせ、浜に止めてあった舟を海へと繰り出した。その船にロンドが飛び乗り、猛然とこちらへ――竜の方へと舟を走らせたのである。
「馬鹿な!?」
「――何してる! 逃げろ!」
島民の声も耳に入らないのであろう。ティティは猛然と舟を漕ぐ。波に逆らい、浜へ急ぐ小舟を避けて、竜の前に躍り出た。
「――おい!!」
ユマは思わず舟を止め、櫂を操り二人が乗る小舟を追う。ベラはもう目の前だ。金色に光る双眸は野生の光を持ち、開いた口の横からはぞろりと舌が這い出ている。
「なに、やってる、んだ! 死にたいのか!?」
二人の乗る小舟に横付けし、焼け付く喉を振り絞ってユマは叫んだ。ティティは竜神ベラを凝視したまま、ぴくりも動かない。ロンドはティティの後ろに立ち、蒼白な顔で竜を見つめている。
「ユマ、大丈夫だ」
ティティは竜から目を離さず、そう言葉を落とした。
「ベラは私たちが止める。だから、お前は逃げろ」
思わず呆然としたユマである。ティティは冷静だった。しっかりと前を向き、竜神ベラに向かいあっていた。
「……そんなわけにはいくか!」
ユマが感じたのは、恐ろしさを上回るほどの純粋な怒りだった。この少女は、また自分には何も言わない。いつだってすべてを背負い込もうとする。そんなに自分は頼りないのか、この危機に瀕してもなお、自分を除け者にするのか。
「あんたはいつもそうやって一! 人でなんでもやろうとする! 言え! 俺は何をすればいい!?」
ティティはその言葉を聞いて、きょとんと瞳を瞬かせ、噴き出した。
「一人じゃない。ロンドもいる。それに、今、私はロンドの足だ。指示を出せるのはロンドだな」
「ええと……すみません」
いたたまれず、思わず謝ってしまったロンドである。
「ユマ、もし嫌じゃなければ手伝ってください。ベラを、一時的に引きつけることはでますか?」
「当たり前だ! 馬鹿野郎!」
やけくそ気味に叫んだユマに、ティティは口の端でにっかりと笑った。
「頼んだ」
それだけ言うと、ティティはす、と舟を漕ぎ、ベラの視界の外へと向かう。ユマは改めてベラと向かい合った。冷や汗が止まらない。櫂を持つ手がじっとりと濡れて、滑りそうになるのを再度握り直した。
ベラは爛々と目を光らせ、長い首をもたげて吠える。脳天を劈くような声。逃げ出したい衝動を必死に抑え、ユマは歯を食いしばった。
「来い! 竜神ベラ!」
「――大丈夫でしょうか」
ベラと向き合うユマを振り返りながら、ロンドはティティに声をかけた。自分で頼んだこととはいえ、無茶を言ったのではないか。ティティは櫂を動かしながら、頷くことでそれに応える。
「ユマは、やる、といったらやるやつだ」
ティティとて、心配していないわけではない。しかし、ティティはユマのことを知っている。彼はいつだってティティの傍にいて、彼女の手助けをしてくれるのだ。
「――だから、ユマには頼りたくなかったんだけどな」
「ティティ?」
「……なんでもない。それより、どうする?」
ユマの操舵する小舟はベラの視界の横をすり抜け、大きく円を描くように水面を滑る。
「このまま横に回りこんでください。ベラがユマに気を取られている間に近づきましょう」
ロンドは懐に忍ばせている木筒を服の上からそっと抑え、頷いた。間近に見る竜神ベラの姿に、逃げ出したい感情とそれを抑え込む感情がせめぎ合う。
竜神ベラが、島の近海に現れた。ティティのもたらした報せに、二人のマレ人は青ざめたものだ。
丘の上から見た竜神ベラのあまりの恐ろしさに、ロンドは膝が震えた。これほど離れているにも関わらず、恐ろしく巨大な体だ。鋭い瞳は金色に輝き、裂けた口から放たれる咆哮が空を切り裂き、木々を、大地を揺らしている。蛇竜ミラとは比較にもならない威圧感だった。
「あれが、ベラ……」
「いかん! 島民が!」
漁に出ていたのであろう、小舟が何艘も波間に浮いている。ベラは再度咆哮し、小舟を薙ぎ払うかのように、長い尾を振りかぶった。
「――!!」
ティティが弾かれるように駆け出した。
「ティティ!」
後を追おうとするロンドの肩を、ぐ、と抑えた者がいる。
「ライオネル! 離してください!」
「馬鹿なことをなさるな! あの状態の竜に人が何をできるというのです!」
「でも、皆が! ティティも!」
「命を捨ててはなりません! あなた様は次の国王でいらっしゃる!」
「――そんなの関係ない!」
ロンドはほとんど初めて、怒りに打ち震えている自分を見た。目の前が赤い。こみ上げる感情が、彼の喉を震わせた。
「僕はティティに恩がある! だから行きます!」
「ロンド様!」
「離してもらおう、ライオネル!」
それは、真実。王命だった。
ライオネルは弾かれるように手を放し、最敬礼の礼を取る。
手が震えた。この、いっそ頼りないとも思える第二王子の鮮やかなる気性に、彼は王威を見たのである。
ロンドはそのことには気づかない。荒れ狂う感情だけが、彼の心を支配していた。
「ライオネル。ヒルユメの実はまだありますか」
――お前の判断ですべてが変わる。
兄の声が頭の中をぐるぐると回っている。その通りだ。自分の判断ですべてが変わるならば、ロンドはティティを、島の民を助けたい。自分が動くことで何か変わるかもしれない。否、変えてみせる。その思いが、ロンドを動かした。
問われて、ライオネルは頷いた。
「――小屋に。煎じる前の物ですが」
「それを全ていただきたい。あと、木筒があればそれも」
ロンドの狙いに気づいたのであろう、ライオネルは目を見張り、小屋に取って返すと用意の物を手渡した。皮袋にずっしりと入ったヒルユメの実と、両手に収まる大きさの木筒だ。
あの巨体だ。これだけでは足りないかもしれない。うまくいくだろうか。
――それでも、やる。
うまくいくか、行かないかはやってみなければ分からない。しかし、ここでやらなければ確実に散る命があるのだ。それならば、やるしかないだろう。
「ご武運を!」
その声を背後に、ロンドは今度こそ丘を駆ける。
「ティティ!!」
先に浜まで来ていたティティは、今まさに、舟に乗らんとするところだ。
「ベラの元へ行くのでしょう?」
「――ああ。止めても無駄だ」
「まさか。僕も行きます!」
その言葉に、ティティは目を丸くする。
「ロンド、お前……」
「僕に考えがあります。舟を出してください!」
詳しく説明している暇はない。こうしている間にも、ベラは舟を蹴散らし、浜に近づきつつある。ティティはロンドの瞳を覗き込み、にかりと笑った。
「嘘じゃないな。――信じよう!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます