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***
マレ人ラウルは、十年ほど間、やはり嵐の日に流れ着いた「贈り物」だったという。頑固者の偏屈で、当初は島民の反発が顕著だったという話だった。しかし、彼は礼儀をわきまえれば知識を分け与えることを惜しむことはない。その確かな知識力でケチャに引きたてられたのだという。
三人はラウルの元を訪ねるべく、長の小屋の裏手にある小高い丘を目指していた。ラウルは集落で暮すのをよしとせず、手つかずの自然の中で暮らすのを好むのだと、そういう話である。
「あの爺さん、ほんと何でこんな場所に住んでるんだよ……」
緩やかな傾斜をのぼりながら、ユマはそう愚痴を零した。ティティはくすくすと笑みを零す。
「仕方ない。ラウルの行動に関しては何も言わない代わりに、知識を借りるという約束だもの。ラウルの好きな場所で好きなようにやってもらうのが、この島にとっては一番いいことなんだ」
人ひとりが通れるか否かの細い獣道だ。大人の腰のあたりまで草が生い茂り、手でかき分けないと進めない道もある。浜辺に生えているケラの木のような高木はほとんどない。あるのは幹に瘤のようなものが浮き出ている低い灌木だ。その木の根が土からぼこぼこと突き出ていて、歩きにくいことこのうえない。確かに、人が住むには適した場所ではないだろう。
しかし、ロンドの目には別の物が見えていた。
「なるほど……。ラウルと言う方は、とても薬学に詳しい方なのですね」
「どうした、急に」
呟いた声に、ティティが首を傾げた。
「いえ。例えばその草……」
そう言って、今まさにユマがかき分けんとした草を指さした。明るい黄緑色が美しい、すんなりとした姿の草である。
「それ、薬草です」
思わず顔を見合わせたティティとユマである。
「ハマトクサ、という名前です。この草をよく煮込み、汁を乾燥させると白い結晶が残る。その結晶を水に溶かして飲むと、喉の痛みが和らぐのです」
「これが、薬草? 嘘だろ!?」
ユマが驚きの声を挙げたのも無理はない。ロンドが「ハマトクサ」と告げたその草は、島の至る所に生えている。あまりに生えすぎてしまうので、たまに刈り込んだり燃やしたりして処分してきた、ただの雑草だと思っていたのだ。
「それと、あの木」
ロンドが指さしたのは、ごつごつとした灌木である。
「あれは、薬です」
二人は目を剥いた。
「薬……? それこそ冗談! あれは、だって」
目を白黒させるユマに、ロンドは軽く頷くことで答えた。
「ええ。あの木はティエノキ、と言って。葉は毒があります。汁が肌につくと爛れを起こすので危険なのですが」
そう言いながら、ロンドは木に近づいて葉を一枚、根元からもぎ取った。
「この葉を傷つけないように摘み天日で乾燥させてから砕きます。そのあと一度湯零しして煮返すと、毒が抜け、美味しく食べられるようになる。少し辛みのある味で、体が弱っているときに食べると風邪予防になります」
もはや言葉も出ない二人である。
「あんたはいったい、何者なんだ……」
ユマの呟きには気づかず、ロンドは夢中で言葉を重ねた。
「この丘は、僕には宝の山に見えます。ラウルという方もきっとそうだったから、この場所で暮らすことを選んだのでしょう」
実際、ロンドは興奮していたのである。この草や、木、件のヒルユメの実など、通常であれば気にも留めないであろう雑草が、薬になることを知っている人物なのだ。それは、孤独に研究をしてきたロンドにとって、初めて同じ目線で物事を捕える同士ともいえる存在だった。
「おい、あいつ……大丈夫か」
目を輝かせるロンドを見て、ユマはティティに耳打ちをする。ティティは誇らしげに頷き返した。
「ユマ。私は今とても嬉しい。嵐の贈り物はときたま素晴らしいものを私たちに届けてくださるが」
そう言って、ティティは手を前で組み、簡易の礼を行った。
「ラウルのときもそうだった。あのマレ人、ロンドもそうだ。マレ人たちは、きっと私たちの助けになってくれるに違いない」
草をかき分け、丘を登ると見えてくるのは簡易な小屋だ。石を積んで作られた壁と、板葺きの屋根。そのどれもが酷く傾いでいる。日よけのためだろうか、入り口に垂らされた麻布が、丘から駆け上る風にひらひらと待っていた。
その小屋の横、朽ちかけた椅子に、一人の老人が腰を下ろしていた。近づいてくる三人を認めたのであろう、老人はゆっくりと立ち上がる。小柄な老人だ。背は曲がり、枯れ果てた枝のような細い体をしていた。風が吹いたら飛んでしまいそうな、いっそ貧弱とも言っていいほどの体つきにも関わらず、漂う雰囲気は巌のような揺ぎなさだった。
「すまないが」
声を聴いて、ロンドは首を捻った。どこかで聞いたことのある声だ。ここ最近のことではない。もっと遥か昔、記憶の底に沈んでいた声の音である。
「そのマレ人と二人で話がしたい。席を外してくれないか」
そう厳かに告げたラウルが、ロンドに意味ありげな視線を送ったことに気づいたのであろう。ティティは一礼し、ユマを伴ってその場に控えた。
「おいで。わしはそなたに確認したいことがある」
手招きを受け、ロンドは足を踏み出した。小屋の入り口の麻布が、まるで誘っているかのようにひらひらと揺れていた。
「さて」
小屋の中は暗かった。石造りの壁のおかげだろうか、ひんやりとした感触が心地よい。ラウルは小屋に敷かれていた藁座に腰を下ろすと、色素のない瞳でロンドを見上げる。その目の光に親しみを感じて、ロンドはたじろいだ。老人の髪は白く、目は白銀に近い色合いだ。肌は日焼けをしているが元々色は白かったのであろう。赤茶けた染みが骨ばった手の甲に浮き出ていた。
「お久しゅうございます。殿下、わしを覚えていらっしゃいますかな」
ロンドは目を見開いた。
殿下、と呼ぶということは、この老人はロンドの正体に気づいているのだ。しかし、なぜ。自分がアラシアの王子だということはティティにしか話していないことだ。まさか、ティティが話したのであろうか。
いや、違う、とロンドはその考えを否定する。ティティは島の民に動揺が走るのを警戒していた。ロンドにも「正体を言うな」と釘を刺したくらいである。わざわざ火種になるようなことを言うわけがない。
困惑しているロンドを見て、何を思ったのであろうか。ラウルは目を細め、顎を撫でるようにする。
「いえ、覚えていないのも無理はない。あなた様はまだ御子であらせられた。だがその瞳の奥の探求心、湧き上がる泉のごとき好奇心。あの時のまま変わらず成長されたお姿、まことに嬉しく思いますぞ」
そう言うと、ラウルは細い体を器用に操り、礼の形を取った。跪き、手を膝に乗せ頭を垂れる――アラシアの民が王族へ取る、最敬礼だ。
「……嘘でしょう」
ロンドは耳を、目を疑った。
記憶の底に眠っていた顔と形が、目の前の老人に重なった。まだ幼かった頃、王城の図書館で一度だけ会ったことがある。兄アランにロンドの素質を伝え、守るようにとの言葉をくれた、教育係の……。
「ライオネル……ライオネルではありませんか?」
老人ラウル――かつてライオネルと呼ばれていた教育係は、目の光を和らげる。そして恭しく頭を下げ、こう告げたのである。
「お懐かしゅうございます。ロンド殿下。そしてお会いしたくありませんでした。ええ、わしはあなた様だけにはお会いしたくなかったのです」
***
丘の上は風が強い。海から吹き上げてくる風が、ティティの髪を嬲って空へと巻き上げていく。
ティティは、小屋から少し離れた小高い岩の上にいた。この岩からは、島が一望できる。陽が傾き始めたのだろう、遠くに見えるケラの木は影を一層濃くし、浜辺に濃い陰影を描いていた。ユマはいない。漁を手伝うと言って先に丘を降りたのである。
海では、ユマを含む島の民が漁を行っている。彼らには、漁をやめるという選択肢はない。魚が取れなくなった原因を探すのは一朝一夕にはいかないであろう。何はともあれ、その日の食べるものを手に入れないことには生きてはいけないのだ。
ティティは岩に付着していた藻を撫でた。干からび、乾燥した藻は少しの水があれば生きていけるのだ。だから、こうした丘の上でも見つかることが多かった。
ロンドの話を、早く島の民に伝えたい。この藻や、ケラの木が食べられることを知ったら、島民はどれほど安心するであろう。
しかし、島民がティティやロンドの言葉をすんなり聞くかと言えば、恐らく否だ。島での生活に慣れたとはいえ、ロンドのマレ人としての信頼感はまだ十分ではない。それに、とティティは唇を噛み締める。
自分が長の娘で、次の長になる立場だということを快く思っていない者もいる。ティティはそれをよく知っていた。それはそうだろうと彼女自身も思っている。ティティ自身には何の力もない、何かを成しえたわけでもない。ただティティの父が長だったから、慣習でティティが後を継ぐことになっているだけなのだ。
そんな名ばかりの長に、いったい誰が着いてきてくれるというのだろうか。
長ケチャは、きっともうすぐ儚くなってしまうだろう。ティティはその事実を思うたび、大声で泣きわめきそうになる。全てが重く、恐ろしく、そんな現実を見るのが怖くて、そのたびティティは目をぎゅっと瞑るのだ。
――怖いものは、見えないともっと怖くなる。
そう教えてくれたのは、アランだった。
――目を開けてしっかり見れば、おのずと怖くなくなるものだ。
しかし、まだティティは目を開けない。目の奥で赤や黄色の光がぐるぐると舞い、暗闇に沈んではまた浮かぶ。
ティティは彼と出会った日のことを思い出す。
――我が国と、お前の民を守るため。
空の色のような青い瞳。陽光に輝く金の髪が、目に眩しい。世界にこれほど美しい人がいることを、ティティは知らなかったのだ。
――お前の力が必要なのだ、ティティ。
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