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 ***



 間近に見たベラは、美しい姿をしていた。

 ティティたちが乗っている木舟の何十倍もあろうかという大きな体を波間に浮かべ、長い首は天を向いていた。月明かり、星明りに照らされ、竜の真珠色の鱗がきらきらと輝いている。神ともいわれるその姿を拝謁できた幸運に、ティティは興奮したものだ。

 父ケチャは驚かなかった。舟を漕ぐ手を止め、竜に向かい合うと、す、と姿勢を改め、手を前で組んだ。慌ててティティも父に倣った。相手は竜神だ。不敬を働いてはいけないという想いが強かった。

 しかし、父ケチャはその姿勢のまま微動だにしない。本来ならばそこで拝さなければならないはずである。しかし、ケチャは目を見開き、恐れ多くも竜神ベラを真向いから凝視していた。隣にいたティティには、ケチャの体が強張っているのがよく分かった。

 おかしい、いつもの父の様子ではない。ティティが声をかけようとした、そのときだった。

 ベラがぐるりとこちらを向いた。

 長い首を曲線状に曲げ、ティティとケチャを凝視しているのである。金色の両眼が二人を捕えている。その目に見つめられた瞬間、ティティは体中の毛穴から冷や汗が噴き出るのを感じた。

 危険。

 それは、勘というより他になかった。喉がからからに干上がっている。体が震え、息をするのもままならない。今まで感じたことのない、肌がひりつくような緊張で、ティティは歯の根が震えるのを抑えることができなかった。

「……逃げろ」

 呟いたのは、ケチャだったのか、それともティティ自身だったのか。

 弾かれるように櫂を握った。舟の向きを変え、漕ぎだした瞬間、背後から咆哮が聞こえたのである。

 耳を劈くような声だった。竜神が怒っている。巨大な体をくゆらせ、長い尾が強かに水面を打った。波が容赦なく舟を襲った。小さな木舟は渦に巻き込まれた葉のようにきりきりと回り、ティティは強か腰を打ち付ける。

「竜神ベラよ! 鎮まりたまえ!」

 ケチャが声を挙げた。その声はベラには届かない。硬質に光る二つの目玉は炯々と光り、鋭い牙が月に照らされぎらりと光る。

 ベラは吠えた。振り上げた長い尾が鞭のようにしなり――ケチャはティティに覆いかぶさるようにして――一切の音が消えた。

 どれほどの時間が経ったのであろうか。ティティが目を覚ましたとき、ベラは既にいなかった。海は穏やかな顔を取り戻しており、水平線はうっすらと紫色に染まり始めている。

 辛うじて残った舟板の上で、ケチャとティティは身を寄せ合っていた。ケチャは気を失っているのか、それとも寝入ってしまっているのか。浅く紡がれる呼吸を聞き、ティティはほっと胸をなでおろす。

 そのまま体を起こそうとしたが、うまくいかない。体にしっかりと回された太い腕は、ケチャだ。一向に動く気配のないケチャを起こすべく、ティティが体を引きはがそうとしたとき、それに気づいた。

 極彩色の布を染めるかのような、真っ赤な液体。

「父さん……?」

 ティティは、言葉を失った。




「父は、背中から腰に掛けて、ざっくりと切られていたんだ」

 一度言葉を区切る。ティティは浅く息を紡ぎ、言葉を重ねた。

「……岸に戻って、それからどうしたのかは、私も詳しく覚えていない。ラウルを呼んで、父を託し――父は一命を取り留めた。でも……」

 そう言って、ティティは唇を震わせる。

 話を聞きながら、ロンドはティティが何を考えているのかが分かるような気がした。ケチャの傷は、背中から腰に掛けてだと言っていた。つまり、ケチャは、ティティを守るために自らの体を盾にしたのだ。そのことにティティは気づいていて、自分を責めているに違いなかった。

 ロンドはユマに目をやった。ユマは衝撃に耐えるかのように、体を固くしている。強張った表情のまま、ぽつりと呟きを落とした。

「……なんで、なんで誰にも言わないんだ、そんな重大なこと……」

「言えるわけない……! 島の民は今、自分のことだけで精一杯なんだぞ。父の怪我の状態や、怪我の理由を知ったら、皆は……」

 ティティは唇を噛み締める。

 ロンドには、ケチャの気持ちも、ティティの悔しさもよく分かった。ケチャは長だ。きっと島の民からの信頼も厚いはずだ。この事実を公表することで、食糧難で苦しんでいる民に動揺を与えたくなかったのだろう。

「信じられない……。竜神ベラだぞ。今まで、そんなこと一度も……」

 呟いたユマの声に、ティティは頷く。

「最近、海の竜の様子がおかしい。先日の蛇竜ミラもそうだ。そもそも、海の竜がこんなに頻繁に島に近づくことが珍しいのに」

 ティティは息をゆっくり吸うと、ややあって吐き出した。そのまま立ち上がり、砂を払うと二人に向き直る。

「このことは、島の民には黙っていてほしい。余計な心配をかけて、これ以上の負担を掛けたくないんだ」

 ティティの瞳は力強かった。動揺もあるだろう。不安も大きいに違いない。父、ケチャが亡くなったら、次はティティが長になる。怖くないわけはないのに、逃げることなく立ち向かおうとしている。こんなときでも誰にも頼らず島民の事だけを考えている姿に、ロンドは胸が苦しくなるのを感じていた。

「ティティは――強いですね」

 口に出した言葉に、ティティは苦笑する。

「そうでもない。今、お前たち二人に明かせたことで、ちょっとほっとしてる」

 そのまま手を組み、うんと伸びをする。

「私は私にできることをやるしかない。でも……その」

「ティティ?」

「たまには、弱音を吐くかもしれないけど。許してほしい……」

 思ってもみなかった言葉に、ユマとロンドは顔を見合わせた。

 恥ずかしそうに顔を背けるティティの手を真っ先に取ったのはユマだ。そのまま握手するようにしっかりと握り、彼は太陽のように笑った。

「俺は嬉しい。やっとティティが弱音を吐いてくれるようになったこと、すごく嬉しいんだ」

「ユマ」

「任せろ。俺は口が堅い。苦しくなったら何度でも言え! 全部聞いて、忘れてやる」

「……ありがとう」

「おい、ロンド、お前もだろ?」

 否はなかった。ユマがロンドを見やり、にかりと笑う。ロンドもつられて微笑み返し、二人の合わさった手の上に、自分の掌をそっと添えた。

「勿論です」

 口に出したのは、自分の気持ちを確かめるためだ。

 ロンドは胸の奥に温かな炎が燃えている。この、なんでも背負ってしまいがちな少女の苦しみを、少しでもいい。軽くすることができるならロンドは何でもやりたいと思った。

 ティティは微笑み、頷いた。ユマがロンドの肩を抱く。二人から寄せられる無言の信頼が、ロンドには嬉しかった。



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