島長の娘
1
「マレ人よ、よく来たな」
重々しいケチャの声が、小屋の中に響いた。
ロンドはケチャの前でひざを折り、ひたすらにかしこまる。後ろにはティティとユマが控え、さながら謁見の風情である。
ケチャの小屋は、薄暗かった。明るいところから急に暗い所へ入ったせいだろうか、よく物が見えない。何度か目を瞬かせて、闇に目が慣れるのを待つ。
小屋の中には何とも言えない甘い香りがうっすらと漂っていた。香だろうか。先日この小屋を訪ねた時には気づかなかったが、少し鼻にかかるような艶めかしい香りである。はっきりとは思い出せないが、どこかで嗅いだことのある匂いでもあった。
「ことのあらましはユマから聞いている。――まずは礼を言わせてほしい」
どうやら、自分は咎められるために呼ばれたわけではないらしい。それでようやく、体から少しだけ力が抜ける。
ロンドはそっと上目遣いでケチャの様子を伺った。
ケチャは大柄で、頑丈そうな体つきをした壮年の男だった。上半身は裸で、首から腹までびっしりと刺青が刻まれている。その背中から腰にかけて、白い更布がきっちりと巻かれている。短く刈り込んだ白い髪が赤銅色の肌と好対照だ。厳めしい顔をしているが、黒の瞳は娘のティティとよく似ている。
しかし、とロンドは思う。顔色が悪いように見えるのは気のせいだろうか。
「本来ならば、長であるこのケチャが言わねばならぬこと。それをマレ人が代弁してくれたと聞く。感謝する」
そう頭を下げられ、ロンドは焦った。この島の人は、みな素直に礼を述べる。まっすぐに放たれる言葉や視線は、そのどれもが自国では味わったことのないものだ。
慌てて口を開こうとして、ロンドははっと目を見張った。ケチャの体に巻かれている白い布と、香の匂い。その両方が指し示す意に気づき、思わず声を挙げた。
「――横にならなくて良いのでしょうか?」
「なに?」
ケチャは怪訝な顔をする。
「痛むのではないですか? 僕のことを労っていただくのは、あの、とても嬉しいのですが……お体に障ります。どうぞお気になさらず、横になってください」
口に出して、ロンドはしまった、と青くなる。ケチャは一瞬目を見開き、ややあって破顔した。
「そうか、マレ人、お前も薬師か」
「……いえ、似たようなものですが、少し違います」
真面目に答えたロンドを見て、ケチャは満足そうに頷いた。
「なに、今日は調子がいい。こうやって起き上がっていないと、起き上がり方を忘れてしまいそうになる」
そう言うと、ケチャは表情を改めた。
「もはや聞き及んでいるとは思うが、この島は今危機にさらされている」
ロンドは頷いた。食糧難のことは聞くに及ばずだ。
「食料の事だけではない。海の竜の動向も不穏だ」
その言葉に、思わず体に力が入った。海の竜の動向、とは、蛇竜ミラのようなことが頻繁に起きているということなのだろうか。
ケチャは腰に手を当て、さするようにしながら、なおも言葉を重ねていく。
「先日の、お前への態度を許してほしい。お前のここ最近の働きは全てティティやユマから報告を受けている」
そう言うと、ケチャは目尻にしわを寄せて笑った。
「お前はこの島の者の服を着、同じものを食べ、同じように働いている。それならば、わたしはそなたを嵐の贈り物と認めよう」
「父さん!」
ティティが歓喜の声を挙げた。そのティティを一瞥し安心させるように頷くと、ケチャは口を開いた。
「マレ人よ。お前の知識を貸してほしい。この島には他にも有識のマレ人がいる。その者がお前と話をしたいと言っている」
ロンドは首を傾げた。マレ人が他にもいる、ということはティティからも聞いて知っていたが、そういえばこの島の中でミツチの民以外の者を見たことがない。
「父さん、それって……」
ティティが声を挙げた。ケチャは片手をあげてそれを制する。
「ティティ。この者をマレ人、ラウルのところへ案内するように」
ティティは何かを言いたげに口を開き、呑み込むように頭を垂れた。
「……承りました」
その言葉を受け、ケチャは重々しく頷いた。ロンドに目を移し、その瞳を見る。ロンドはいたたまれない思いでその視線を受けていた。黒々とした深い瞳だ。隠し事などは一切通用せず、すべてばれてしまっているのではないか。そんな思いに囚われてしまう。
冷や汗を流すロンドに何を思ったのだろうか、ケチャはふと瞳の光を和らげた。そして、一言。
「頼むぞ」
とだけ、告げたのである。
小屋を出ると、陽の光が目を射抜く。あまりの眩しさにロンドは再び目を瞬かせた。
そのロンドの肩をがしりと掴む者がいる。
「おい!」
ユマだ。
「さっきの、あれ、なんだ? 長はどこか悪いのか?」
やや青ざめた顔で、ユマは早口で捲し立てた。ロンドは思わずティティを見る。長は明らかに目的を持って自身の体のことを隠していた。その詳細を話していいのか迷っていたのだ。
ティティは一瞬躊躇うように息を呑み、小さく頷いた。
「ユマなら大丈夫だ。ロンド、私も知りたい。なぜ気づいた?」
「――香りです」
「香り?」
怪訝そうに首を傾げるユマに、ロンドは頷いてみせる。
「確かに、甘いような匂いがしていたが、長だって香くらい炊くだろう。それがどうしたんだ?」
ロンドはそれには答えず、小屋近くの草むらに二人をいざなった。砂浜に這うようにして群れている草は、乾燥して茶色く干からびている。その茶色の葉に隠れるようにして、小さな赤い実がひとつ、ふたつ生っていた。
ロンドはしゃがみ込むと、その赤い実を一つもぎ取る。つやつやとした光沢が愛らしい、小指の爪の先ほどの小さな実だ。
「あったあった。やっぱりありました」
掌でころころと実を転がすロンドにユマは目を見張り、途端に凄まじい形相でロンドの手を払った。
「ああっ!」
赤い実がころりと転がり、草の影に消えてしまう。
「馬鹿! お前! ヒルユメの実に素手で触るやつがいるか!」
ティティは慌てて近寄ると、ロンドの手を取り様子を確かめる。
「大丈夫か、痺れたりしてないだろうな!?」
ヒルユメの実には毒がある。体内に入ると痺れや痙攣を起こす、恐ろしい実だった。実に気づかずに踏んづけてしまったり、見た目の愛らしさから幼い子供がままごとで使うなどし、痙攣を起こしてしまったり、など、事故が絶えない。それ故に、草を見かけると火をかけ処分していたのだが、このあたりの草むらにはまだ残ってしまっていたようだ。
しかし、ロンドはどこ吹く風である。自らの手のひらを安心させるようにひらひらと振り、二人ににこりと笑いかける。
「大丈夫。この実の毒性は体内に入って初めて効力を発揮します。手や身体に傷がついていなければ、危険なことはありません」
その言葉に、ティティとユマはほう、と安堵の息を吐いた。
「で……。それは分かったんだが、ヒルユメの実がさっきの話とどう関わってくるんだ?」
ティティはことりと首を傾げる。
「ヒルユメの実は、そのままだと確かに毒です。しかし、この実にはもう一つの顔がある。それは、麻酔薬としての使い方です」
ロンドは再びしゃがみ込むと、草の根を分け、転がり落ちた赤い実を再度手に取った。
「この実を水でよく洗い、乾燥させて粉末状にします。それを更に天日に干して三日間。そうしてできた粉を香にすると、あのような甘い香りが漂うようになるのです」
アラシアにいたときに、一度自分でも作ったことがある。あの独特の鼻に絡みつくような優美な香りと、小屋に漂っていた残り香は同じものだ。
「あの香りには、体を麻痺させる成分が入っています。鼻から吸い込むと酩酊状態のようになる。依存性があるので気をつけなければいけませんが、痛みや苦痛を和らげる力があります」
話しながら、ロンドは当時を思い出す。蠱惑的な香りとともに、自分の体に起こった変化は恐ろしいものだった。頭の芯がくらくらとし、手足に力が入らなくなる。まるで夢の中を漂っているような気がしたものだ。慌てて香を消し、換気をして事なきを経たが、あのまま香を焚き続けていたらきっとロンドも依存してしまっていただろう。そのくらい心地よい感覚だったのである。
「長は、背中から腰までを布で押さえていました。布は何度もきつく巻かれていて、真新しい綺麗なものを使っていました」
そこまで言うと、ロンドはティティに視線を合わせた。ティティは唇を噛み、目を伏せている。
「もしかしたら、長は怪我を――それも、あのような香に頼らなければならないほど大きな怪我をしているのではないですか?」
その言葉に、ユマもはっと目を見張り、ティティの顔を見る。ティティは黙ったまま二、三歩歩き草むらから出た。そのまますとんと砂浜へ座り込む。
「ティティ……!?」
慌てて駆け寄るロンドとユマに、ティティは微かに震える声で呟いた。
「ロンド、お前の言うとおりだ。父は怪我をしている。もってあとひと月だと……そう言われている」
ロンドは目を見張った。怪我をしているとは思ったものの、そこまでの大怪我だとは思わなかったのだ。それなのに、あのように起き上がって見せていたのか。
ユマも動揺しているようだった。青ざめた顔をさらに青くし、握り締めた拳は小さく震えている。
「父の手当はラウルがすべて行っている。このことを知っているのは、ラウルと、お前たちだけだ」
ラウルとは、先ほど話に出てきたマレ人のことに違いない。そういえばケチャはロンドのことを「お前『も』薬師か」と言っていた。ヒルユメの実の煎じ方を知っているのだ、そのマレ人はきっと薬学に詳しい者なのであろう。
「ティティ、良かったら教えてもらえませんか」
ロンドはそっとティティの隣に腰掛けた。ティティはびくりと体を震わせ、ロンドの顔を仰ぎ見る。
「なぜ、長はそんな大怪我を……」
ティティは口を噤み、黒い瞳を揺らした。そのまま振り返るとユマを仰ぎ見る。
「ユマ、今から言うこと、絶対に口に出すな」
「――竜に誓って」
強張った顔でそう言うと、ユマもティティの横に腰を下ろす。
「父が怪我したのは、あの嵐の日の少し前……。父と私は夜の海を見回っていた」
ティティは唇を舐め、ぽつりぽつりと話し始めた。
「なんとしても食料の問題を解決しなければならない。だから、普段はあまり行かない沖の方まで出て――そこで、竜神ベラに出くわした」
ユマが息を呑む音がロンドの耳に届いた。訝し気な顔をしていたのだろう、ティティはロンドを見やると、補足するように言葉を重ねる。
「竜神ベラは、海の竜の中でも神に近いとされる竜だ。ミツチの民の最も敬うべき存在で、常なら人に関わることはない。――私も出くわすのは初めてだった」
ティティは口にしながら、かたかたと体が震わせる。目は動揺に揺れ、吐く息は細い。
「……ティティ?」
見かねたロンドがティティの腕に手を添える。その手に自分の手を重ね、ティティは息を吸った。
「父は――竜神ベラにやられたんだ」
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