4



 ***



 アラシアの民は竜の子供だった。竜は海を制し、海に生きるものを守ると伝えられていた。しかし、きちんと祀らなければ竜は暴れ、人々を容赦なく傷つけた。だから祖先は竜を祀り、神として崇めたのである。

 今はミツチの民と呼ばれている彼らは、当時はアラシアの民だった。竜と共に生き、竜への感謝を忘れず、竜を愛する人たちだった。

 そのミツチの民はある日を境に竜を従え、その竜の力をもってして、国に大きな被害をもたらしたのだ、と伝えられている。

「ね、ミツチの民って、どうしてそんなに悪いことをしたの?」

 エルザは幼い頃、一番上の兄、アランにその疑問をぶつけたことがある。兄は博識で、優しく、エルザの質問にもちゃんと視線を合わせて答えてくれたものだ。

「悪いこと? どうしてエルザはそう思うんだ?」

「だって、沢山のアラシアの民が死んだんでしょう? 人を無差別に殺すのはいけないことだって、司教様がそうおっしゃっていたもの。だからミツチの民って悪者なんでしょう?」

「……そうか」

 兄は――当時はまだ父が存命で、王位継承者第一位の王子だった兄は、寂しそうに笑うとエルザの頭を撫でたものだ。

「エルザ。お前はもう少し、考えることをした方がいいな」

「考えること?」

 首を傾げる。エルザは今だってきちんと考えて話しているのに、何を言っているのだろうと思ったのだ。

「自分の中の正義や悪は、人から言われて作り出すものではない。だから、エルザが悪いと思っていることも、正しいと思う人がいる。正しいと思っていることは、他の人から見たら悪いことなのかもしれない」

「難しくて、よくわからないわ」

 唇を尖らせて文句を言うと、兄は豪快に笑い、ひょいとエルザの体を持ち上げた。

「エルザ、もう少し待っていてくれ。俺が王になったあかつきには、お前をその檻から出してやるからな」

「お兄様。私、檻になんて入れられていません。こうやって自由にお外を歩いているもの」

「そうだな」

 そう言ってまた笑う兄王の表情を、エルザは今になってよく思い出す。


 アラシアの王城には複数の塔がある。そのうちのひとつに、妹姫エルザの自室があった。

 アラシアの王女は、齢七つを過ぎるとこの塔に入り、司教と共に祈りの日々を送る。王が施政を行い、王女は儀礼祭典を担う、それがアラシアの伝統だった。一度塔に入ると、この塔が王女の生活の場となり、ほとんど外に出ることはない。その徹底した淑女修行は他国にも評判がよく、アラシアの王女は聖女として扱われ、適齢になると見合い話が舞い込むようになるのが常である。

 エルザはぼんやりと窓の外を眺めていた。春が近いのだろう、麗らかな陽光が石畳の街を照らし出している。遠くに見えるアラシアの壁は真珠色に輝き、先端に海鳥の群れが止まっているのが見える。

 久しぶりに、兄王の夢を見た。自分がまだ子供で、兄王はまだ王子だった。懐かしくも切ない、思い出だ。

「エルザ様」

 侍女レミリアの声に、エルザは振り向く。この塔は、一部客間を除き聖職者以外の男性の立ち入りを禁止している。エルザの世話をしたり、予定を管理したりするのもすべて女性が行っていた。

「ヴォルク様がいらっしゃっています。ご準備を」

「……わかりました」

 溜息を隠さず、エルザは答えた。

 侍女に髪を梳いてもらいながら、兄ヴォルクはいったい何の用があってここに来たのだろう、とぼんやり考える。

 兄アランが死んだ。そしてもう一人の兄、ロンドはアランを殺したとして流刑になる途中で行方不明となり――未だ誓文は届かない。そのあたりの事情は、司教からも聞いている。もしかしたら何かしらの進展があって、エルザに即位についての相談をしようとしているのかもしれない。

 アランが死に、ロンドが罪人となったあの日から、エルザの時は止まったまま動かない。少し前までアラシアの国は平穏だった。国内の内情において、争いごとなど起きるわけがない、と思っていた。だから、ロンドがアランを殺すなど、想像もしたことがなかったのだ。

 ロンドは罪を認めるでもなく、かといって抵抗するわけでもなく、罪状を受け入れた。あの時の兄ロンドの表情をエルザは忘れたことはない。絶望し、すべてを諦め、口を閉ざしてしまったロンド。その心の内を誰も知ることなく彼は船に乗り、流された。

 そもそも、本当にロンドはアランを殺したのだろうか。

 そんな疑問が浮かんでは消え、そのたびにエルザは首を振る。アランを殺したのはロンドしかいない。彼にしかできない方法で殺されていたのだから、間違いはない。しかし……。

 衣服を整え、兄待つ客間へと足を運ぶと、すでにヴォルクは椅子に腰かけぼんやりと窓の外を眺めていた。

「お兄様。お待たせして申し訳ありません」

 エルザはしずしずと歩き、兄に一礼する。ヴォルクも立ち上がると同じく一礼し、無言でエルザに椅子を勧めた。あらかじめ、ヴォルクが人払いを命じていたらしい。ここまで付き添ってきたレミリアも一礼し、部屋から退出した。

 その後ろ姿が見えなくなって、ようやく兄は口を開く。

「結論から言おう。ロンド兄さんは、どうやら生きているらしい」

 息を呑む。思わず立ち上がり、兄の手を握った。

「……本当に? でも、どうしてそれが?」

 ヴォルクは苦虫を嚙み潰したような顔でエルザの手を外すと、座るように、と目で椅子を示した。

「風読の計算結果が出た。兄さんを乗せた船は、どうやらアジュガの途中、イリア海域にて嵐にあったらしい」

「イリア海域というと、海の竜の海域ですね」

 ヴォルクは頷く。

「兄さんの乗った船は、恐らくそこで大破したのだろう。イリア海域まで来ておきながら、アジュガに着いていないということは、そういうことに違いない。しかし」

 そこまで言うとヴォルグは一度言葉を区切り、声を潜めた。

「イリア海域の島のひとつに、我が国の拠点がある。念の為調査を依頼したところ、そこの官人より鳥紙が届いた」

 鳥紙とは、訓練された鳥の足に巻き付け、届ける手紙の事である。

 ヴォルクが差し出したその手紙をエルザは注意深く開く。途中で雨に降られたのだろうか、墨が滲んだ筆跡を辿り、エルザは深く息を吸い、衝撃を受け流すように注意深く吐き出した。

「――お兄様。城内でこれを知っている人は」

「ダグラスだ。鳥紙を受け取った張本人だからな。――安心しろ、ダグラスは口が堅い」

 ヴォルクは手紙を取り戻すと、再び懐にしまい直した。

「焼いてしまわないのですか?」

「あとだ。念の為、筆跡を確かめる必要がある。しかし……」

 ヴォルクは頭を抱えた。最初にこの手紙を読んだときは驚いた。二、三度確かめ、改めて真実書かれている内容を理解し、呆れて天を仰いだものだ。

 曰く。ロンドは助かっており、今はミツチの民のもとにいる。島の民と暮らしていることが記載されていたのである。

「……あのお兄様なら、やりかねないでしょうね」

 ヴォルクは拳を握り締めた。

「よりによって、我が国と因縁のある島国に助けられ、挙句の果てに一緒に暮らしている、と。まさか誓文の事を知らないのではあるまいな?」

「そのまさか、の可能性はありますわ。お兄様は施政のことには関わらないという姿勢を貫いておいででした。だから知らなくても無理はありません」

「愚かな……。兄さんは、この国を亡ぼすおつもりなのか!?」

「お兄様……お声が高うございます。どこに目や耳があるか分かりませんのよ」

 ヴォルクを窘めながら、エルザはどこかほっとしている自分に気づく。嵐の中行方不明になっていた兄が生きていた。その事実はエルザにとって嬉しいことだった。

 ロンドは確かに、兄アランを殺したのかもしれない。しかし、その前は良い兄だった。変わり者で偏屈はあったものの、親愛なる兄のひとりだったことに間違いはないのだ。

「それで、どうなさるおつもりなのでしょう」

「それを相談しに来た。即位の儀はやはり誓文がないと執り行えないのか」

「勿論です。ヴォルク兄様が王位に就くためには、ロンド兄様の継承権放棄の印となる誓文を受理するか――ロンド兄様が儚くなってしまわれたときか、の二択しかありません」

 きっぱりと言い切ると、エルザは口を閉ざした。ヴォルクは腕を組み、何やら悩んでいる様子だった。その姿を見て、エルザはふ、と表情を和らげた。

「ほっといたしました」

「何がだ」

「いえ。お兄様が、ロンド兄様を殺めるという選択肢をお持ちでないようでしたので」

 ロンドを見捨てるのは簡単だ。ミツチの民に正式の書面を出せば済むことである。ロンドの身分を明かし、返すように、とだけ送ればいい。アラシアの国を憎んでいる彼らは喜んで何度でもロンドを殺すだろう。そうすれば、ヴォルクは晴れて王位を継ぐことができる。

 どうやら図星だったようで、ヴォルクはくっと唇を噛んだ。

「エルザは性格が悪いな」

「アラン兄様からの教えですもの。自分の頭で考えなさい、とよくエルザは言われておりました」

「それなら、即位の儀の事も、もう少し柔軟に考えてはどうだ」

「それとこれとは話が別です。国の名誉と伝統、歴史がある儀式ですもの。それに……」

 うっかりと口を滑らせてしまいそうになり、エルザは慌てて両の手を唇に添えた。その様子を見て何かを察したのであろうか。ヴォルクは肩を竦め、立ち上がった。

「言わなくても分かっているだろうが、このことは内密に」

「はい」

「あまり無理をするなよ」

 そう言い置き、部屋を出るヴォルクを見送って、エルザはほ、と息を吐いた。

「アラン兄様……ロンド兄様……」

 親愛なる二人の兄は、仲が良かった。風変わりなロンドをアランはよく理解し、ロンドもその兄を敬愛していたはずである。

「エルザは信じております」

 声に出したのは、自分に言い聞かせるためだ。エルザはそっと窓に近寄り、城下を眺めた。

「……そのために、エルザは、エルザにできることをやりますわ」

 落ちかけた太陽が、石畳の城下に長い影を作っているエルザは手を組み、頭を垂れて祈りを捧げる。遠くに見えるアラシアの壁が、海風を受けてひょうと鳴った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る