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「しかし、今わが国には必要のないことではありませんか」
そう言ったのはロンドの弟、ヴォルクだった。確か、ロンドが研究を理由に交遊会を欠席した、そのことへの苦情を述べに来た時である。
「兄さんのやっていることは、ただの趣味だ。もう少し現実を見て、今の王国のことをしっかり考えてもらいたいと思っているんです、僕は」
ヴォルクは兄アランによく似た声で、ばっさりと言い捨てたものだ。
ロンドは言い返せなかった。ヴォルクだけではない。臣下も、国民も、ロンドの事を快く思っていないことは分かっている。
確かに、自分が今行っている研究は、元を正せば趣味である。しかし、趣味を通じて様々な本を読んだ。この国のことだけではなく、様々な国の文化や風習、そこで起こる問題や、解決方法を学んだ。
そこで分かったことがある。
平穏は続いていることの方が珍しいのだ。今はよくとも、明日には状況が変わり、窮地に陥ることもある。そんな各地の光景を、本はロンドに教えてくれたのである。
ふと、自国を顧みる。
今この国は、アラシアの壁を建設し、潮風の流れを変えることで塩害を免れている。収穫量の安定しない漁よりも、農業に切り替えたことでアラシアの国は豊かになった。だから、この施策は祖先の偉大な成功事例ともいえるのだ。
しかし、この状況はいつまで続くのであろうか。
何らかの理由で風向きが変わり、再び塩害がおこるようになったらどうする。アラシアの壁が崩れたらどうする。永久的に問題のない施策など、存在しないのだ。だからロンドは、「もしも」の時のことを考える。
もし、この国が貧しくなったら。昔のように作物も実らず、飢えることになったら……。そうなった時に対処法を考えていてはもう手遅れなのだ。
だから、ロンドは研究をする。塩害にも負けない植物は数多くある。毒性の強い植物も、手を加えれば美味しく食べられるし使用量を間違えなければ薬になることもある。
知識は財産だ。祖先が残した知恵を学ぶことは、いつか必ず役に立つ日が来る。そう信じて――。
兄王は、ロンドのことを決して馬鹿にしなかった。好きにやれと言わんばかりに、支援をしてくれていた。どこそこに生えているあの植物が欲しいと言えば、懇意の商人から仕入れてくれた。視察先で手に入れた珍しい植物を、手土産として持って帰ってきてくれることもあった。
兄アランだけが、ロンドのよき理解者だったのだ。
喉の奥が熱い。こみ上げてくる感情が溢れそうで、ロンドはくっと歯を食いしばった。
――アラン兄さん。
――何で、死んだんだ……。
目を開けた。板張りの天井から細く日の光が差し込んでいる。
いつもの小屋だ。床に敷布が引かれ、その上に寝かされているようだった。ロンドはゆっくりと半身を起こした。体がぎしぎしと鳴っている。頬がまるで火傷をした時のように熱を持っていた。
いったい自分はどうなったのであろう。あのガルダという男に殴られたところまでは覚えているが、その先の記憶がない。もしや、気を失ってしまったのか。
「情けない……」
「そんなことはない」
かけられた声にはっと顔を挙げる。ティティが、極彩色の布をたくし上げて小屋へと入る。手には木の器。水がなみなみと入れてあるようで、ちゃぷちゃぷと音がしていた。
「あまり急に動かない方がいい。……まだ痛むだろ」
そう言われて、痛みを思い出したロンドである。一度自覚すると駄目だった。ずきずきと痛む頬に顔を顰める。
ティティはロンドの脇に腰掛けると、布を取り出し、器の水の中にちゃぷりとつけた。軽く絞ってロンドの頬にそっと当てる。冷たい水だ。熱がす、と引いていくようで、痛みも少し楽になる。
「ありがとう」
不意に発せられた声に、ロンドは目を瞬かせた。視線で問いかけるようにすると、ティティは黒い瞳を揺らし、そっと伏せた。
「嬉しかった。だから、ありがとう」
思わず焦ってしまったロンドである。
「いえ、すみませんでした。もっと巧いやりようがあったとは思うんですけど、その……焚きつけるみたいになってしまって」
ティティは首を振る。
「あんな風に言ってくれる人、今までいなかったから。私のことも、父の名誉も守ってくれて、すごく嬉しかった」
「それは……違うんです。その……。うまく言えないんですけど」
ティティはぱちくりと目を瞬かせ、こちらを見ている。その瞳をまっすぐ見ることができなくて、ロンドはす、と目を伏せた。
「僕は、自国では愚かだと言われ続けてきました。どうしようもない研究ばかりして、国のことを顧みない愚かな王子だと……。だから、あなたが責められているとき、自分のことを言われているみたいで」
たどたどしく言葉にしながら、ロンドはあの時の、湧き上がるような感情の正体がわかったような気がした。
辛かったのだ。同じような立場のティティが責められているのを見るのは耐えられなかった。
「そう、多分、僕は自分自身のために怒ったんです。だからお礼を言われるようなことは、なにも……って! 痛! 痛たたた!」
突然、頬をつねられ、ロンドは悲鳴を上げた。ティティが顔を真っ赤にし、腕に物を言わせているのである。痛い。しかも、殴られた方の頬をわざとつねり上げている。
「お前はほんとに馬鹿だ」
「痛い! ティティ、やめてください!」
「お前の事情なんて知らない! 私が、嬉しかったんだ。だからお前は、素直にその礼を受け取るだけでいいんだ!」
そう言い放ち、ティティはぱっと手を放した。
「言葉」
「え?」
唐突な発言に、頬をさすっていたロンドは首を傾げる。
「言葉、直ってない」
「あ!」
思わず口を塞ぐようにすると、ティティは目を丸くし、けらけらと笑った。
「いいよ。そのままで」
「でも、身分がばれるのでは?」
「今更。さっきみんなの前でさんざん啖呵を切ってしまったし、今から変えてももう遅い。それに」
ティティは言葉を区切ると、目を細めてふわりと笑った。
「私はその言葉遣いが好き。柔らかくて、聞いてて心地いい」
思わずどきりとしたロンドである。普段自分の言葉遣いなど気にしたことはなかったのに、なぜか妙に嬉しい自分がいることに気づく。
「お前はアランと似ているが、アランと似ていない」
唐突に話すティティに、ロンドははっと目を見張る。
「アランと話しているみたいだ、と思うときもある。けど、全然違うときもある」
そう言うと、ティティは手にした布を再び水に沈めた。軽くゆすいで、もう一度絞るとそっとロンドの頬に当て直す。
「教えてほしい。アランは今何をしてる? 無事なのか?」
少女はロンドの頬に布を当てながら、震える声でそう聴いた。
「……アランは、実は――」
どうしたらいい。言うのか。
いや、無理だ。ロンドは唇を噛み締める。
アランがもう亡くなったということ。そして自分が兄殺しの罪を着せられ、処罰を受ける途中でこの島に流されてきたこと。そのどれもが今のロンドには重い事実だった。この少女はアランの身分を知っている。彼女の言葉に嘘偽りがないことは分かっていても、ティティにアランの死を告げることは、どうしても憚られたのである。
「アランは、今国にいます。……元気にしています」
嘘を吐くのには慣れていない。どうかばれませんようにと祈りながら、ロンドは言葉を紡いだ。
「――そう!」
ティティは、一瞬息を呑み込むと、ぱっと笑顔になる。
「よかった! 心配してたんだ。……安心した。そうか、アラシアに戻れたんだ……」
そう言ってあまりに嬉しそうに笑う。その花の咲いたような表情にロンドは胸を突かれるような衝撃を受けた。続けて、凄まじいまでの罪悪感がロンドに襲い掛かった。
ティティは明らかに安堵し、アランの無事を喜んでいる。どんないきさつで出会い、どのようにして別れたのかは分からない。しかし、そこには親しい人の健勝を喜ぶまことの心があった。
「ティティ。違うんです」
ロンドは口を開く。卑怯者にはなりたくなかった。ティティが自分を信じてくれているように、自分もティティを信頼しなければならない。
「本当は、アランは――」
言葉を最後まで発することはできなかった。
「ティティ! ロンドの具合は」
極彩色の布があげられ、入り口からひょいとユマが顔をのぞかせた。ティティは柄になく焦った表情でロンドに目配せをおくる。その仕種でロンドはある程度事情を察した。アランの話は、きっと他の島の民には秘密のことなのだ。
ユマは起き上がっているロンドに気がつくと、軽やかに駆け寄り膝をついた。
「ロンド!」
そのままがしっと肩を掴まれ、前後に体を揺すぶられてロンドは目を白黒させる。
「いやー! あんた、最高だよ! よく言ったなあ!」
ユマは喜色満面である。
「ガルダはティティの親父さんでも一目置く漁師なんだぜ! あんときのあいつの顔、面白かったなあ!」
そう言ってげらげらひとしきり笑うと、ユマはティティの横にきちんと座り直した。改まったその姿に、思わずロンドも姿勢を正す。
ユマは視線をあげ、まっすぐな瞳をロンドに向けた。力強い瞳だ。自らの意志を持った黒い瞳。ティティの瞳も、ユマの瞳も、とても強い光を持っている。
「ロンド。本来なら俺たちはお前に言われる前にそのことに気づかなきゃいけなかった。あんたのおかげで目が覚めた。ありがとう」
そのまま丁寧に拝され、ロンドは慌てて首を振った。
「僕は本当に何も……。感情的に怒ってしまっただけなんです。それにユマは、ティティのことを馬鹿にしたことはないではありませんか」
ユマはティティのよき理解者である。それはこの島に来て日が浅いロンドでもすぐ分かった。ティティもユマを信頼しているようで、二人で行動する姿をよく見かけていた。
「馬鹿にするとかしないとかが問題じゃない。俺はどこかで、誰か何とかしてくれ、と思っていた。なんでこんなことになっているんだ、誰か助けてくれ、ってな。だから、自分の頭で考えてこなかったんだ」
ユマは悔しそうに唇を歪め、言葉を重ねる。
「あんたの言葉でそれに気づくことができた。だから、礼を言わせてほしい」
ばつが悪そうにユマは頭をかく。
「そう思ってるのは俺だけじゃないぜ。あんたが倒れた後、みんなの動きが変わった。今、それぞれの組に分かれて原因を調査しようって話になってる」
ティティはぱっと顔を挙げた。
「本当!?」
「ああ。驚くなよ、あのガルダもだ」
「そう……!」
ティティが感慨深げに息を吐く。その笑顔が嬉しそうだったので、ロンドもつられて笑顔になった。よかった。自分の言葉が相手に届いたのなら、それに越したことはない。
「で、ロンド。もう動けるか? 長のお呼びだ」
「え!?」
突然降ってわいた言葉に、ロンドは肩を震わせる。
「長があんたに会いたいと言っている。――来れるか?」
ティティの父親のケチャに会うのは、ロンドがここに来たとき以来である。それから一度も目通りしていなかった。大丈夫だろうか。
思わずティティを見る。彼女もやや緊張した面持ちではあったが、大丈夫だ、と言わんばかりに頷いた。
「――分かりました。すぐ、支度します」
ロンドは敷布からゆっくりと体を起こした。ユマが踵を返す。ティティも立ち上がると、そっとロンドの耳に口を寄せた。
「アランのことは、後で聞かせてくれ」
そう囁く少女の顔は、朱に染まっていた。ロンドは迷い、頷く。
今は亡き兄王が、この少女とどういう風に知り合って、何を語り、どういう関係になったのか。それはロンドには定かではない。しかし、この少女はきっと兄の死を知れば悲しみ、大いに傷つくのだろう。その時のことを想像し、苦しさのあまりロンドは天を仰ぐ。
兄王アランの瞳の色によく似た青空が、どこまでも広がっていた。
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