2

 ――よかった。

 ロンドは大きく安堵の息をついた。悠々と去る竜の後姿を見て、自分が危機を脱したことを悟る。まだ心臓がうるさく鳴っていた。体中のすべてから冷や汗が吹き出し、ロンドはへなへなとその場に崩れ落ちた。

 ――あれが、竜……。

 想像していたよりも、ずっと大きい。昔、海を行き来する商船を見学したことがあるが、まさしくそれだ。

 それにあの瞳……ロンドは思い返してぶるりと震えた。硬玉のような輝きの瞳。それは自分の知っている生き物としての輝きではなかった。彼らの頭の中には、ロンドが知らない何かが眠っている。彼らの目を通した世界は、ロンドが見ている世界とは大きく違っている。深い目の光はロンドの心の奥底を照らし出すかのような鋭さだ。

 それが、守り神と呼ばれる所以。そして、自国アラシアが最も恐れている竜である所以なのだ。


 ――海の竜の、性質は優しい。

 そう言っていたのは、亡き兄王、アランだ。

 ロンドがミツチの民について見解を聞かれたあとの事である。

「優しい? 海の竜が、ですか?」

 それはロンドが本で得た知識とは大きくずれていたので、抗議の声を挙げたものだ。

「しかし、彼らはひどく狂暴で、人を襲うと言われています。だからこそ、その竜と心を交わすミツチの民が危険だと言われてきたのではありませんか」

 兄は弟の非難の声が面白かったようで、ひとしきり笑ってこう言った。

「お前はそれを自分で見たのか」

「いえ、ですが、歴史は嘘をつきません。先人の残した言葉を辿れば、必ず真実が見えてきます。歴史書には、ミツチの民が竜をけしかけ、我が国を滅ぼしかけた、と。そのように書かれています」

「正しい。しかし、間違ってもいる」

 兄王はこほん、とわざとらしく咳をする。

「白いものを黒くするのは簡単なことだ。本には書いた人の主観が入る。歴史書だって同じこと。語る言葉は言うに及ばずだ。故意的か否かは別として、自らの見たいもの、そうであってほしいもの、それらが含まれていないと何故言える」

 しかつめらしく話す兄王に、ロンドはやや不満げにこう述べたものだ。

「僕は、説教されるためにここに呼ばれたんでしょうか」

 兄王は膝を打って笑った。ロンドは益々口を尖らせる。アランと話していると、まるで自分がまるきり子供のようで悔しくもあった。

「すまん。どうも最近説教臭くていけない」

 そう言うと、アランは口調を改めてこう告げた。

「俺は、お前に知っていて欲しかったのだ。本も、歴史も、人の言葉も。真実はひとつではないということを」

 また説教になっています、とは、ロンドは言えなかった。アランの目が、こちらを見ている。曇りなき瞳が、ロンドをまっすぐ見つめている。

ロンドはたじろいだ。決して短く無い付き合いの中でも初めて見る表情だった。

「俺に何かあったら、次はお前がこの国の王だ。お前の判断ですべてが変わる。そのことを肝に銘じて欲しい」

「そんな、縁起でもないこと」

「詳細はまだ言えないが、近々、ミツチの民と深く関わることが起きる」

 低く落とされた言葉に、ロンドはびくりと体を震わせた。口調の重さが気になったのである。まさかとは思うが、戦になるのだろうか。今までも、多少の小競り合いがあった民族である。

「……もし、お前が海の竜に出会ったら、覚えておけ」

 ――彼らは心を見る。

 ――真実、傷つけるつもりはないと祈れば、もはや竜は敵ではない。


 耳に潮騒が届く。よほど緊張していたのだろう、うまく息を吸うことができず、ロンドは何度か咳をする。

 ミツチの民が海の竜に祈り、心を交わすのだということは、文献で読んだことがあった。そのこと自体を覚えていたのはロンドの功績だったであろう。しかし、兄のあの言葉がなければ、たどり着かなかった答えでもある。

 アランがいなければ、そしてあの時あの言葉を授かっていなければ、自分はきっと竜に食われていたのだろう。

「おい、大丈夫か」

 肩を掴まれ、ロンドは大きく息を吸い込んだ。ティティだ。振り仰げばユマ、と名乗った少年も息を切らして立っている。二人のいた浜の上から、ここまではかなりの距離がある。急いで駆けつけてきてくれたのだろうか。

「……はい」

 声が震えないように気をつけながら、ロンドはゆっくりと立ち上がり、足に着いた砂を払った。まだ体が強張っている。その腕を、ぐ、と掴んだ者がいる。

「ユマ!?」

「……っ!」

 一瞬だった。手を思い切り後ろ手に回され、ロンドは苦痛の声を挙げる。

「動くな」

 首にひやりとしたものを感じて、ロンドは目を大きく見開いた。首にあてられているのは、小刀だ。ユマが、自分に小刀を突き付けている。

「ユマ、何してる!」

「ティティ、お前も見ただろ! なぜマレ人が竜のことを知ってるんだ? おかしいだろう!」

 ロンドははっと目を見張った。

 ――しまった。

 竜への礼節はミツチの民の伝統だ。海の竜の宥め方など、それこそ余所者に知られてはならない禁忌に違いない。

「答えろ。どこで知った? 誰に聞いたんだ!」

 混乱する頭でロンドは必死に考えた。本当のことは言えない。アラシアはミツチの民の敵である。もし敵国に自らの最も大切ともいえる竜の扱いを知られたとなったら、ただではおかないだろう。ならばどうする。嘘を吐くか。しかし、その場しのぎの嘘だ、見破られたらますます厄介なことになる。

 何も言わないロンドにしびれを切らしたのか、ユマが今度こそ小刀を首筋に押し当てた。ちりちりとする痛みを覚え、ロンドは思わず目を瞑る。

 その時である。

 激昂するユマを一瞥し、ティティが声を挙げた。

「――私が教えた」

「は……?」

「私が教えたんだ。だから、そのマレ人を放せ」

 驚いて顔を挙げるロンドに目配せして、ティティは尚も話し続ける。

「最近、何かと物騒だから。あらかじめ教えておいたんだ」

「……それが本当なら、お前、禁忌を破ったことになる」

「身を守る術を教えて何が悪い? 禁忌だ、というが。現に、今も島に住むマレ人たちも知っていることだろう」

「しかし、こいつはまだここに来たばかりだぞ!」

「日の浅さで命を粗末にしてほしくない。だから教えたんだ」

 その言葉に、ユマはぐっと言葉を呑み込むようにする。

「分かったら放せ。それとも――島長の娘として命じなければ動けないのか?」

 ロンドの喉元にあてられていた小刀が、ゆっくりと降ろされる。今度こそ体から力が抜け、ロンドはそのままへなへなと崩れ落ちた。

「ティティ。あまりマレ人に入れ込むなよ」

「ほっといて。それより、私はこいつに話がある。少し二人だけにしてほしい」

 ユマは肩を竦め、そのまま浜の上へと歩き始めた。

 ロンドはティティを見上げる。

 この少女は、自分を庇ってくれたのだ。それがなぜかは分からないけれど、助かったことには違いない。せめて礼を、と思ったその時だった。


「アランを知っているな」


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