ミツチの民
1
「で、親父さんは大丈夫だったのか?」
ケラの木に登りながら、ユマはそう口に出した。手には皮で造った手袋をはめ、下穿きと革靴の重装備である。この木には毒がある。油断すると命を持っていかれるのだ。
ティティは首を横に振ると、肩を竦めた。
「時期が時期だから。一筋縄ではいかなさそう」
嵐の贈り物があったとはいえ、食糧難は続いている。島の若者が先頭に立ち、総出で食料集めに奔走していた。ティティとユマもその例に漏れず、一日の大半を食料探しに費やしている。
「まあ……そうだよなあ。しかも、あれだろ?」
ユマはそういうと、木に登る手を止め、顎で浜をしゃくってみせる。浜辺を棒でほじくるようにして、貝を探している男の姿が見えた。明らかにこういう作業に慣れていない。たどたどしい手つきで木の棒を浜に突き刺している。
その意見には残念ながら賛成だったので、ティティは軽くため息を吐いた。
マレ人は、嵐の贈り物の中でも特別に良いものだといわれている。
何らかの理由で嵐に巻き込まれ、命を落とすことなく島へたどり着いた。その幸運にあやかるために、島の民はマレ人を大切に扱う。それも一理あるのだが、その裏にはもっと現実的な値打ちがあった。
マレ人の最大の贈り物は、彼らの持つ知識である。一度この島で生まれた民は、基本的に海から離れることはない。その弊害が知識の偏りだった。マレ人は、島の者が知らない世界を知っている。別の環境下での知識を持っている。それを活かして島を豊かにしてくれる存在だからこそ、大切に扱われるのだ。
しかし、この男――何も知らない。いや、知らないというのは違うのかもしれない。何もしゃべらない、と言った方がいいだろう。
――私がこの島の代表、ケチャだ。お前の名と、出自を教えてはくれないか。
ティティは、男と父の挨拶の場を思い出し、ため息を重ねた。
あの男は、父の前でも何もしゃべらなかった。ただ目を見開き、何かの衝撃に耐えているかのような風情だった。
――話せないのか、それとも話す意がないのか。
父の声が怒りを孕んでいくのを、ティティはひやひやしながら見ていたものだ。
「まあよい。すぐにこの島を出て、どことなりと行くがよい」
「長。それはあまりにも早計だと存じます。マレ人は財産です。それに、彼は口がきけないわけではない。話すところを、ティティはこの耳でしかと聞きました」
「では、意がないということか。なれば余計に出て行ってもらわねばならん」
「しかし、マレ人は丁重に扱うものと、言い伝えにもあります」
「ティティ。お前が言い伝えを大切にしていることは知っている。しかし、私は違う考えだ。特に今のような状況下では――」
男はなおも口を開かない。白い肌を更に白くし、裁かれるのを待つ罪人のように立ちすくんでいる。
男の頭上に、屋根板から漏れた陽光が降り注いでいる。金色の髪はその光を受け、きらきらと光の粒子を漂わせていた。やはり、似ている。髪の色だけではない。漂う雰囲気、所作、どこを取っても、彼、アランと同じ匂いを感じる。
「長、いえ、父さん」
だから、ティティは声を上げる。彼に繋がる手がかりになるかもしれない。確かめずにはいられなかった。
「このマレ人の処遇、しばしお待ちください。マレ人の知識がどれほどのものか……このティティに試させていただきたいと思います」
それで、今こうしているというわけである。
しかし、思った以上にこのマレ人には手がかかる。
基本的な受け答えはするものの、ほとんど口を開かないのである。名前も、出自も、どうしてこの島に流れ着いたのかさえ、彼は一切口を割らない。
労働に関してもそうだ。魚の採り方も、木の登り方も知らない。それ自体は仕方がないかもしれないが、如何せん体力がないのである。仕方なく、本来は子供の仕事である貝採りを任せてみたものの、どうやら収穫は期待できなさそうだ。
これでは、あの父の言う通り、近日中に島から出て行ってもらわなくてはいけなくなるだろう。島を出る、とは聞こえがいいが、島民の庇護なく舟だけを与えたとて、無事帰れる保証はない。実質、見殺しにするのと同じである。
マレ人は、恐らく警戒しているのだとティティは思う。ふとした拍子に見せるおびえた表情や、口を噤む所作。きっと何かしらの葛藤があるのだ、と。そう思っている。
しかし、食料の確保に苦労している今、人ひとりを無償で養うほどの余裕はないのだ。何かしら、彼をここに繋ぎとめる理由がなければ、遅かれ早かれ追放を余儀なくされるだろう。
ユマはケラの木の先端に成っている実をもぎ取り、ティティに向かって放り投げる。それを空籠で受け取って、ティティは眉を潜めた。ケラの木は、細長い木の先端に丸く固い実をつける。その実を割って中の果肉を食すのだが――随分と軽い。
ティティは短刀を取り出すと、実の継目に突き立てた。かぱりと割れた実の中身を見て、喉元が冷える感覚を覚える。
「ユマ、一回降りろ!」
木から滑るようにして降りたユマは一度手袋を脱ぎ捨て、ティティの手元を覗き込んだ。
「……やばいな」
本来であれば、小刀を突き刺した段階で果肉から汁が滴り落ちなければならない。ティティの手の上にある実の中身は、ほとんど空だった。辛うじて果肉が実の中央にこびりついてはいるが、これでは到底、一人分の食事にも満たない量だ。
「ケラの木も駄目なのか……」
ユマの声が、幾分絶望の色を含んでいる。
ケラの木は、木の幹に毒こそあれ、島民が先祖代々大切にしてきた貴重な食糧源である。どんなに食べ物がない時でも、ケラの木は年毎にたわわな実をつけ、幾度となく島民の命を救ってきた。しかし、この現状だ。流石に言葉にならない恐怖を覚え、ティティはごくりと唾を飲み込んだ。
「……今まで、ケラの木に頼りすぎていたんだ。他の手を考えないと……」
ティティがそう呟いたときである。
浜辺から、大きな水音が聞こえた。
「ティティ、ミラだ! 随分近くに……」
ユマが浜辺を指さした先に、海竜の一柱、蛇竜ミラが細長い首をもたげていた。普段はもっと遠海にいるはずが、浅瀬まで登ってくるのは珍しい。そこまで考えて、ティティははっと浜辺を見やる。
「おい!」
ミラが首をもたげた先に、あの男がいた。腰が抜けているのだろうか、座り込み、茫然と竜を見上げている。
海の竜たちは恐ろしい力を持っているが、基本的には無害である。こちらが何もしなければ、彼らも何もしない。しかし、それは距離が離れている場合でのこと。ティティも、ユマも、この距離で竜と接することは稀である。
「大丈夫だ、ミラは比較的穏やかな竜のはず……」
自分を落ち着かせるようにそう呟くユマに、ティティは首を振ることで答える。
「でも、あの距離だぞ? それにマレ人は竜を見慣れていない」
二人の間に緊張が走った。
ミラは蛇竜だ。動くものを追いかけ捕食する特性を持っていた。島の民であれば心得がある。竜に対しての付き合い方も分かっている。しかし、彼はマレ人だ。竜のことなど知っているはずがない。
マレ人は、目を見開いたまま、ミラを見上げている。ミラもマレ人を認識しているようで、首をもたげたままぴくりともしない。どうしよう、どうしたらいい。二人が目配せしたそのとき、マレ人が、動いた。
「危ない!」
「いや、待て!」
マレ人は座ったまま足をずらし、跪く。視線はミラから逸らさない。そして、ゆっくりと手を前で組み――丁寧に拝した。
ティティは息を呑んだ。ユマも茫然とマレ人を見つめている。手を組み、拝す。それは島民が竜に行う敬愛の祈りだ。この祈りを行う者の心に嘘偽りがなければ、竜は決して手を出さない。知っているのは島の民と――。
ティティは拳を握り締める。
ミラが、マレ人の姿を眺めている。マレ人は拝したまま、動かない。永遠に続くかと思われる時間のあと、ゆっくりとミラが首を降ろした。そのまま踵を返し、海へと戻っていく。
マレ人の体から力が抜けたのを見て、二人は浜を駆け降りた。
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