3

 ――この御子の瞳は、研究者の瞳でございます。

 そう述べたのは、風変わりなアランの教育係のひとり、ライオネルだった。まだロンドが頑是ない子供の頃の話である。

王城の図書館に引きこもり、本を貪るように読む、そんなロンドをアランが探しに来た時のことであった。

 ロンドは抵抗した。まだ本を読み終わっていないのだ。この本を読み終わるまでこの場所を動かない、と泣き、兄を散々困らせたのである。

 ――人には人の才があります。

 そう言って、アランを止めたのがその教育係だ。

 ――瞳の奥の探求心、湧き上がる泉のごとき好奇心。まこと研究者に相応しい。

――アラン殿下、どうかこの御子の素質を、お守りくださいまし。

その言葉に従った否かは分からない。しかし、アランはロンドのやりたいことを尊重し、時には環境を整え、陰ひなたに支えてくれたのである。

アランは父亡き後、若くして即位した。そして父王をしのぐ名君となった。

どんな小さな陳情にも耳を傾け、書類にもすべて自分で目を通し、現地へ赴き自分の目で確かめる。そんな王だった。武芸に秀でているにも関わらず知識量も膨大で、そのくせ分からないことは素直に教えてほしいと言える兄だった。

 ロンドはそんなアランを、心の底から敬愛していたのである。

「兄さんは、本当にアラン兄さんのことが好きなんですね」

 そう言ったのは、弟ヴォルクだ。自分よりも、ヴォルクの方が兄に似た気質を持っている。博識で武芸にも長け、人望もある。

「それはそうですわ、だってアラン兄さんは完璧ですもの」

 ころころと笑う妹エルザは、賢く美しい姫として名を馳せていた。

弟妹も、ロンド同様、アランのことを慕っていたのだと思う。

他国の王族はどうだか知らないが、ロンドの兄弟はみな仲が良かった。よくこうして城の一室にお忍びで集まっては、とりとめのない話をしたものだ。

 アランがいる限り、自分が王位を継ぐことはないだろう。王位継承者たちがこうも兄を慕っているのだから、王冠を巡ったきな臭いような陰謀は起こりそうにもないし、武術の名人であるアランが、多少の小競り合いで命を落とすことも考えられない。そもそもそのような争いごとも起こる気配が見当たらない。

 そう、思っていたのである。

 ロンドはアランの執務室の前で一度立ち止まり、扉を叩いた。重厚な扉を打ち付ける音が石造りの廊下に響き渡った。

 今度はどのような用だろうか。

このように突然呼ばれたことは、実は初めてではない。

以前もこうして厳命を受けて部屋を訪ねたことがある。ロンドは少々特殊な趣味を持っていてその見解を聞かれたのだ。聞けば、かねてから犬猿の仲として小競り合いが絶えない、近海に住むミツチの民についてのことであった。

「ミツチの民ですか」

「ああ」

 アランは重々しく頷いたものだ。

「かの民のことを、お前がどう思っているか、それを聞かせてほしい」

 不思議な質問だとロンドは感じた。ミツチの民とアラシア国はそれこそ建国時代からの犬猿の仲である。

 アラシアの国は三方を海に囲まれていることもあり、農作物が育ちにくいという特徴があった。そこで建設されたのが、今なおアラシアの国土と海を隔てる「アラシアの壁」だ。そして、その壁の建立に携わっていたのが、今のミツチの民の祖先であると言われている。

 彼らは国に反発し、独立した生活を送るために国土を捨てた。そして海に生きる者として島のひとつに住み着き、そこで暮らし続けているのである。

元は同じ民族であったところが分裂し、憎しみ合うようになった詳細の理由は語られていない。しかしながら今も尚、ミツチの民はアラシアを恨んでいるといわれているし、アラシアの国民はミツチの民のことを蛮族と呼び快く思っていない者も多い。

 しかしながら、ロンドは少し違った。

「かの島には様々な植物があります。僕が蒐集したものの中にも、ミツチの民の島から採れたものが沢山ありますが、どれもみな興味深い。だから、その島の文化や生態系について、もっと詳しく知りたいと思っています」

 太く逞しい指を唇に当て――兄の考え事をするときの癖だ――ロンドの言葉を待っていた兄は、どこかほっとしたように息を吐いたものだ。

「そうか、それなら、いい。悪かったな」

 兄王アランは苦笑して、そこで話を終わらせたのである。

その時の兄は、大層悩んでいるようだった。もしかしたら、今日のこの呼び出しもその悩みに関することなのかもしれない。そう踏んでいたのだが、返事がない。

常であれば、すぐに応答があり、目通りがかなうはずだった。

 おかしい。必ず来るようにとの命だったのに、その兄が自分との予定を外すわけがない。

 それで、不敬なこととは思いながらも、扉を開けたのである。

 目に入ったのは、一面の赤だった。アランはその中にいた。立派な拵えの執務室の椅子に座り、机に突っ伏して、どくどくと赤い液体を垂れ流している。

 ロンドはか細い悲鳴を挙げる。慌てて近寄り脈を取るがすでに事切れた後である。

 それからの記憶は、ロンドにとって酷く曖昧なものだった。

 ――兄さん、なんてことを……!

 怒りに震えるヴォルクの顔が見える。棺に取りすがって泣きじゃくる、エルザの顔が見える。衛兵に取り囲まれ、縄を穿たれ、石造の牢に幽閉され――そうして、あの船に乗ったのである。

 兄殺しと王殺し、どちらも大罪。王家の名に免じて、かの島アジュガへと御身を送り、そこで一生を過ごすこととする――。

 死刑に、と声高に主張する者たちを押さえたのは、兄妹たちだとのちに聞いた。

 自らに下された判決を受け入れたのは、掛けられた罪の疑いを晴らすべく戦った末でのことではない。

 兄は死んだ。

その死体を見たときにロンドは誓った。

もう二度と、自分は口を開かない。兄の死については一言も話さず、竜に誓って沈黙を守る。

だからロンドは――口を開かなかった。

流刑地であるアジュガ島に流されることは確かに屈辱だった。それが王家の者にとって事実上の死であることも分かっていた。しかし、兄の死について口を開くことに比べたら取るに足らないことだ。

しかし、アジュガには――着かなかった。

 恐らくロンドは、昨日の嵐で船から海に落ちてしまったのだろう。そして、どこかの島にたどり着いた、ということだ。

 砂を踏みしめながら、ロンドは前を行くティティの後姿を見やる。

確かに運が良かった、と言えるのかもしれない。あの嵐の中で命があっただけでも奇跡だ。

 しかし、これからどうする。

 自分の出自を述べ、国を目指すことは論外だ。自分は追放されている身である。では、本来流されるはずであった流刑地のアジュガに行くか。しかし、ここがどこだか分からない以上、連絡手段も足もない。

それに、とロンドはティティの揺れる黒髪を眺める。

この少女が指す「アラン」とは、兄の事なのだろうか。名前だけでは確証がない。なぜ、兄の名をこの少女が口にしたのかも分からないままだ。

 ロンドは頭をひとつ降った。やめよう。まずは状況を把握しなければ、出る答えも出ないというものだ。

 ティティはひとつの小屋の前で足を止めた。他の小屋よりも二回りほど大きい。しっかりとした板が張られている屋根は船形で、極彩色の文様が描かれている。小屋の入り口には同じように色彩豊かな布が幾重にも垂れ下がり、奥への視線を遮っていた。

 ティティは入口に跪くと、手を前で組み丁寧に拝する。

「島長に申し上げます。マレ人をお連れしました」

 そのまますっくと立ちあがり、ティティは布を手で押し上げ、ロンドにちらりと目配せをする。どうやら、中へ入れと言いたいらしい。

 ゆっくりと足を前に出す。その足の下で、乾いた砂がきゅうと鳴いた。視線を上にあげ――ロンドは凍り付く。

 極彩色の文様だ。板張りの屋根を華やかに彩る、赤や黄色、緑の渦。その渦の形に、ロンドは見覚えがある。

 誇らしげに刻まれている文様は、自国アラシアと犬猿の仲である、ミツチの民の者であった。


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