2


 男は瞬いた。ぼやけた視界がすこし開ける。

見慣れない天井だ。板を張って作っているのだろうか。所々に穴が開き、光が筋となって差し込んでいた。ゆっくりと半身を起こす。色彩豊かに織られた肌掛けが体からずり落ち、そのままはさりと床に落ちた。

 どうやら、小屋にいるようである。

 木で造られた柱と床、その床に直接敷布が引かれ、寝かされていたようだ。

小屋の入り口には扉がなく、極彩色の布が幾重にも垂れ下がっていた。その先からは、まばゆい陽光が差し込んでいる。鼻先を掠めるのは潮の匂い。自国でも慣れ親しんだ潮の香りが、濃度を増して強く立ち込めている。

 自分の居場所を確認し、男――ロンドは自らの手のひらを見つめた。軽く握って開き、首筋に二本の指をあてる。指の腹を打つ、脈の音。

 ――生きている。

 あの嵐を、どうやって生き延びたのであろうか。実感がわかずに、ロンドは何度も手を握っては開いた。

「起きた?」

 不意に軽やかな声が聞こえ、ロンドは視線を横に向けた。今まさに入り口の布をたくし上げ、入ってきた人物がいる。

 女だ。いや、少女と言ってもいいだろう。黒く長い髪をゆらゆらと揺らし、猫のような吊り目でロンドを見つめている。身に纏うのは極彩色の衣。一枚布を器用に巻き付け、体に結び付けている。首には小さな貝殻を繋いで作った首飾りが光っていた。目に眩しいその色に、焦げ茶色の肌がよく映えている。見るからに健康そうな少女である。

 少女はロンドに近寄ると、手に持っていた器をずいっと差し出した。

 大きな木の実を割って、中をくりぬいて作った器だ。そこに入っている赤紫色のとろとろとした液体から、甘やかな香りが漂っていた。

「飲むといい。嵐のあとだ。体が参っているはずだから」

「……ここは、どこですか」

「それはあと。まずはこれを飲んで。貴重なものだから、零さないように」

 強引に押し付けられた木の実の器を手に取り、口をつける。香りの甘さに反し、鼻に抜ける爽快感のある酸味が心地よい。じわじわと手足に力が入るのが分かった。冷え切った体が、ゆっくりと温かさを取り戻していく。

「うまいか?」

 ロンドの体がほぐれたことに気がついたのであろう、少女は、ほ、と息をついた。

「カナハの実を絞ったものだ。めったに採れないけど、昨日の嵐の贈り物に混じっていた。弱った体にはこういうものがよく効くはずだから」

 確かに、今まで口にしたことのない味である。どうやら腹も空いていたようで、瞬く間に飲み干してしまった。

「――ティティ。お前は?」

 少女はロンドの顔をじっと眺め、突然名乗った。

「……」

 ロンドは一瞬口を開き、再び閉ざした。常ならば、人から名乗られたら名乗り返すロンドである。しかし、事情が事情だけにどう名乗っていいのか分からなかったのだ。自分の名前がもたらす影響を彼は知っていた。まずは自分の居場所を確かめてからでないと危険である。

 口を閉ざしたロンドに何を思ったのだろう、少女ティティは肩を竦め、ロンドの隣にとさりと腰を下ろした。

「よかったな、助かって。昨日の嵐だ。運がよかった」

 そう言って、ティティは顔を覗き込み、にっかりと笑う。少女の瞳は黒々と輝き、まるで夜空のようだ。自国ではあまり見ない色合いである。

「さ、立てるか。挨拶に行かないと。今なら島長も手すきだろうし」

「挨拶……?」

「そう」

 ティティはロンドから空の器を取り上げると、懐から布を出してざっと中を拭く。そのまま衣服の中にしまい込むと、よいしょと立ち上がった。

「お前みたいなマレ人は、島長に挨拶に行くものだ」

「マレ人……」

「嵐の贈り物で、お前みたいに流されてきた者が一人だけだと思う? 行くよ。立てないなら肩を貸してあげるから」

 それはさすがに遠慮したい。体格はいい方ではないが、それなりの上背があるロンドがもたれかかったら、この少女の細い肩は潰れてしまうだろう。ロンドはなけなしの自尊心をかき集め、まだぐらつく体を起こした。

 ティティが小屋の入り口の布をたくし上げる。差し込むような陽光が確かな熱で小屋の床板を焼いた。

「――そうだ」

 今まさに小屋の入り口を潜らんとしたときである。針に糸を通すような緊張感のある声色で、ティティはくるりと振り返った。

どきりとして、ロンドは顔をあげる。ティティがこちらを見ている。逆光で顔は見えない。それでも、その張り詰めた緊張感、周囲を憚るようなひそやかな声は、ロンドの耳に鋭く落とされる。

「お前、アランって名に聞き覚えはない?」

 反応を示さなかったのは、故意ではない。突然突き付けられた剣に反応できないのと同じことである。

「……まただんまりか。まあいい。気が向いたら聞かせて」

 そう言って、ティティは布をくぐった。強張る体を叱咤し、萎えそうになる足を励まして、ロンドも後に続く。

 極彩色の布の先には眩いばかりの太陽と広い空。足元は白い砂浜で、くたびれた革靴を通しても火傷しそうなほどの熱を持つ。耳に潮鳴りが届いた。ざざざと鳴るその音が、ロンドの心に影を落とす。

 アラン。それは自国アラシアの敬愛なる王。ロンドの兄。そして――目の前で、血にまみれて死んだ男の名前だ。

 ロンドは空を見上げた。

白みを帯びた青い色。アランの目の色と同じ色。兄王、アランが死んだ日も、こんな風に天気の良い日だった。

 ロンドはアランに呼ばれ、彼の自室へ向かっていた。

今からひと月以上前の事である。


 ***


 第二王子とはいえ、ロンドは施政とはほとんど関わりを持つことなく暮らしていた。

元々出不精で、剣を持つよりも本で学ぶことの方が好きだった。王という職業は自分には合わない。自分は武芸もからきしで、人の話を聞くのも苦手だ。人脈を作るのも得意ではない。だから人前にも出なかったし、社交界のすべてを兄弟に任せ、自室にこもって好きな本を読み、趣味の研究にいそしむ。そんな生活をしていたのである。

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