流された第二王子
1
少女は走っていた。背に籠を背負い、素足で砂浜を駆けている。
首元で、貝殻の首飾りがしゃらしゃらと賑やかな音を立てた。その音に急かされるように、少女は走る。
目指しているのは入江である。集落からやや離れた入江は、あまり近づかないのが常だった。しかし、今は違う。
快晴。
嵐が過ぎ去り、朝日がまだ少し荒れている海原を明るく染め始めている。海原の、遥か遠くに見えるは海の竜――今日は機嫌が良いようで、巨大な蛇体をゆらゆらと水面に出し、くゆらせ、波間に揺蕩わせていた。
少女は足を止め、息を整えた。最近竜の様子がおかしい。普段ならなんてことのない光景も、つい緊張してしまう。しばし竜の様子を観察し異変がないことにほっとすると、少女はそのまま手を前に組んだ。丁寧に拝して竜への敬意を示す。海の竜たちは守り神。海の竜が我々島民を導き守ってくれるのだ。幼い頃からの口伝を、少女は今でも大切に胸に刻んでいる。
祈りに時間を費やした割には、入り江にはまだ誰もいなかった。そのことにやや安堵し、少女はごつごつとした岩を降り始める。
「ティティ!」
背後から声を掛けられ、少女――ティティは振り返った。まだ柔らかな陽光の下、弾けるような笑顔が眩しい少年が立っている。
「随分と早いな」
少年は手に籠を抱え、負けじと岩を降り始めた。
「ユマも、人のこと言えないじゃない」
ユマ、と呼ばれた少年は空の籠をひょいと背中に背負い直し、肩を竦めた。
「ばあちゃんが。早く行かないと、もう誰かに取られちまってるって急かすんだ」
「ユマのおばあちゃんらしい」
「ま、異論はないからな。さて、やるか」
嵐は、この島では『贈り物』と呼ばれている。
普段と違う潮の流れと吹き荒ぶ風が、入り江に様々な漂着物を運んでくるようになったのは、少なくともティティが生まれるもっとずっと前のことだ。それこそ、ティティやユマの祖母や、その曾祖母の時代から受け継がれている伝統である。
だから、この伝統行事に島民が集まること自体は不思議ではない。しかし、今は伝統を重んじるというよりも、もっと深刻な問題で嵐を待ち望む島民が多くなった。
魚が取れないのである。
島民の長を勤める父の元には、様々な陳情が入ってくることが多い。その中でもとりわけ多いのが食糧についてである。半年ほど前からちらほらと上がっていた陳情が、ここ数日で倍以上に増えている。魚の収穫量が減り、今やその日の食事を賄うのですら危うい。このままでは立ちいかなくなってしまうだろう。
そんな折での昨日の嵐である。激しい雨風で、それこそ漁には出られなかったものの、あれだけ大きな嵐であれば、贈り物にも期待できる。
入り江には様々な贈り物が流されているに違いない。透明な空き瓶、角の取れた綺麗な石、何かの動物の骨、流木。どれもみな、この島では採れない貴重なものだ。そして、島では採れない珍しい魚や貝、木の実などもどっさり流れ着いているに違いない。
これで島民の皆も安心するだろう。その場しのぎではあるが、当面の食糧問題も解決するかもしれない。
「ティティ!」
思いがけず緊急性の高い声で呼ばれ、ティティはぱちり、と目を瞬かせた。入り江の先で、ユマが大きく手を振っている。
「大変だ!」
「どうした!?」
「こっち! その先だ!」
青ざめた顔のユマが、入り江の先端を指さした。
「マレ人が……!」
「今行く!」
籠を背中に背負い直し、ティティはえいやと岩を駆け降りた。ユマの指さす先に、確かに人が倒れている。若い男のようだ。ぐったりと力なく投げ出された手が青い。ティティは背筋に冷たいものを感じながらも人影に駆け寄り、ぐいと抱き起した。
「死んでるのか?」
同じく駆け寄ってきたユマが、息を切らしながらそう問うた。
「いや……」
ティティは抱き起した男の面を上げた。幸いなことに、死んではいない。男の体は冷え切っているが、辛うじて胸が上下している。
驚くほど眩しい男だ。
朝日に照らされて煌びやかに輝く、しっとりと濡れた金の髪。閉じられた金色の睫毛はふさふさと長く、かすかに震えている。年のころは、ティティと同年代かもしれない。質素な服は海水にまみれあちこち破けていたが、質のいい服であることは間違いない。
何よりこの肌の白さ。この島の民は、海辺に生きる証ともいえる浅黒い肌をしている。この男は明らかに、島民ではない。いや、島民どころか……。
ティティの脳裏に、一人の男の影がよぎった。この者と同じような金の髪、白い肌の男を、ティティは知っていた。このマレ人は、あの男と同国の者なのではないだろうか。
「行こう」
ユマがティティの腕から男の体を引き上げ、自らの背に担いだ。
「なんにしても、ここには置いておけない。ティティの親父さんのところか?」
「――ううん、だめだ」
父の元には人が多く集まる。この男の素性が分からない以上、あまり目立つのはよくないだろう。そして何より、そのことで父に負担を掛けたくなかった。
「一度、空き家に運ぼう。意識が戻るまでは他の者には言わない方がいい」
「分かった」
嵐の贈り物は、時にとんでもないものを運んでくるというが――。少女は独り言ちる。ユマに背負われている男の金の髪から、ほたほたと雫が落ちるのを見るともなしに見ながら、ティティは鼻先に懐かしい匂いを感じていた。
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