蜘蛛は蝶の羽ばたく夢を見た

くーくー

第1話

 私は、蜘蛛の網にかかった。

 けれど、蜘蛛は捕らえた私を食べなかった。


 昼下がりの教室、ざわめく灰色の人の群れの上を、優雅に蝶が舞い降りる。

 大幅に遅刻したことを全く気にするそぶりもなく、秋の稲穂のように豊かで流れるようななめらかな髪をふんわりと掻き上げ、蝶は艶やかに微笑む。


「ねぇ、さっきそこの子から聞いたんだけど、今日の数学って小テストがあるらしいね、ノート見せてくれるかな」


 蝶に肩を触れられた灰色の男子生徒は、思わずにやけてしまう口元を隠し切れずに、いそいそとカバンからノートを出してどさどさと机の上に広げ、その一方でポケットから出した小さなメモを背後に回した手の下からこっそり蝶に渡す。


 すぐ後ろの席の蜘蛛には、その様子がすべて見えている。

 灰色の男子生徒の渡したメモには、今日のテスト範囲の予想回答がすべて書いてあるのだ。

 いわゆるカンニングペーパーというやつだろう。

 蝶はこのメモを見て、毎度90点以上を取っている。

 堂々と目の前で広げて回答を書いているのに、教卓の前のらくだ色の教師は何一つ注意をせず、ふと目のあった蝶に優美に笑いかけられると、鼻の下を伸ばして銀縁メガネのふちを指先で何度も押し上げる。

 

 メモを用意した灰色の男子生徒も、見逃しているらくだ色の教師も、蝶にそれをしてくれと頼まれたわけでもない。

 それなのに、次々に蝶にかしずき首を垂れる。

 

 花から花へ、気まぐれに飛び回る蝶に、名もない花は自らその蜜を差し出すのだ。

 

 どうか搾りかすすらかけらも残らないほどに、搾り取れるだけ取ってください。

 あなたに、私のすべてを差し出します。

 だから、私を選んでください。

 とでも言うように。


 蜘蛛は、その様子を背後からすべて見ている。

 顔の右半分を覆いつくしている分厚い前髪の隙間からちらりと覗く右目もカッと見開き、ちょっとした仕草も見逃さぬように。

 ただひたすらに、蝶の一挙手一投足をすべて見ている。


 蜘蛛と蝶は、今まで一言も言葉を交わしたことがない。

 蜘蛛の存在は、蝶にとって教室の空気のような存在ですらない。

 ときたま目の端にちらりと映ることがあっても、次の瞬間には蝶の記憶の中にすでに蜘蛛はいない。

 しかし、蜘蛛の目に映るもの、耳から入る笑い声、かすかなため息、脳に刻まれるその日の記憶のすべてが、蝶で構築されている。


 ひたすらに、ただひたすらに見つめ続ける、ふっと空気を吐くかすかな音すら聞き漏らさずに。


「うちの学校の周りって、自然ばっかで他に何にもないのにさ、サボっているときいつもどこに行っているの?」

「ふふっ、私だけの秘密の場所があるの」


 その日の放課後、蝶は取り巻きの一人にサボり場所を問いかけられ、蜘蛛には灰色の塊にしか見えないその髪の長い女生徒にもたれかかり、つぶやくように答えた。

 灰色の上に、色が咲き乱れる。

 その姿、その声、蜘蛛にとっての鮮やかさは蝶の発する色だけだった。

 その美しい色を一音も聞き漏らさないように、蜘蛛は自らの音をたてぬようにじっと縮こまり、全意識を集中させひそかに耳をそばだてる。


「何々、どこよ、どこー? 教えてよー」


 折角集中しているのに、がさがさとした耳障りな灰色声が耳に入り、蜘蛛は思わずガシャンと机の脚を蹴飛ばしそうになるが、後に続くであろう蝶の声のためにじっと我慢し、息を殺す。


「ふふっ、どうしよっかなー、うん、やっぱり秘密~、あそこはね今は私だけの場所にしておきたいから、いつか教えてあげるかもー、今日も午前の授業が終わったら昼寝に行くんだー、もう朝から登校してるとどっと疲れちゃってねー」

「えー、今日も一時間目は来なかったくせにー、土曜日なんだから授業は午前だけなんだし、ちゃんと来なよー」


 蝶の秘密という一言が頭の中でうわんうわんと反響して、灰色声はもはや蜘蛛の耳には入らない。


 秘密、秘密、秘密、誰とも分かち合ってはいない蝶だけの秘密、それは甘くとろりとした黄金色の蜜のように蜘蛛の心を満たし、幸せな気分にさせた。


 誰にも踏み入れない蝶だけの場所、それがあることが知れただけで、蜘蛛にとっては大収穫なのだ。

 決して、自分がそこに立ち入って踏み荒らそうとしようなぞ、思うはずもなかった。


「じゃあねー、また来週~」


 灰色生徒たちにひらひらと手を振り蝶が教室を出て行く後姿を、髪の毛の一本が消えるまで見届けてから、蜘蛛はいそいそと帰り支度をし、学校の裏手にある深い森の中へと足を踏み入れる。

 この先に、自宅があるわけではない。

 すっかり葉が散って、シーンととがった空気に裸の身をさらしている木々の間をすり抜け、ときどき足元でポキリと霜のついた朽ちた枯れ枝が折れる音を聞きながら荒れ果てたけもの道のような細い通りをしばらく行くと、そこには古ぼけて今や廃屋となった洋館がある。

 その昔、戦前に革命のあおりを受けて東欧から日本に亡命してきた高祖母が住まいにしていたこの屋敷は、祖父母が避暑用に使った後長らく放置されていたが、祖父が亡くなり相続をした父親が売却することを決め、娘の蜘蛛に簡単な修理と清掃を言いつけたのだ。


 掃除道具の入ったリュックを背負い、ため息をつきながら蜘蛛が施錠していない重い扉を開けると、そこには思いもしない光景が広がっていた。


 天井まで届くほどの背の高いアールヌーボー様式の蔦模様のステンドグラスの窓、そこから燦燦と差し込む冬の晴れ間の小春日和の日差しの下、ところどころ色褪せた深紅の革張りのソファーに長くしなやかな足を投げ出して寝転んでいるのは、あの蝶だった。


 ソファーの下の床にはあちこち隙間の空いた白い錠剤のシートが散乱し、蝶や蜘蛛が小学校低学年のときに大流行していたアニメの主人公のパートナーである可愛らしいウサギのキャラクター入りのピルケースと、アルコールの残り香がプンプンと漂う錆びた小さな空き缶が転がっていた。


 蜘蛛はリュックを投げ出すと蝶のいるソファーに駆け寄り、耳を近づけその息を確認した。

 蝶は少しアルコール臭い息を、すーすーと蜘蛛の耳に吹きかけた。

 蝶はただすやすやと、深い眠りについていた。

 蜘蛛はそんな蝶の制服のベストを掴み、ずるずると背後の壁まで引きずってゆき、その体を脚立を使って引っ張り上げると、十字架のような形をした柱へと物置小屋の修理用に持ってきていたロープで括り付けた。

 小柄な蜘蛛が、瘦身とはいえ自分より頭一つも大きな蝶を持ち上げるなど考えられない行動ではあったが、その時の蜘蛛は信じられないほどの剛力が自分の腕や足を動かすのをひしひしと感じていた。


「ちょっと! 何なのよ、これ!」

 

 数時間後、夕暮れ時にやっと眠りから覚めた蝶は、身動きの取れない自分の状況に気づき、首と手と足の指をバタバタと動かしたが、びっちりと頑丈に結ばれたロープはびくともせず、体は自由にならなかった。

 

 あぁ、私は捕らわれてしまったんだ。

 その焦りから、しばらくたってから足元から自分を見上げている蜘蛛にやっと気づいた蝶は、爛々と光る大きな瞳でぎろりと蜘蛛を睨みつけ、怒鳴り散らした。


「ちょっと! これってアンタがやったの、どうしてここがわかったのよ! もしかして、アンタ学校からあたしのことつけてきたの?」


 蜘蛛はおどおどした様子でふるふると首を振り、事情は何も話さなかった。

 そして、向かい側にあるパチパチと火花の散る暖炉に薪をくべ足した。

 囂々と勢いを増す炎の明かりで蝶の怒りに燃えた顔は照らされ、その赤の中に凄まじいまでの美しさが浮き上がる。

 いつもの蜘蛛なら、どうにかしてその顔を目に焼き付けようとするはずだが、今日の蜘蛛は背中を向けたまま、そのまま扉を開けてどこかへと立ち去ってしまった。


「ちょっとー! これ、ほどいてから出ていきなさいよ! 何のつもりよ!」


 蝶がどんなにキーキー叫んでも蜘蛛はちらりとも振り向かず、小さな背中をもっと小さく丸めていつも施錠されていなかった扉にガチャリと鍵までかける音までする始末だった。


「アンタ、ねぇ、ふざけるのもいい加減にしておきなさいよー! 今ならこのことはただの冗談で片づけてあげるし、誰にも言わないでいてあげるから、はやく私を自由にして! ねぇ、さっさと開放しなさいよー!!」


 蝶はその後も叫び続けたが、答えはなく、すっかり喉がかれてしまい、叫ぶのをやめて耳を澄ませたが、聞こえるのは枯れ葉が風に舞うカサカサとした音と、焚火のパチパチと火が爆ぜる音だけ……

 蝶ははぁっとため息をついて、さっきまで寝込んでいたはずの部屋を目の届く限り見回した。

 床は塵一つもないほどピカピカに磨かれて、蝶の散らかした薬のシートも空き缶やピルケースも消え去っていた。

 それに枕代わりにしていたブレザー入りのスクールバッグも、ソファーから無くなっていた。

 ただ、スカートのポケットに入れていたスマホは、ソファーの裏側と窓の隙間に無造作に転がっている。

 あれに手が届けばと思うが、この身動きの取れない状況ではどうしようもない。

 

 なんとかロープを緩ませたいともがくうちに、蝶は自分の服装の変化にやっと気づいた。

 ジャケットなしのシャツとベストの真冬には寒々しい元の着衣の上に、あたたかで少しナフタリン臭いカシミアのようなあたたかいタートルネックのセーターを着せられていたのだ。

 蜘蛛は蝶をがんじがらめに捕えておきながら、妙な気遣いをみせロープの下にもざらざらした摩擦で肌が傷つかぬようにするためか薄いタオルが巻かれていた。

 しかし、その一方で、ロープはどんなにもがいても解けぬほどにきつく結ばれている。

 蝶には蜘蛛の真意が、全く分かり得なかった。


 そして、磔にされたままでありながらぽかぽかした部屋のあたたかさに蝶が少しうとうとし始めたころ、大きなリュックを背負った蜘蛛が扉をゆっくりと開けて、びくびくおどおどした様子で戻って来た。

 それからごそごそとリュックを探り、蝶が以前好物だと教室で話していた三つ先のターミナル駅のケーキ店で売られているバナナロールケーキの包みを取り出し、慌てた小動物のような忙しなくおぼつかない動作でかさこそとバラ模様の包装紙を剥がすと、背伸びをしてきゅっと少し開いていた蝶の唇の隙間にねじ込んだ。


「ちょっと、いきなり何すんのよっ!」


 蝶がねじ込まれたそれを、ばっと投げつけるようにして勢いよく吐きだすと、それは蜘蛛の顔に直撃し、顔の右半分を覆いつくしていた前髪がはらりとはだけいつも隠されていたその顔があらわになった。

 そこには、まるで蜘蛛が顔を這っているかのような醜い火傷の跡が刻まれていた。

 

「はっ、何その傷跡、まるで蜘蛛がずりずりと這いまわっているみたいね、あぁだからアンタ、クラスのやつらに蜘蛛だなんて呼ばれているんだぁー!」


 嘲るような叫び声をあげたその時、蝶は初めて蜘蛛がなぜそう呼ばれているのかというわけを知った。

 高校入学以来、蜘蛛がクラスメイトの口に上ることはほとんどなかったのだが、何かの拍子に話題になるときは、「蜘蛛が、あの蜘蛛のヤツが」と吐き捨てるように侮蔑の滲み出た呼ばれ方をされていた。

 しかし、なぜそう呼ばれているのかなぞ、蝶は全く気にも留めず、いちいち理由を聞くなんて面倒なことをする気にもならなかった。

 蝶にとって蜘蛛は、全く言葉を交わしたことがないだけでなく、自ら声をかけたことすらこうして捕らわれの身となったつい数時間前まで一度もなかったようなそんないないにも等しい存在だったのだから。

 そう、蝶の記憶の中では、まさしくそうだった。


 けれど、蜘蛛にとっては、蝶が自分に向けて初めて発した言葉は、あの怒りのこもった言葉ではなかったのだ。


 入学式当日、もう式は終わってしまったというのに初日から悠々と登校した蝶、皆がとっくに去ってしまった後の講堂からのそのそと一番最後に出てきた蜘蛛は、その瞬間に遭遇した。

 薄曇りの昼下がり、散りかけの桜並木の下で、はらはらと舞ううすピンクのその可憐な花びらですら、明るい日差しを得られずともつややかに輝く肌とバラ色の頬を持つ蝶のその美しさを引き立てる小道具にしかならないほどの華やかさ。


「あら、おはよう、いい天気ね」


 その姿に見惚れてしまいその場に立ちすくんだ蜘蛛に、同じ十五歳とはとても思えぬようなけだるい笑顔とともに、入学して初めて人から向けられたあたたかなまなざしと桜の花びらのついたぷっくりとしたみずみずしく艶やかな唇から発せられたその言葉。


 たった一言の気まぐれな挨拶、蝶の記憶にはかけらも残ってはいない。

 しかし、その瞬間、蜘蛛の心はすっかり蝶に魅了され、がんじがらめに捕らわれてしまったのだ。


 そんな蝶に、醜い自分の火傷の跡を晒してしまった。

 蜘蛛は、息ができなくなるほどの衝撃を受けた。

 やっとはいはいをし始めたばかりの幼児期に、ベビーシッターの不手際によって熱湯で刻印されたそれ、赤くただれた顔のまま適切な処置もされず放置されぎゃんぎゃんと大泣きしていた蜘蛛、父親はどこの馬の骨とも知れぬ男子学生に幼い娘を預け呑気にオペラ鑑賞をしていた母親を無責任だと散々責め立てた。

 数日後、学生でも通るほどうら若かった母親は、まだ火傷の癒えぬままの蜘蛛をベッドの上に置き去りにし、かねてから密かに交際していたらしいその男子学生と共に出奔してしまった。

 その後、再婚もせず男手一つで自分を大切に育ててくれた父親ですらもふと目に入ると眉をしかめ、目をそらすほどの自分の醜い火傷の痕。

 蝶の美しい瞳に、こんなものを映していいわけがない。

 蜘蛛はひっひっと息も絶え絶えになりながら、慌ててはらりと散った前髪をかき集めてまた右の顔を隠した。

 それから、クリームで汚れた蝶の唇と頬に気づくと、また背伸びをしてきちんと折りたたまれた清潔なガーゼのハンカチでそっとその口元を拭った。


 その小刻みに忙しなくぷるぷると震える指先、蝶の体に指先一つも触れずに拭おうとするもどかしさやくすぐったさ以前に、蝶のいらいらが頂点に達しようとする出来事があった。

 下腹部を突き上げてくるこのどうしようもないむずむず、そう、生理現象だ。


「ちょっと、アンタ、これ外しなさいったら! 私はトイレに行きたいのよっ! 逃げるのが心配なら腕は縛ったままでもいいから、済むまで外で見張っていればいいじゃない! もうっ、トイレぐらい行かせたっていいでしょう!」


 蜘蛛はその切迫した懇願の込められた悲鳴にも似た悲痛な金切り声に、少し困ったような顔をしてしばし考え込むと、またふらりと扉の外へ出て行ってしまった。


 蝶はその小さな後ろ姿が消えてゆくのを見届けた後、だんだんと力の抜けてゆく下腹部にあきらめ交じりの表情を浮かべて、まだ放置されたままの自らのスマホに目を向けた。

 

 もうとっぷりと日も暮れて、頭上のはるか上、吹き抜けの天窓から差し込むぼんやりとした月明りと焚火の明かりだけが灯る部屋、捕らわれてからとうに半日は過ぎてしまっただろうに、蝶のスマホは一度たりとも鳴らない。


 蝶はクラスの取り巻きの誰一人たりともにも連絡先を教えず、彼らもまたそんな蝶の機嫌を損ねることを気にし、遠慮して、無理に知ろうとはしなかった。

 そして、彼女の両親もまた、とっくに帰宅しているはずの末娘に連絡をしようとはしない。

 自宅に蝶を一人残し、双子の兄と姉を連れて海外赴任中の両親は、渡航前から娘がふらりと姿を消し何日も家に戻らないことに慣れっこで、連絡を頻繁にすると面倒くさがり電話を無視し折り返しもしてこない娘に少々辟易していて、自由放任のグローバルな子育てという適当な主義を言い訳にして、めったに連絡をよこすこともなかった。

 かしずく花たちに常に囲まれているように見えた美しい蝶は、どこの群れにも属してはいない、ある種異端の存在だった。


 蝶にとって、自らを取り巻く環境、目に映るすべての現象、その何もかもが、あくびが出るほど退屈で退屈でたまらなかった。

 自分の美しさに媚びを売る顔のない透明な人々も、関心のない両親も、その二人が頬を緩ませ他者に自慢する急遽受けた移住先の一流大学にやすやすと合格した優秀な兄も姉もその何もかもが。

 すべてがくだらない、もうどうでもいい、どうにでもなればいいと思って、不眠を理由に手に入れため込んでいた睡眠導入剤と自宅の冷蔵庫の奥で忘れさられていたアルコール飲料というケミカルな取り合わせを、最後の晩餐にと思い口に含んでそっと目を閉じた。


 入学式の朝、校門の前でふらりと踵を返し、森の中で偶然見つけた、まるで自分が来るのを扉を開け放したまま長い間ずっと待ち続けていたかのような美しくさびれたこの場所で、誰にも知られずそっと静かに幕を閉じる。

 理由もなく、なんでもない空白の日常が唐突に終わる。

 それが自らの終焉に、最もふさわしいのではないかとすら思っていた。


 しかし、眠りから覚めた蝶はきちんと認識すらしていなかった蜘蛛という存在に、その身を捕らわれてしまっていた。

 みっともなくじたばたともがきながら、しかして、蝶は今この瞬間、今までにない高揚感を感じていた。

 蜘蛛の網に捕らわれ、どうでもいいと思って手放さそうとした生の危機に直面し、生きている実感をまざまざと感じていたのだ。

 蝶に初めて、生への渇望、生きるということへの執着、どうにかして生き延びたいという強い気持ちが生まれた。


 磔にされた目の端に映る、半日前にその身を横たえて目を閉じた赤いソファーを見つめながら、蝶はけらけらと笑い声をあげ、静まり返った夜の空気を震わせた。


 明け方、気絶するようにして再び眠りについた蝶の前に、蜘蛛はやっと戻って来た。

 その足元には黄色い汁が溜まり、しみ一つない滑らかな肌が乾いたそれの筋でうっすらと汚れている。

 蜘蛛は蝶の目の届かない場所に隠していた脚立を引き摺ってきてのぼると、その肌には決して直に触れようとせず、いつくしむように、壊れ物を扱うように、大事にそっと拭き続けた。


 そして、太陽が昇りきってから目を覚ました蝶は、自らの下半身に少しの違和感を感じた。


 汚してしまった制服のスカートが、セーターと同じくあたたかでやわらかなカシミアのボトムスに履き替えさせられている……でも、違和感の正体はこれじゃない……その下のパットのようなものと、肌に触れる紙のような感触、そして擦れるたびに鳴る小さなカサカサした音……

 これに似たものを履いていたのはとうの昔で、記憶には残っていない。

 でもわかる……これは、この肌触りは、紙おむつに違いない。

 冗談じゃない! なんてことをしてくれたんだ。

 確かに私は粗相をしてしまった……でも、それは、すべてが目の前のコイツのせいじゃないか!


「私は赤ん坊でもなけりゃ、徘徊老人なんかでもないのよっ!」

 

 頭にカーッと血がのぼった蝶は、わなわなとする唇から自らの脳天すらつんざくような大きな怒鳴り声を放出し、蜘蛛のむき出しになっている左の頬にぺっと唾を吐きかけた。

 狼狽しきった様子の蜘蛛は、たらりと頬をつたってゆくその唾を拭おうともせずリュックをがさがさと漁りはじめ、そこから駅向こうの蝶が行きつけのオーガニックショップで一番のお気に入りであるフレッシュオレンジオーガニックハニーティーのボトルを取り出すとドライバーでキャップに穴をあけてストローを差し込み、ゆっくりと蝶ににじりより背伸びをしたが、今度は無理に中までは押し込まず、唇すれすれのところまでおずおずと差し出しだ。


 何なのこいつ、怒られておろおろしていきなり飲み物の用意とか、ちっとも行動が読めないじゃない。

 蝶は思わずぷっと吹き出し、蜘蛛の指の振動が伝わりぷるぷると震えるストローの端を加え、チューチューと飲んだ。

 叫び疲れてカラカラになった喉に、蜂蜜のほのかな甘味と潤いが染み渡る。


 蝶が本当に飲んでくれるとは思いもよらなかったのか、蜘蛛はほんのりと口角を上げ、またがさごそとリュックを漁ると、今度はオーガニック照り焼き豆腐バーガーを取り出して、もつれそうな早足で蝶の前に戻ると、また唇すれすれに差し出した。


 鼻をくすぐる照り焼きソースの甘い匂いに若干の空腹感を誘われた蝶は、思わず舌先でそれを迎い受けそうになってしまったが、舌が伸びるよりも先に唇から言葉がポーンっと飛びだしていった。


「調子に乗るんじゃないわよ、そんなもの絶対に食べないわよ、アンタのお情けになんかすがらないんだから! 絶対に屈してなんかやるもんですかっ!」


 威勢のいい言葉を吐きながら、でもさっき飲み物は受け入れたばかりなのにという自分への疑問がふと脳裏をよぎってしまったが、水分を取らねば生命の維持に関わるという生き物としての本能がそれをすっかり打ち消してしまった。


 蝶の怒声に呆気にとられた蜘蛛も、その点について何も触れることはなく、焚火に薪をくべ足すと、また背中を丸めてひっそりと屋敷から立ち去った。

 その丸まった背中を見ていると、蝶の中には何故か言い知れぬおかしさが湧いてきて、笑いを押し殺しながら、首を少し上げて、天窓の向こうで上半身だけ覗かせる三日月を見つめた。


 翌日からも、蜘蛛は蝶のための荷物を入れたリュックを背負い、日に数度やって来た。

 好物を用意し拒否されるのは毎度のことだが、一つ変わったのは、まず差し出すのがただの飲み物ではなく栄養剤入りのゼリー飲料のパウチになったことだ。

 蝶は特に好物でもないそれを、文句も言わず飲み続けた。

 しかし、どんなに美味しそうであっても、きゅるきゅると腹が鳴ってしまうようになっても、そんな音まるでしなかったようなそぶりで、気品高く顔を背け、決して固形物を口にしようとはしなかった。

 蜘蛛はそんな蝶を見て、密かに自分に誓いを立てた。

 蝶が食事を口にするまで、自分も何一つ食べてはいけないと。


 水しか口にしない蜘蛛は日に日に頬かこけてゆき、元々青白かった顔からどんどん血の気が失せてゆくのに蝶は確かに気づいてはいたのだが、それでも食事をとる気には到底なれなかった。

 毎日、毎日、いそいそと世話を焼かれて、ここから出ることもできず、柱にがんじがらめに捕らわれたまま。

 庭に首輪でつながれたペットですら、自分で食事をし、ときには散歩で外出もする。

 これでは、飼い主とペット以下の関係ではないか。

 捕らわれていることの恐怖よりも、蜘蛛と平等な関係にいないという奇妙な怒りが、蝶の胸の隅に巣くうようになっていたのだ。


 そんな蝶の気持ちを知ってか知らずか、蜘蛛はやはり蝶の元へとパンパンのリュックを背負ってやって来て、蝶が眠っている時などには、月明りに照らされたその姿を息を止めてじっと見つめてから、蝶の世話をし始めた。


 蜘蛛にとっては、至福の時間だったのだ。


 そして、蝶がいつまでたっても鳴らないスマホをちらりとも見なくなり、その存在すら忘れてしまいそうになったころ、森にはこの冬初めての雪が降った。

 しんしんと降り続き、天窓の四角い空間が月も星も隠しその白さで覆いつくしてしまったその日も、蜘蛛はやはり蝶の元へとやって来た。


 いつもならぐっすりと眠ってしまっている時間であったが、背筋に寒気を感じふと目を覚ました蝶は、ほんの少しだけ開いたまぶたの隙間から蜘蛛の来訪を見ることになった。

 頭に粉雪を振りまいたような状態で、凍えているだろう自らの体を拭くよりも前に蝶の様子を確かめ、息遣いを確認してから、濡れた指先から垂れる冷たいしずくで蝶の眠りを邪魔したくないのか、指先だけを焚火で温めて乾かし、いつもの場所、蝶の背後から引き摺って来た脚立に乗り、その体を清潔にしようと濡れないように何重にもビニールをかぶせてきたリュックから、タオルや除菌シートを準備する蜘蛛、薄目越しに目に入る甲斐甲斐しく世話を焼くそれは、自分がすっかり眠っていると思っている時ですら、決してその肌に触れようとはしない。

 しかし、そんな蜘蛛にむき出しの心に直接ふれられているような気がして、蝶は無性に気恥ずかしくなり、またそっと目を閉じた。

 柱すれすれに置かれたアンティークなのか妙に凝ったデザインの脚立のとがったナイフのような角に、ロープをこっそりこすりつけて自由を得、蜘蛛を蹴飛ばして逃げることなど思いつきもしなかった。

 蝶は蜘蛛に体を拭かれながら、いつのまにかあたたかな眠りについていた。


 蝶が目を覚ました時、珍しくそこに蜘蛛の姿はなかったが、自分が遅くなってしまった時の予備の気持ちでやったのだろうか、蝶の顔の横にはロープの上に貼り付けられたゼリー飲料のパウチから伸びたストローが、少し顔を動かせば口にできる位置に配置されていた。


「何なのアイツったら、気が利くんだか利かないんだか、こんなに寒い日なんだから、あったかい甘酒でも用意しなさいよねー」


 蝶はしばしケタケタと笑ってから、「あぁ、そろそろ食事もとってやろうかしら? アイツったら私が食事を拒むたびに、この世の終わりみたいな顔をするのよね」と、笑い交じりに独り言ちて天を仰いだ。


 もう雪はすっかりと姿を消し、天窓いっぱいに大きな満月が機嫌よさそうに輝いていた。


 その日の夜更け、父親に用事を言いつかって隣町まで出かけていた蜘蛛は、そこで買える蝶の好物をたっぷりと買い込んだ後急いで自宅に帰り、父親が寝室で眠りについた後、自宅に常備されている書斎の暖炉用の薪をこっそりいつものリュックに詰め込むと、重い荷物を背負ってよたよたといつもの道を蝶の元へと急いだ。


 そして、ずっと食事をとっていないうえに急ぎ過ぎたせいか急に眩暈がして、一瞬だけ腰を下ろそうとしたその時、アイスバーン状になった雪道で足を滑らし、深い雪の中に隠されていた鋭い岩に頭をぶつけてしまった。

 蜘蛛はそのことに気づかず、ずきずきと痛む後頭部は貧血のせいだと思いこもうとし、蝶のための大事な荷物をぎゅっと抱えてふらふらとした足取りで一歩また一歩とゆっくりと足を引き摺り、一度も振り返らずに、自らの乱れた足跡にポトリポトリと垂れた赤が溜まっていくのも見ないまま、最後には這うようにして、やっといつものあの場所へと辿り着いた。


 天窓から差し込む朝焼けの薄明りに照らされた蝶、そのまどろみの顔は、十字の柱に磔にされていながらも穏やかで、うっすらと微笑みをたたえていて、その姿はまるで光り輝く清廉な聖女のようで、蜘蛛はその微笑みを見上げてうっとりと満面の笑みを浮かべながらその足元に崩れ落ちた。

 右の前髪がはだけても、もう直すこともできないくらいの余力の中、蜘蛛は自分の後頭部から次々に流れ落ちてくるどろりとした赤が蝶を濡らさぬように自らの上着の袖で必死で拭った後「あぁ、とてもきれい」ぽつりとつぶやいて目を閉じ、それからもうぴくりとも動かなくなった。


 その瞬間、蜘蛛は、初めて蝶の前で口を開いたのだ。


 ソファーに横たわる蝶を見つけたあの日、屋敷の裏の物置小屋に脚立を取りに行った蜘蛛は、小屋の隅で破れた蜘蛛の巣を見つけた。

 そこには、かつて美しかったであろうボロボロになった紫の蝶々が捕らわれており、モルタルの床のひび割れには、干乾びたまだら蜘蛛が挟まっていた。

 まだら蜘蛛がなぜその命尽きるまで紫の蝶々を食べようとしなかったのか、蜘蛛にはその気持ちがわかるような気がした。

 きっと、まだら蜘蛛は、紫の蝶々に恋をしてしまったのだ。

 決して叶うはずのない恋を。

 まるで自分と、あの蝶のようだと深いため息をついた後、蜘蛛の巣から引き離そうとすると、紫の蝶々は脆いその糸と共に、ばらばらに崩れ去ってしまった。


 蜘蛛は、紫の蝶々とまだら蜘蛛の残骸を、少し離れた場所に埋めた。

 紫の蝶々は木々の切れ間のあたたかな小山に、まだら蜘蛛はそれを見上げていられる平たんな場所に。

 一緒に埋めてしまうより、それが一番いいと思えたからだ。

 同じ場所には眠れない、眠ってはいけない、それが決して相いれない両者の関係なのだと。

 蜘蛛にとっては、それが唯一の正解で、まだら蜘蛛も幸せであろうと思えたのだ。


 身の丈に合わない恋をしてしまったまだら蜘蛛には、捕らえた紫の蝶々を自ら自由にする術はなかったのだろう。

 しかし、人間の蜘蛛にはそれができたはずだ。

 けれど、蝶が再び自由に羽ばたく優美な姿を夢想しながら、蜘蛛は甘美な非日常に溺れてしまった。

 抜け出すことのできない甘い泥沼に。


 私は蝶に恋焦がれた。

 だから、決して触れることはできなかった。

 私は蝶に魅了された。

 蜜を求めて花から花へ軽やかに自由に飛び移る艶やかなその姿に。

 私は蝶を愛してしまった。

 だから、羽ばたく意思を再び得た力強い意志を瞳にたたえた蝶に、その自由をあげられなかった。

 身の丈に合わぬ恋によってこの身を焼き尽くされようとも、ずっと見つめていたかった。

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