第11話 色即是空 空即是色 不空不色
11.色即是空 空即是色 不空不色
「ねえ望、私に嘘を吐かないて本当?」
切り出しは思い切った
「僕が菫さんに嘘を吐かないならば菫さんは僕より頭が良い
菫さんが僕より頭が良いならば僕は菫さんに嘘を吐かない
菫さんが僕より頭が悪いならば僕は菫さんに嘘を吐く
これは全て真だ
論理式ならばこれで信じてくれるかな」
「懐かしいね、高校の数学でやったね」
「これ、般若心経で鳩摩羅什と玄奘三蔵が省略したやつね」
「そうなんだ」
「原文が世界で唯一法隆寺にあって、確認したら書いてあったとのこと」
「色即是空 空即是色の件でしょう」
「仏教の大学者も数学の知識は弱かったようだね」
「何でもできたら、魔物よ」
望は笑って
「それ、神教の”神”だろう。魔物なんて言ったら信者に怒られるぞ」
私は笑った
「伝言ゲームと同じ、原文を翻訳すれば翻訳するほど原文から離れて行く。だって人間が翻訳しているのだもの。神様を魔物にしたのは人間すなわち観察者」
「不確定性原理よろしく、観測者は実体を観ることができない。観測者の”ゆらぎ(独:Schwankung)だね。さっき有美さんが言っていた話と似ている。菫さんはもう知識の中に取り込んでいるんだね」
「自動車の乗車で
お巡りさんに捕まっちゃうからシートベルトをしよう
危険だからシートベルトをしよう
望も私も後者と考えると思うけど違う?」
その言葉は望を笑顔にさせた
「いいよ、菫さんには絶対嘘を吐かないよ。小夜さんに求めていたものは有美さんも菫さんも持ち合わせていたってことか・・・」
私は緩む気持ちを抑えながら
「嘘を吐いたら?」
「王水でも飲もうかな。菫さんの前でもがき苦しむ自分に興奮するよ」
「もしかして望って、マゾ?」
「そうだよ、相手が頭がいい女性程興奮する」
「…」
「嘘を吐かないって結構息苦しいよ。でも、菫さんが望むなら、そうするよ」
「息苦しい?」
「じゃあ実験で、居酒屋に着くまでは一切正直に答えるよ」
「何でも?」
「設定が狂ったら実験にならないじゃないか」
10分もしないで居酒屋には到着する。貴重な時間を無駄にする訳にはいかない。
「紫さんってどんな人」
満を持して聞いた。望は涼しい顔だ。有美には話さなかった紫の話を聞かせて欲しい
「今は無理だけど、いつかああいう女性と付き合いたいと思った人かな。僕が達成すべき男像は菫さんみたいな人と付き合えるってことかな」
「今でも好きなの?」
「さっきと同じ質問だね
菫さんや有美さんに対する好きと同じと言ったらイメージが湧くかな」
「えっ」
望の言葉に興奮してしまった
「私のこと好きだなんて簡単に言うのね」
「頭が良い女性に嘘を吐いても直ぐにバレるからね」
「嘘ってこと」
「自分が頭がいいって認めた
菫さんが好きだよ」
これはパラドクスだ。
「望は頭が良い人が好きなんだ」
「そうだよ、頭の良い人の話は楽しい。今菫さんとの会話はとても楽しいよ」
紫と小夜のどちらの話をすべきか迷った
「そういえば、紫さん未来から来たみたいな事言ってたけど、有美さん全然驚いていなかった」
望は、この話を全て話すのは私が始めてだと言った。
有美がこの話を知っているのは望が渉にこの話の一片を語ったからだという。当初渉は只の冗談話と聞いていたが、この話を有美にした途端、有美は望に興味を持ちだしたという。愛美の一件の1ヶ月位前だという。
紫と一昨年のセンター試験の帰り、すなわち黒羽量子(すんすん)に駆け落ちを告げた日の帰りの電車で、駅を下りた時から翌日の朝までの記憶が1年と4ヶ月の間失われていて、今年の5月の連休の前日に突然その記憶が蘇ったという。
電車を降りた望は迎えに来た紫の母に誘われて、夕食をご馳走になりそこで、紫と紫の母が未来から来たことを聞いた。その未来は来年の秋分の日で、何の前触れもなく翌朝は紫が中学2年生になる4月になっていたという。中学生の時に望と会話していたのは大学生の紫だった。紫は時間を戻して中学生の姿だった。
時間を戻したのは正しい表現とは言い難い。大学生だった紫、便宜上”サイショノユカリ”と称するが、サイショノユカリは望には会っていないうえに、望と違う中学校に通っていた。高校も女子校に通ったため、未来のその日、すなわちサイショノユカリがサイショノユカリであった来年の秋分の日まで望に会ったことはなかったという。
紫は望んだ訳でなく、突然過去に戻ったという。しかも、前の時間では望には会っていない上に別の中学だった。
望の通う中学は独立して開業医になったサイショノユカリの父が病院の候補地で断念して後悔した場所の学区だったという。望が会った紫は病院の候補地を断念せず、望と同じ学区に引っ越してきたという設定で時間が流れているという。
望には紫への憧れはあったが、所詮は中学生が大学生に憧れる恋愛だった。中学生の望はかなり未熟だったという。土曜日の午後はいつも一緒に過ごしたが、恋人達がするような儀式は一切起こらなかった。
望の言葉に嘘がないと信じているが、儀式の有無に係わらず嫉妬している。これは4年も前の幼い望の思いなのである、消せない過去が胸を締め付ける。いつから私はこんなに望のことが好きになったのだろう。
私が紫と会った5月、紫が素粒子を大学で学びたいと言っていたことを思いだして、気持ちが抑えられなくなった
「望は紫さんが叶えられなかった夢を叶えるために、この大学に来たの?」
望は驚いた顔をしたが、直ぐに笑顔に戻った
「菫さんはやはり僕なんだね、本来はヒルベルト空間でベクトルとして存在している筈なんだが、事実はこんな鮮明で美しいものか。僕は菫さんと出会った5月から覚悟を決めてもう思い残すことはない。どうかこのユークリッド空間では菫さんで残って欲しい」
「ごめん。望が言っていることが理解できない」
望は両掌を胸の前で広げ、交互に首を振って確認している
「観測者は菫さんでも僕でもないのか、やはり紫さんか・・・」
「望が何を言っているか分からない。ちゃんと説明して」
「本当は菫さんは紫さんのこと知っているんでしょう。紫さんウチの大学の有美さんと同じ学部に行きたかった話はしていないし、僕の手帳にも記載が無かった筈だ」
望の前で下手に工作をしても無意味だと思った
「5月の連休に帰郷したとき、偶然久保紫さんに会って話をしたの」
望の顔に緊張が走っているように見えた
「菫さんってもしかして群馬の人?」
「うん、家は前橋にある。前橋と言っても赤城山に近い方だけど」
望の顔から緊張が抜けていくのが分かった
「そっか、紫さんの学校、前橋だったな。鶴を象る群馬県。かかあ天下と空っ風」
私は笑って、望の脇腹を抓った
「望も群馬の人?」
「僕は足利、お袋が桐生の人。菫さんの尻に敷かれる人生はご機嫌だな」
望の脇腹をもう一度抓った
「菫さんは旦那の言いなりって感じじゃないだろう。船頭多くして船山登るってことわざ知らない訳じゃないよね。
僕は自転車のロードレースを好んで観るのでエースとアシストの設定がしっかりしている。彼らがそうであるようにアシストの仕事を熟すことに誇りを感じるんだ。
結局、発動機を持っていなくて帆を広げ風に乗って走っている人に魅力を感じないんだ」
有美の顔が過った。小夜の顔は思い浮かばなかった。話を戻さなければならない
「年配の人が困っていて、声を掛けたら同じタイミングで紫さんも声を駆けたんだ。意気投合して1時間位話し込んだ。紫さんウチの大学で素粒子をやりたいと言っていた。
・・・紫さんきれいな人ね」
「菫さんの方がかわいいと思うけど。そんなことより、紫さんと会話したのは5月2日の午後じゃない?」
「確かあの日は語義の授業が休講で15:00より前だったような・・・。この日時に何か関係があるの}
「紫さんの記憶が戻ったのが、ちょうどその頃」
「えっ!」
連休明け学校に来ると見たことのないかわいい人がいた。奈緒にその人の名を聞くと佐々木菫さんという名前だった。奈緒の記憶には4月の菫さんの記憶があった」
「私に気付かなかっただけじゃないの」
「菫さんが不細工で、喋り方に特徴がないならば気付かなかっただろう」
望はなんの淀みもなく語った。私は対応に困って言葉が出なかった
「菫さんにも僕の4月の記憶が無いんじゃないか」
「私は望のこと、気付かなかっただけだと思う」
恐怖のあまり、そんな言葉しか出ない。
「一緒なんだよ、僕の記憶が戻ったのと菫さんが現れたのが」
私も4月の望の記憶が無い。これは望の外見の印象に特徴が無かったからだ。当時人間不信だった私が、男達がする品定めを私自身がするようなことはなかった。女子高から中学のような共学、むしろ男が森の木のように圧倒的に多い環境の変化に馴染めず望に気付かなかっただけであると信じたい。
「実はさっき、菫さんに触れたとき僕は消滅するかもしれないと思っていた」
意味が分からない。
「元の世界に戻るってこと」
「授業でやった電子雲(Orbital)のことは憶えている?」
「SP混成軌道ね…あっ。そういうこと」
電子は観察する前は実体がない。大学の化学ではいきなり量子論を語られる。望が言いたいのは観察される前の状態、すなわち実体の無い状態で私と望があるということだ、つまりシュレーディンガー方程式のΨの状態だ。言い換えれば私と望はシュレーディンガーの猫の状態ともいえる。望の手帳を読み解くと、それで間違いないと思う。
「高校生までで理科の勉強を止めてしまうと、古事記のような作り話を真実だと信じて一生を終える話だ」
「そうね、電子が原子核の周りを惑星のように回っているならば、ニュートンかアインシュタインの理論を破らなきゃいけないね」
望は笑った
「小夜さんとこういう話が出来ると思っていたけど、有美さんと知り合って小夜さんを選ぶ理由が一つ失われてしまった」
嘘を言わない望に私は聞いた
「それだけじゃないよね」
望は笑顔のまま
「有美さんと会話をするようになって、正直、小夜さんがどうでも良くなった。有美さんとは恋愛感情は抱かなかったけれど、会話はいつも楽しかった。
不思議なものだ、小夜さんがどうでも良くなってから小夜さんが自分を意識していることに気付いた。そして愛美さんとの1件が起きて、渉師匠と奈緒さんの話。
色々な事をこじらせてしまった。だから僕は有美さんの親友のみくりさんと付き合いたいと思った。心の中にはももちんに申し訳ない気持ちがあって、ももちんがみくりさんを連れてきたんじゃないかという運命を感じていた。
でも今はまた考えが違う」
正直な望の言葉に応えた
「有美さんと今の関係を続けるためにみくりさんと付き合うの?」
望は穏やかな表情のまま
「僕は中学の時の国語の先生が嫌いで、今でも恨んでいる。僕は大学を卒業して教師などという職業を選ばなかった自分を褒めてやりたいと思っている。それが僕の復讐だ。でもあの先生に恨みがあっても、文学や文学に携わる人を侮辱するのは違うと思う。
有美さんのように保守思想に偏った人の友人を通してならばきっと僕の文学に対する偏見も浄化してくれるのではないかと期待していた。
でも、今日考えが変わった」
「どう変わったの?」
「明日、有美さんの家に招かれている。でも僕1人で訪れる気は無い」
<つづく>
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