第10話 観測者のゆらぎ

 10.観測者のゆらぎ


「渉さん、私なんかと会話してくれるかな」

 望はそっけなく

「渡る(渉)世間に鬼はない

 下心がなければ大丈夫だと思うけど」

 望は言った後に考え込んでしまった。


 有美は露骨に私の胸を見て

「大丈夫」

 といった

「有美さんどこを見て言っているのですか」

 自分で分かっていても、人に言われるのは嫌だ

「お尻かな」

 有美は笑って続けた

「誰かさんが髪の毛の短い人を諦めてくれれば楽なんだけどね。何に意地をはっているのやら?」

 望に会話をさせてはいけない

「渉さん今日はいないみたいだけど」

 有美が事務的に

「ご親類が亡くなったんだ、で、今は故郷に帰っている。連休の最後に帰ってくる」

「お悔やみ申し上げます」

「万障繰り合わせて参列するほど近い親戚じゃなかったんだが、去年の夏以来、生まれ故郷に帰っていないので無理矢理招集されたらしい」

「そうなんですね」


 有美には聞けないと思った

「望、渉さんはどうして人との会話を避けるの」

 数学の問題を解いているような顔をした望が答える

「菫さんの喋り方と同じだよ」

 有美はこちらを見ない

「違うかい?」

 望に気持ちを告白するのは今しかないと思った。でも迷いがあって声が出ない。私の言葉は東京の空に熔けていった。赤城山や榛名山が無いのが寂しい

「渉師匠、ファンの女の子に硫酸を掛けられたんだ。渉師匠には掛からなかったみたいだけど」


 有美が口を添える

「金閣寺を焼かねばならぬ」

 望は笑って

「ひと仕事を終えて一服している人が、”よく”よくそう思うように、犯罪者は生きようと思った」

 有美は深く息を吐いた

「みくりの為にそこまで準備しているとはね。

 国立大学に行くのが嫌でわざと、国語の模試で信じられない酷い点取った謀略家は、女のために準備を欠かさない。すけこましが!

 でもみくりは止めておけ」

「だから、付き合いたいと言っている訳じゃなくて、話がしたいだけなんですよ」

「話だけのつもりじゃないだろう」

「当然、恋愛に発展することだってあるでしょうし、みくりさんが隙を見せれば当然つけ込みます」

 私は有美の口から”菫にしておけ”という言葉が出ることを期待していた。しかし、その言葉は出なかった。

「まっ、どのみちお前はあのショートカット次第なんだろう。望の性格だとショートカットがおっぱい女を裏切ればショートカットと付き合うんだろう」

「有美さんはいつも的確ですね、小夜さんにその技量はありますかね」

「さあな、ところで菫、ボルツマン分布に従わないとしたら何が起こっていると思う?」


 有美と望が私を見ている。有美は小夜にない技量を私が持ち合わせているのか確認していることは分かった。でもこの回答を私は用意できない。何の準備もなく、回答できるほど私は優秀ではない


「ごめんなさい。私には分かりません」

 すぐさま、望が私を気遣う言葉を入れる

「菫さんは化学屋です、いきなりそんなこと言って答えられる訳、ないじゃないですか」


 有美は薄笑いを浮かべて

「菫が望と同じ事考えていたら、望は、ここで菫に告白していただろう」

 望は私を一目した後、恥ずかしそうに

「みくりさんも小夜さんも断ち切って、菫さんに告白していたでしょうね。

 あの日、すんすんにしたように。

 そして、菫さんに”アンタバカじゃない”って罵られて拒絶されたと思いますが」

 

どう答えていいか分からなかった。

 しばし無言で歩いたあと、

「飲み会の話、後でちゃんと聞かせてね」

 そう言うと眼鏡を取り出して無造作にかけ、有美は駅の方に歩いていった

 望が有美の背中に”ごちそうさまです”と告げると、振り向かず右手を挙げて左右に振った。

「ありがとうございます」

 遅ればせながら有美にお礼を告げた。


 人波に消えていく有美を見送ると、にやついた望が「腕組んでいい」とからかってきた

「駄目に決まっているでしょう。2人でいるだけでヤバいのに!」

 反射的に答えたが、適切だったかどうかはよく分からない。それより先ほどの質問の回答が知りたい

「ところで、さっきの答えはなに?」

 望が笑顔で安堵した

「フランス料理を奢るとき、ワインは自腹で飲んでくれたら答える」

「いいわ、2,000円位なら安い話よ」

「ボルツマン分布に従わない理由は

 ”観察者のゆらぎ”

 が有美さんの期待した答えかな

 例のマクスウエルの魔物にも関連している

 解説が必要でしょうか?」

「止めとく」

 そんな回答が出来る女性など日本には10人もいないはずだ。偽装工作には必要かも知れないが、貴重な2人の時間を小夜が得意な分野で消費する訳にはいかない

 

「ねえ、望。有美さんと渉さんって上手くいっているの?」

「菫さんは想像以上に凄い人だね」

 話を変えるための言葉で、そんな深い意味で聞いたつもりはないのが本音だ。望に変に伝わると困る

「べ、別に有美さんから奪おうなんて企んでいないから」

 …私が奪いたいのは望

「渉師匠、夏合宿で同じお土産2つ買っていた」

 なんで私にそこまで話すのだろう

「チャンスじゃない。有美さんと付き合う」

 からかう言葉しか思いつかなかった

「師匠の彼女を奪うなんて人としてどうかと思う。菫さんはそういうの平気な人?」

「望は結構折り目が正しいのね、和泉式部が好きだと言っていたから結構強引かと思ったのだけど」

「和泉式部は若い頃じゃなくて、40歳くらいの彼女を指している。内裏の梅のひとえだを盗ませる気持ちにさせる動機が彼女にはある。

 小夜さんや菫さんには未来の映像があるけど・・・

 有美さんの未来の映像が思い浮かばない」


「な、何を勝手に未来を想像しているのよ」

 望は動じる様子もなく、淡々と答えた。

「菫さんの映像はとても美しい。でもきっと小夜さんの映像になる気がする。みくりさんは顔見たことがないので映像は無理かな」


 私は自分を鼓舞している。今、私を選んで欲しいと言わないとだめだ。まだ躊躇があった

「奈緒らしいんだ、お土産渡した相手」

 情報が処理しきれない、また、大切なことを言うべき機会を失ってしまった。

 そういえば、先ほど盗み聞きしたとき、奈緒は法事で渉がいないことを知っていた

「てっきり、奈緒は望のことが好きかと思っていた」

「そう見えていたんだ。僕は奈緒さんは愛美さんと同じ考えだと思っていたけど、奈緒さんの方が手が込んでいるな、しかも小夜さんまで巻き込んで・・・

 大分こじらせてしまった・・・」


「まさか・・・」

 望は、奈緒と小夜が恋愛関係にあることを気付いていないはずだ。

 それに、私も動揺して聞き流していた、望と有美が手を繋いだときの奈緒の独り言を

「大体、僕なんて相手から好かれる程の男じゃない。僕が好きになって相手に渋々ご同意頂く恋愛の形式だよ。

 多分奈緒さんは、第一段階として、小夜さんか奈緒さん自身が今日の菫さんと僕たちの関係になることを望んでいたと思う」

 奈緒の達成すべき姿は自分が渉と付き合うこと。そして奈緒は何らかの形で既に、渉と交流を持てたのだ。あとは有美から切り離して自分だけの渉にすることだ。


 つまり、望と有美が付き合えば奈緒は一番簡単に渉と付き合えるという算段だ。となると、奈緒は私や小夜がくっつくことを全力で阻止してくるはずだ。


 面白くなってきた。望とずっと友達の関係を続けたいといった有美の言葉を鵜呑みにするのは危険だが、望が有美に対して恋愛感情が極めて低いことは信憑性が高い。そして有美は私に分かるように望に避妊具を渡している。望と付き合う気があるのならそんなことをするはずがない。有美のためにも私は望を落とさなければならない使命を感じた。

 先ほどトイレで泣いていた小夜が過ったが、私には同情する余裕はなくなっている。

 小夜の言う通り、私はもう望の毒に蝕まれている。


「さっき、有美さんに望と私が付き合っている設定で渉さんに接して欲しいと言われたんだ」

 今日の飲み会を凌げば、明日は有美と望と私で話ができる。明日は笑顔で有美に会わなければならないのだ。もう、私だけの出来事でなくなっている


「有美さんの出した結論はそれか」

 驚かない望に若干の恐怖を感じた

「有美さんとはまた話したい」

 望は10秒ほど何も喋らなかった

「観測者のゆらぎ・・・花粉や煙の振る舞い・・・シュレーディンガー方程式のΨ

 小夜さんに、シュレーディンガーの密室(猫)を波動と粒子のゆらぎと表現できるだろうか?きっと有美さんと菫さんならば・・・」

 小声で呟く望の声を超・聴覚能力は捕らえている。この波動を捕らえて、粒子に変換して認識しているのだ。

 <つづく>

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