第4話 マクスウエルの魔物
4.マクスウエルの魔物
はじめは、望の作り話かと思った。
望の“有美に黙っていて”という言葉がなければ信じなかった。いや、マクスウエルの魔物を布石に打てる男だ、真実を隠すためならば、このくらいの準備位は簡単だろう。望はもしかしたらとんでもない魔物かも知れない。明智小五郎と怪人二十面相、名探偵ビオラの相手としては不足がない、全力で勝負する。
【病気だったんだ】
望はニヤついた顔でペンを走らせる。
【菫さんに誘惑されても
♪キスから先に進めない〜♪】
これは、覚えがある。数年前、一世を風靡したおニャン子クラブの歌だ
B6のページの見開きいっぱいに太字で
【死ね】
と書いて返した。頁の下に望は書き足した。
【菫さんの愛情表現は刺激的だ】
私はため息をついた、こいつはイカれている。まともにやり合ったら疲労が激しいだけなので、からかい半分で対応しなければ寝込んでしまいそうだ。手強い魔物だ。
【私の髪の匂いもダメ?】
【先に用事を済ませちゃおうよ】
望が手帳を返すとこちらを笑顔で覗いていたので、精一杯の微笑みを返してやった。なぜか凄く悔しい。望は黒板の文字を急ぎ足で写していた。一般教養の授業なので望からいつもの熱量は感じない。なんで私はいつもの望の授業態度を知っているのだろう?
私は手短に経緯と何をしてほしいかを書いた。手帳を渡すと自分の頭に手を当て私を見た、そのまま視線が背中を降っていったので、脇に拳を食らわせてやった。望は教授が黒板に書く間合いをみて口に手を当てて笑うフリをした。間違いなく私は弄ばれている。いやらしい魔物め、幾つの顔を持っていやがる。身が持たない。敬語の望に戻ってもらうことをお願いした方がいいかもしれない。
黒羽量子
あだ名:すんすん
別の高校に行った中学の友達(女性、菫さん位の美人)の友達
背丈や感じは菫さんと似ているが、すんすんの方がぽっちゃり
髪の毛はミディアム(当時、その日以来会ったことはない。ただし再会は切望している)
顔は菫さんの方が断然かわいいです(社交辞令抜き)
理系、得意教科は化学 薬学部志望 (今はどうなっているか知らない)
容姿に惹きつける箇所アリ
彼氏アリ
センター試験の帰りの電車で偶然会った中学の友達と話し込んでいたら、別の友達と一緒に会話に参加してきた
話しているうちに、彼女のはっきりした口調と行動力、そして考え方が似ているので惚れた。彼氏の愚痴を聞いて彼女の悲しみから開放してやりたいと思った
みんなの前で、駆け落ちしないか?とまで僕に言わしめた女性
読んで悪寒が走った。活字で残してはいけない文字が随所にある。折り目の正しい男だと思ったが、そうではないようだ。こういう内容を私なんかに平然と書いてしまうのはどうかと思う。そして、”彼氏の愚痴位言うだろう”と思ったとき、誰かに睨まれるような視線を感じた。睨んでいるのは中学生の私だ。
【これ、事実?脚色してるでしょう】
【僕は自分より頭のいい女性には嘘を吐かない主義】
【じゃあ、嘘か】
【ご謙遜も過ぎると嫌味ですよ
裏口合わせる女性は彼女にしましょう。背丈はすんすんに似ているし、■■■】
私の中で違和感がある、望は駆け落ちなんて言葉を簡単に女性にするのだろうか?そんなことより、塗りつぶしている文字は何を書いたのだろう?頁をめくって裏から見たが分からない。望は黒板を見ていて私の仕草には気付いていないようだ。
【ありがとう。試験中の帰りの電車で望に口説かれたことにしましょう】
【愛美さんの一件の後ですから、それでいいでしょう】
断られるつもりだったが、納得のいく根拠をつけて肯定してきた。渉や有美と会話できるのはこういう能力をもっているからかもしれない。この魔物の心に土足で踏み込んでみたいという好奇心に駆られた。望ならば私がそうしても気に留めないような気がした。なぜなら彼はDemonを”魔物”と訳せる男なのだから。
ジェームス・クラーク・マクスウエル博士はUKスコットランドの出身だ。当然歴史あるクリケットを知らないわけはない。クリケットで剛速球を投げる人をDemon bowler、あるいはDemon for workというので、”人間離れした凄い能力の持ち主”とする方が博士の意図に近いはずである。”悪魔”と訳すと日本語では”鬼”に近い印象なので、”悪魔”と訳す人は理解できている可能性が低いように感じてしまう。あくまで分布の話だ。
【ミディアム(ショートカットでない)の女の子に声をかけたんだ】
嫌味で言ったのに、望は笑っている
【ボブより長い髪の女性に自分から声かけたのは”すんすん”だけだな】
似顔絵だろうか?細い猫目のミディアム女性が投げキッスしている挿絵が書かれていた。完全にからかわれている。
【まだ量子さんが好きなの?】
【そんな小夜さんに失礼なことしません。少なくとも愛美さんとの一件のあったあの日までは】
名探偵ビオラは、望の恋愛は数学と同じように考えているのかもしれないと推理した。望の恋愛に文学のような曖昧さが全く感じない。どんな小説やドラマにも登場しない感性を持ち合わせているようだ。もしかしたら、私の容姿もあるがままに観察して、お世辞なしに客観的な感想を述べているのかもしれない。コンピュータと会話しているみたいで気色が悪い。この魔物に人間の心を戻してやりたいという使命感が湧いた。
【私の匂い、一緒にいると辛い?】
さっき中断した話を蒸し返した。
【有美さんと菫さんの使っている香料はそれほど気にならないけど、奈緒さんの香料はキツイわ~】
謀らずとも望が奈緒と話しているときの違和感の謎が解けた。
【なんで、有美さんに内緒なの?】
【有美さん、ああ見えても、気を遣う人だから】
有美は、私たちには決して見せないことを望には見せていることに驚いた。はぐらかされると思ったが、折角だから聞いてみようと思った
【例えば、奈緒さんが望のこと好きと言ったらどうする?】
望は躊躇うかと思ったが即答だった。
【奈緒さんは勘弁かな】
では、私では?と危うく書くところであった。
【どうして?】
【奈緒さんの髪の毛の匂いは苦手、誘惑されてもキスすらできない】
多少は誤魔化す気はあるようなので安心した。
【シュートカットにしてもらったら】
【それに、奈緒さん教職(教師になるための単位)を取るって言っていたから。そういう人とは合わないと思う。僕はサービス業の適性がない。サービス業を選ばないで済むように勉強をがんばってきたから】
文字に残して大丈夫か?と思うと同時に、この会話、どこかでした覚えがある。そうだ、今朝の夢にでてきた紫と5月にした話だ。刹那、私を見る望を連れ去った紫と重なった。感情が昂ぶったのか、書いてはいけないことを書いた。
【奈緒さん望のこと好きなんじゃない?】
望は、何ら動揺することなく、涼しい顔でペンを走らせる。
【僕が、奈緒さんに好かれる要素が分からない。あんなに色々な男が言い寄ってくるのにわざわざ僕を選ぶことはないだろう】
ここは、返答に気を付けなければ行けないところだ。
【女王様は望だけが振り向かないで、小夜さんが好きだから振り向かせたいんじゃない?】
【好きと言った途端、捨てられちゃうやつだ。
奈緒さんみたいに、みんなに好かれている人と付き合うのは嫌だ。
僕は高校の時、付き合っていた人を別の人に略奪されてね。それ以来なるべく人が声をかけそうにない人に目が行くようになったんだ】
望が小夜を選ぶ理由を垣間見たと思った。確かに小夜ならば他の男が奪ってやろうと思わないだろう。理路整然としているが、”小夜だぞ”と思った。そして、望が私の考え方と似ているような気がした。あくまで望の言っていることを信じればという前提に基づいてだが。
【小夜にその気があったら付き合うの】
【当然! でも無理だろうな】
【どうして】
【菫さんや有美さん程の技量はない】
望は突然私を試す。さすがは渉や有美と会話ができる魔物だ。
【有美さんはともかく、私は買いかぶりすぎだよ】
【理科は、仮説を立てるのは自由だが、観察に主観や期待が入ると正しい結果にはたどり着かない】
【愛美に言っていたね。問題が解決できない場合は大抵定義がおかしいって】
望に手帳を渡したあと、これは書いてはいけなかったと後悔した。
【僕、無駄に声がでかいから、聞こえていたんだ】
望は私に愛美との会話を聞かれたことを気にしていないようだ。
【ごめん、聞くつもりはなかったのよ】
【あの日、恋の魔法から覚めたよ。小夜さんにその気がないなら追うのを止めようって】
さっき、小夜に望と会話をしたという嘘を話したときの小夜の顔が印象から消えていく、懺悔の念と一緒に。
【それでいいの?】
【こんど、有美さんの友達を紹介してもらおうかと思って】
さっきしていた話だ、有美はその人を止めて私と付き合えと言った、しかも避妊具まで望に渡して、私にだって選ぶ権利はある。…でも、身体を許す気はないが、友達位ならなっても損はないかと思う。…違う、望とまた話をしたい。望との会話は出会った誰も持っていない心地よさがある。私が私のままで話せる初めての人だ。
【どんな人?】
【ヒ・ミ・ツ】
ポニーテールのかわいい子が投げキッスしている挿絵が描かれている。望は結構器用らしく、絵もそこそこ上手い。
【言え!】
いらだちが、文字を雑にする。筆跡鑑定の心得がある人ならば私の認めない言葉をはっきり言うに違いない。
【デートしてくれたら教える】
目がxで、ポニーテールが角ようにひっくり返った驚いた女の子の挿絵が添えてある。 もう、この魔物に心を奪われているのかもしれない。
【望のオゴリならば受けても良いぞ!】
予想外だったのか望が動揺している。初めて望に勝てたと思った。そして、この魔物に人間の心を戻した私を自画自賛した。
【マジ〜、緊張して菫様の御顔が眩しすぎて拝見できないよぉ〜】
望の文字も文面もおかしくなっている。”まだまだだな”と心で呟いた。
【いつも有美さんと一緒にいる奴が何を言う、今日のお礼もあるからお安い御用だ、ただし財布は望な!
さっさと有美さんの友達を説明しろ】
手が震えている、体も熱い。望の脇腹を拳で小突いた。そういえば”望くん”からいつの間にか”望”と呼んでいる。
【有美さんの友達ならば右の人だろうから、右で文系の人と会話してみたかった】
【そんな理由?】
【背景もあるけど、複雑だから💘デート💘のとき話すよ】
【その情報量ではデートはなしだ】
望は有美のときのようにあっさり諦めるかとおもったが返事が来た。
【“みくり”さんって言って、20歳にもなって自分が”清少納言”だと自称している”ぶっ飛んだ人”なんだ。そんなイカレた女性ならば是非お目に掛かりたいってのが、本心かな】
望は有美のときも、デートを条件にしたが、それは断られる前提だった。しかし、私に対しては違う、望は”みくり”ではなく、私と本当にデートしたいのだろうか?ただ、そんな女性なら大抵の男ならば遠慮してしまうので、望の理想には合っているようだ。なんだろう、私には不思議な優越感が全身を支配している。
【確かにぶっ飛んでいるわね】
【さっきでてきた、中学の友達、大学じゃ”紫式部”って呼ばれているらしいから、今度は”清少納言”がいいかなって】
私は手帳を読んで吹きだしてしまった。
【なんで”紫式部”なんて呼ばれているの?】
【エロだからじゃないか?】
私の顔が緩んでいることが分かる。
【そうなの?】
【本当は頭が良すぎて、”むらさき”と書いて紫という名前だからだろう】
まさか?と思った。今朝の夢の人、望の中学の友達は”久保紫”であることを疑わなかった。そうだ、紫も私と話して楽しいと言っていた。
身体が勝手に動いた。望の耳元で、口に手を当てて内緒話をするように囁く
「えっち」
鼻に望の髪の香りが届いた。独特な香りだ。多分日本のシャンプーではないようだ
「変わった香りのシャンプーね」
ここで竜也の冷やかす声が聞こえた
「竜也が後ろにいたか、厄介だな」
望も、竜也の声を聞き取ったようだ。確かに、内緒話をしているところを見れば、ただの友達の関係でないと見られてもおかしくはない。
望は鞄から自分の手帳と、物理化学の教科書を取り出して手帳に書き出した。私は黒板の字を急いで写した。会話に付き合ってくれた望に授業のコピーを渡さなければ申し訳ない。
望が書いているのは、熱力学の第2法則のようだ。丸眼鏡のような図を書き2つの円をバルブで繋いだ。円の中には尾びれを引いた粒子が書かれている。マクスウエルの魔物だ。
竜也は奈緒のことが好きである。この授業の私と望のことは間違いなく奈緒に報告する。竜也にとっては一方的に認識している厄介な恋敵が、私と仲良くしていることを奈緒に告げない筈はない。2人の交換手帳を奈緒に見られたくはない。だから、望は奈緒に強引に手帳を見られることを想定して、偽装手帳を作っているのだろうと分かった。
数式と図の後に望が一言添えてある
【同じ分子の速度がみんな同じなんて考える奴は傲慢だね】
そう、ここで話していたのはマクスウエルの魔物の話である。その会話を綴らなければならない。
【世の中に美人とブスがあるように、人が平等であると定義するのは無理がある】
そう書き足すと、望の書いた図の上に悪魔の絵を書き足した。悪魔と言うよりは黒い猫みたいだが、2人の初めての共同作業がこの図に刻まれた。
【人間という定義もおかしい、男と女全く構造も生態も違う、これを同じ人間と分類するのはおかしい】
私はさらに加えた。
【確かに、状態関数は微分式だ、男と女を同じ人間で括るしか出来ないならば、微分など必要はない】
望は親指を立てて、私に見せると、満足そうな笑顔で書き足した。
【有美さんならば、僕より明確な答えを出せるかもしれない。今度紹介するよ】
丁度授業が終わった。次は語学の授業で奈緒達と一緒に受けなければならない。
「その手帳、後で返してね。奈緒が要求したらその手帳を見せても構わない。次の教室に一緒に行けないから先に行くね」
望は私の返事も待たず逃げるように次の教室に向かって去って行った。望の手帳を開くと、私の頁の前は量子力学の内容が中心に書かれている。相対性理論が書かれた頁もある。
”アインシュタインはペテン師かもしれない!”
と書かれている。黒体放射や電子雲の図。電磁誘導の話もあった、そこには女性の字が添えられていた。有美の字だろう。有美も丁寧に数式と図の補足をしている。望の字でこう書かれていた。
”僕は誤解していた! アインシュタインは天才だった。しかし、潮時は一般相対性理論でその後はダメ科学者だ!”
望は小夜がしたい会話をするために独学で予習をしていたのだろう。望は好きになった女性に尽くす男だ、確信が持てた。小夜と会話する日のために、小夜がしたい話を予習して準備している。どうして小夜はここまでする望の気持ちを汲んで上げられないのだろうか?
この短い時間で望が私にしてくれたことが蘇った。そして小夜に対して少しの嫉妬も抱かなかった。なぜなら、私にはもう小夜のような躊躇はないからだ。
次の授業の教室に向かう足取りは軽かった。飲み会でまた話をするのが楽しみだ。
<つづく>
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