第5話 その胸は盛っていなかった
5.その胸は盛っていなかった
教室に行くと、早速奈緒が駆け寄ってきた。思ったよりも早かった
「どうしたのぉ〜顔が怖いよぉ〜」
奈緒は、言葉の通りだった
「前の授業で望といちゃいちゃしていたみたいじゃない」
竜也は奈緒が絡むと仕事が速い
「学食で奈緒ちゃんが望くんの話したらぁ~お願いしてたこと途中だったこと思い出したのぉ~学食に望くんがいたので続きお願いしたんだよぉ~」
「有美も一緒だったよね、それでも声掛けたの」
「うん、そうだよぉ~、何かまずかったぁ~?」
「有美は人と話さないことで有名なの知らないの?」
「そうなんだぁ~」
「菫はおめでたいね。何かキツイこと言われなかった?」
「別に〜。そういえばぁ~」
「そういえば何?」
「有美ちゃんにかわいいって言われたぁ~。私かわいいって男の子からよく言われるけど、同世代の女の子から言われたの初めてだよぉ~」
奈緒は呆れ顔になってため息をついた
「で、望にお願いってなに」
「アルヌールのレモンスカッシュが飲みたいなぁ~」
アルヌールは坂の上にある喫茶店だ。そこのレモンスカッシュは、炭酸、レモン、ガムシロップが分かれて出てくる名物飲み物である。折角学んだ有美の手口を真似てみた
「分かったわ、おごるわよ」
望の声が聞こえた
“早速来たな。まあ菫さんなら上手くこなすだろう。
あの髪を束ねた深淵に溶けるような青を含む黒のシュシュは崩壊に誘(いざな)う端麗さだな。菫さんの美しさの全てが集約している。まっ、自分の身の丈を弁えないとね、準備無しでは菫さんは無理だ。もっと早く気付くべきだった。”
「ねえ、聞いてる?」
「うん、悪魔の話だよぉ〜」
「悪魔?」
「ごちそうさまぁ~」
私は奈緒に背を向け、いつもの席に座った。望を見ると耳の隣で親指を立てていた。望も気になってこちらを盗み見していたようだ。飲み会が待ち遠しい。望の手帳に書かれている望の所見を読み返す。望が難解な近代物理に苦戦している姿が書き足した文字から伝わってくる。コイツは信じられないほど誠実な奴だ
「それが交換日記?」
手帳に夢中で奈緒が隣に座ったことに気付けなかった。慌てて閉じたがもう手遅れだ
「ちゃんとお話ししたのは、今日が2回目だよぉ~。交換日記なんかしてないよぉ~」
「見せて!」
「ダメだよ奈緒ちゃん。これ望くんの手帳だよぉ~」
「私に見られると困る内容でも書かれているのかしら?望には後で話すから見せてちょうだい」
「ダメだよぉ~。望が私を信頼して貸してくれた手帳だよぉ~」
「”望”がね」
”望”を呼び捨てにしてしまった。短い沈黙の後、奈緒が口を開いた
「望がいつも、小夜を見ていることは知っているよね」
望はこうなることも想定して話してくれたのだろうか?15分も迷ったシュシュをちゃんと読み取ってくれる望ならば、きっと分かっていたのだろう
「愛美ちゃんとの一件が引き際だって言っていたぁ~。今日の飲み会で小夜ちゃんにカタを付けるっていっていたよぉ~」
奈緒の動揺が容赦なく伝わってくる。望の書いた脚色通り進めよう
「小夜ちゃんがダメだったら、有美ちゃんの高校のお友達紹介してもらうって言ってたよぉ~」
「本当?」
「うん、文系の女の子で自分のことを”清少納言”だって自称しているぶっ飛んだ人だと言ってたよぉ~」
奈緒は黙ってしまった。望はこの情景を予想していたのだろうか?望は本当に魔物ではないかと思った。望の配慮に唯唯(ただただ)感謝した。
「ねえ、アルヌールのケーキも付けるから、今手帳見せて」
ここは折れるところだと察した
「後でちゃんと望くんに言ってよねぇ~、望くんは遠慮する私に、誰に見られても構わないって言ってくれたから~」
「早く言えよ!」
「それは人として違うよぉ~奈緒ちゃん」
また、奈緒は黙ってしまった。望の手帳を奈緒に渡すと、奈緒は躊躇せず頁を開いた
「ケーキ、いらないよケーキなんて1年半ぐらい食べていないよぉ~」
「ゴメンね、アレルギーかなにか?」
「私ねぇ~、高校の時、おデブちゃんだったんだぁ~。1年かけて痩せたんだよぉ~。女子校だったしぃ~、高校の時はずっと寂しい思いしてたのぉ~」
「がんばったね」
奈緒のその言葉に抑えられないほど激昂した。そんな簡単な言葉で表現されるのは許せない。私は人差し指で奈緒の豊満な胸を突いた
「きゃっ!」
奈緒が悲鳴を上げると、教室中の視線が奈緒に集中した
「本物だぁ~」
奈緒は死なない程度に私の首を絞めて、前後に手を揺すった
「何するのぉ~」
ドップラー効果を起こす声とともに、私は笑いながら奈緒の報復を受けた。望が慌てて席を立ち、こちらに駆け寄ろうとするのが見えた。丁度ドイツ語の教授が教室に入って来て、奈緒の報復が終わった。望もそれを見て席に戻っていった。死角になった奈緒には望は映らなかったようである。
「でかぁ~盛っていないんだぁ~」
奈緒に頭を小突かれた。ドイツ語の授業は小夜のところに戻り損ねた奈緒と並んで受けることになった
「この黒猫なに?」
小声で奈緒が聞いてきた。ノートの端を切って
【悪魔だよ】
奈緒は唸ると”本当に勉強の話か”と呟いた。奈緒は頁を遡って見返した。”あいつ、見かけによらず真面目に勉強しているのだな、授業とは違う内容みたいだけれど”
【返して】
もう一枚ちぎって返した。奈緒はつまらなそうな顔をして素直に返した。望の手帳を両手で私の貧相な胸に当てた後、折れないよう丁寧に自分の鞄に入れた。
「悪魔って物理の話か?」
黙って頷いた
「疑って悪かった、有美と何の話をしたの?」
【今じゃないとダメ?】
切れ端を奈緒が見ると
「ゴメン、飲み会のとき教えて」
奈緒は笑顔で言ってそれ以降は授業に集中した。奈緒はあの手帳を見て、望が小夜のために書いていることに気付かなかったのだろうか?刹那、望が言った化学薬品過敏症が嘘でないかと思った。
私の戦っている相手は、小夜でも奈緒でもみくりでもすんすんでも有美でもなく、久保紫なのかもしれない。もしかしたら、望は、紫の果たせなかった想いを叶えるためにこの大学に来たのではないかという仮説を立てて、自分の仮説に腹を立てた。有美が言った”人生は慈善事業じゃないぞ”という言葉が蘇る。
私は今朝の夢を思い出していた。突然、音が途絶えた。奈緒が心配そうにこちらを見て何か言っている。謝っているようだ。頬に違和感を抱く。私は泣いているのか?
「ごめん、ごめん、悪気はないんだよ」
音が戻ると奈緒が申し訳なさそうに謝罪している
「ごめん。今朝、変な夢を思い出して泣いただけだよぉ~」
私は、顔を伏せて止めどなく流れる涙が止まるのを待っていた。ドイツ語の先生は京都の言葉の人だ、上州言葉と違い過ぎて外国人のような印象さえ受ける。教授の丁寧な言葉で私の体調を気遣ってもらった。トイレに行くと言ってそのまま戻らないことにした。奈緒の隣は息苦しい。
図書室に行って”マクスウエルの魔物”を調べようと思った。奈緒が医務室に付き添うと言ったが、生理の初めはこういうこともあるといって、同行を断った。心配そうな奈緒に
「飲み会までには復旧するから」
といって席を立つと、心配そうな望と目が合った。
”Ein perfekter Tag für den Teufl.(ドイツ語:悪魔にうってつけの日)”と呟き、微笑むと、望も躊躇なく微笑みを返した。まさか、望も特殊聴力をもっているのか?いや、そんなことはあるまい。古典の授業でしかこんな言葉は出てこないと思っていたが、日常生活で自分が使ったことに微笑んだ。
奈緒は私の笑顔に安心したようだ。残念ながらこの笑顔は望のためのものだ、少なくともお前にしたものでない
「無理しないでね」
今度は奈緒のために笑顔を作った。
教壇から一番遠い扉から教室を出ると化粧室に直行して化粧を直した。化粧を直すと、髪を束ねるシュシュを鏡に映した。数歩鏡から遠のいて、お尻が鏡に映るようにした。あんなに嫌だった自分のお尻が今日は目映く見える。違う、お尻が目映く見えていいるのはあの魔物だ。あの魔物が好きなものを、無理矢理自分が観測(見ているつもり)しているだけだ。呼吸を整えた
「有美の言う通りだ、小夜の轍は踏まない」
私は精一杯の笑顔を鏡に映した
「名探偵ビオラの実力を識るがいい」
校舎から出て、図書室のあるD号館に向かった。もう10月か、すっかり秋だ。東京に出てきて半年以上、今年の冬には強烈な赤城おろしから解放されるのかな?望ももしかしたら同郷?でも上州言葉とは違う気もする。
エレベータの同乗者が留年しそうだと嘆いていた。愛美は試験には来ていたみたいだけれど、後期の授業は出ていない。きっと愛美は学校に来ない理由が欲しくて望を利用したのだろう。
愛美のノートを見て確信した。望の手帳と真逆だ。愛美は、勉強しなくても高校までは成績が良かったに違いない。人間の作ったものにはめっぽう強いが、自然に起こることには対応性がない。それは、模擬試験でいくらいい点数を取っても学んだことを社会に活かせないのと似ている。
彼女も卒業より入学を重視する人間なんだろう。話が合うはずがない。見識のある人ならば大学入学は高校までの実力しか測れないことはわかっている。
でもそれは世間一般ではどうでもいい話だ、学校は人を見る指標に過ぎなし、学校で学ぶ内容なんて興味がない。大抵の人は高校の数学で習う虚数などは社会では使わないし、どうして、そんなことを学ぶ必要があるかとは考えない。中学校の給食のように出された食事をそのまま、今日は美味しくないねと言いながら食べているのと同じに感じる。
「でもね、愛美。この学校ではその”どうして”が必要なんだよ。いやらしい歌詞の歌を恥ずかしげ無くメロディーに合わせて歌っているようなものだよ。愛美は進級できない、真摯に事実に目を向けず逃げていても、いつかは負債(ツケ)を支払うことになるんだよ」
図書館に入るとマクスウエルの魔物に対する文献を探した。物理学は19世紀までにほぼ完成状態にあった。高校までに習う物理は古典物理学である。なかでも19世紀のマクスウエル博士の電磁理論は人類に極めて有用な功績を残された。20世紀に革命が起こる量子論の先駆けとして、科学を都合の良い神話の世界から解き放した大功労者である。
私が現時点で知っているのは、このマクスウエルの魔物が量子力学が抱えている”観測”という概念を別の角度から問題提起している程度の知識しか無い。
量子力学の場合、二重スリット実験というのが最も有名だ。電子はその過程を観測しないと波動として振る舞い、観測を行うと粒子として振る舞うのだ。望の手帳にはこの件について”物理的なエネルギー付加が生じるため粒子化する”と追記があった。
マクスウエルの魔物は特殊能力を持っていて、速度の速い分子と速度の遅い分子を分けることができるというものだ。もしそんなことが可能ならば、速度の速い分子だけを集めれば温度の高い条件を作り出すことができる。これは、分けるだけでエネルギーが得られるという状態を作るということを示していて、熱力学第二法則と矛盾する。この魔物こと超人が存在すれば人類が抱えているエネルギー問題は解決できる道筋ができる。
望の考察によると分子は速度がそれぞれ違い、全体的な量が測定できて、それを分子数で割って計算に便利な数字を仮に出していると言う発想のようだ。
これは熱力学の第2法則で登場するエントロピーという状態関数、すなわち微分値で示されることであって、個々の分子に名札と速度を付けることが意味の無いことだということを文学的に示したもので、2人の筆談の比喩に隠れた会話の内容の筈である。奈緒には2人の会話が理解できなかった
「お~い、ポニーテール独りか?」
突然声を掛けられた。有美だ。声を最大限に絞った有美が言う
「やはりマクスウエルの魔物を調べに来たのか。望が惚れるだけはある」
「先程は、お二人でお話ししているところにすいません」
「堅苦しいことは言うな。望が言うように私が怖いか?」
「はい」
私は笑顔ではっきり答えた
「もう私たちは契りを交わした友達同士だぞ、同性の友達は高校以来だ。大学に来て3人目の友達だ。ここでは、変換無しで会話ができる。菫もずっと人に気を遣って生きてきたんだろう」
有美の言うことは的を射ている
「望に”私の何がわかるの”って怒っちゃった」
「安心しろ、私も望に同じこと言った」
それも望が言っていた
「なんで、望は分かるんですかね」
「渉が言ってたけど、中学の時の友達の影響が大きいみたいだ、さっき菫のことを3人目の人と言っていたから、きっと最初の人だ」
紫だろう。迷ったが紫のことはまだ有美には言わないことにした
「あれ・・・、それ望の手帳だな。お前達、手帳を共有する程仲良くなったのか。あいつ手が早いな」
「電磁誘導のところ、有美さんの字でしたよね」
「望は副題はつけないが、電磁誘導だってよく分かったな」
「高校2年までは理科2科目の大学を志望していましたから、少しは物理も勉強しているんですよ。化学科では相対性理論系はやらないんですけど、化学科と言っても実際は物理科化学班みたいな感じですから、物理の理解を求められるのですよ、大学に入ってから物理も少々勉強しています」
「電磁誘導が分かっていて、少々もないだろう。その手帳にマクスウエルの魔物の頁があったら、他は見ないからそこだけ見せてくれ」
有美は、勝手に前の頁を読んだことを恥じた。私は共同作業の頁を見せた
「なるほど、望もやはり量と不揃いか、この綺麗な字は菫の字か、それにしても、化学屋にしておくのは惜しいな菫も望も。
ここじゃ爪を隠す必要は無い。菫が変な喋り方をするのも、人と話すのが面倒なんだろう」
「大体合っていますが、私、実は男性恐怖症だったんです」
有美は笑って言った
「望も1番目の人に出会うまでは女性恐怖症だって言ってたよ。
・・・本当かね。菫は浮気でもされたか?」
「まあ、そんなところです」
「その話は、望に聞いてもらえ」
それは望には言えないよ
「望は一緒じゃないのか?」
「語学の授業で奈緒が隣に座ってきたので、私だけ図書室に逃げてきちゃいました」
「お前も嫌いか、あのおっぱい女」
「さっき頭にくること言われたので、胸を指で突いてやりました」
「なんで頭に来たかは望に話してやれ。愚痴は私に言っても逆効果だ」
「望は、前から私のこと話していたんですか?」
「残念だが、望はあのショートカットのことしか話していない。あいつ高校の時浮気されたから、好きな奴がいるとそれ以外は見向きもしない。みくりの話もあの左翼女の一件以前はされたことない」
左翼女とは愛美のことだろう
「望は、みくりさんの話をしていました」
「大丈夫だ、みくりは紹介しない。お前の大きいケツで敷いてやれ。望はお前のケツ見て欲情する変態だ。あいつは自分がされて嫌なことは絶対しない。分かっているはずだ、生理的に嫌じゃなければこんな好条件はもう来ないぞ」
何が大丈夫なのだろう?名探偵ビオラはこの才媛に勝負を挑むことにした。
<つづく>
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