『ある日のある街のある出会い』

@tudaumetarou

医者と浮浪者と小柄な青年

 見渡す限りが宮廷文化の建築物。どこへ行っても耳に入るのは心地よい音楽。そこは音楽と美術の最先端の街。そんな街で雨が降った。楽器を抱えた音楽家たちや写生のために外に出ていた画家たちはすぐに雨粒から楽器や絵を守るべく、室内へ逃げ帰った。

「いかん…いかん」

 小柄な青年が屋根のある場所を探してあたりを見まわした。すぐに青年は近くの掘っ立て小屋に駆け込んだ。

「やあ。こんばんは」

 誰もいないと思っていたが、先客がいた。白いひげの痩せた老人が積まれた材木の上に座っている。

「こんばんは。雨宿りですか?」

「君もだろう?」

 青年は床にあぐらをかいて座った。

「『あいつら』のせいだ…『あいつら』のせいだ…」

 声が聞こえた。高い声だが男の声だ。

「『あいつら』のせいだ!」

 呟いていた声が怒鳴り声に代わるのと同時に、部屋の真ん中で男が起き上がった。声の主だ。男は毛布代わりにしていた汚い布を体から剥ぎ取り、毛布代わりの布より汚れた服を見せた。馬小屋で使う雑巾で作ったかのような服だ。おそらく浮浪者だろう。この街には浮浪者収容所があり、そこでは三食のパンが出るが、それにも関わらず、なぜかこの浮浪者はこのあばら小屋で寝ている。老人は言った。

「君。落ち着きたまえ」

 浮浪者は荒々しい声で言った。

「なんだと!?ジジイ」

 かなり興奮している様子だ。

「酔っているのかね?」

 浮浪者はますます声を荒げた。

「酔っている?酔っているだと!?この俺がアルコールを口にしたというのか?この 俺があんな毒を口にしたと?」

 老人は冷静な態度で興奮する浮浪者をなだめた。

「君が『どの俺』か知らないが…落ち着きたまえ。これでも食べなさい」

 老人は持っていた紙袋からチーズとパンを出した。

「いいのか!?」

 浮浪者は慌てて立ち上がり、何度か転んで老人の元に辿り着いた。そしてバクバクとほおばる。浮浪者はすぐに振り返り、今度は青年の方を見た。

「ここは俺の寝床だ。何か持ってないか?」

 食べ物を乞うているようだ。青年は愛想笑いを浮かべた。

「今はこんなものしか…」

 青年はポケットからチョコレートを取り出した。すると浮浪者は驚くほど喜んだ。

「チョコレートか!?」

 老人がいる方から青年がいる方に走り、チョコレートをひったくるように取った。そしてさっき以上に夢中で頬張る。青年と老人は浮浪者が無我夢中で食べ物を口に詰め込む様子を無言で眺めた。食べ終わると浮浪者は青年と老人の顔を交互に見ながら、小屋の中を歩いた。

「勘違いしないでくれよ。俺は物乞いじゃない。画家だ」

 そしてさっき寝ていた場所に座った。

「画家を目指しているんですか?」

 青年は聞いた。

「いや、俺はすでに画家だよ。大芸術家だ。そのうちヨーロッパ中が俺を認めるぜ」

 浮浪者は横にあるボロボロの包みから数枚の絵を取り出した。青年は近づいて、絵をじっくりと見た。絵をかじっていた青年には浮浪者の絵について、いくらかわかるものがあった。建築画はかなり上手いこと、そして人物画は平凡どころか下手だということなどだ。老人は遠くから二人のやり取りを眺めた。老人は絵より二人の人間模様に関心があった。

「いい絵ですね…。ところで…歳はおいくつなんですか?」

「俺か?24だよ」

 青年は驚いた。年上だと思っていたのに自分の方が一回りも上だったからだ。この浮浪者は栄養不足で頬がこけていることもあるようだが、元々貧相なようだ。

「僕は…35です」

 老人が言った。

「私の助手とほとんど同じだね。ちなみに私は57だよ」

「そうなんですか。お仕事は何を…」

「医者だよ」

 知識人らしい外見通り、老人は医者だった。青年は感心した。

「お医者さんでしたか…すごいですね…」

 青年の言葉を遮り、浮浪者が怒鳴った。

「まさか爺さん、『あいつら』の仲間か?」

「私は無神論者だよ」

 老人は浮浪者が繰り返す「あいつら」が何かをすぐに理解した。もっとも老人は「あいつら」に属する人間だったが、争いごとを避けるために器用にはぐらかしたのだ。老人は青年に言った。

「君の仕事は?」

「私は普段、論文を書いております」

「私も論文は何百本と書いておる。なんなら本も出しとるよ。君は学生さんかね?」

 青年は学生ではなかった。だが自分の身の上をはっきりとは答えらない事情があった。

「経済学の…マルクス主義の…」

「ほお。経済学を志しておるのか」

 嘘をつきたくなかった青年は話を逸らした。

「学校では神学を学んで…ところで本を出してらっしゃるんですか?」

「ああ、そうだとも」

 空気がだいぶ和んだが、浮浪者は機嫌を損ねたままだ。

「神学校や医大に通えるやつにはわからないさ。才はあるのに金や地位のせい、『あいつらの』のせいで学校を二度も落とされる俺の気持ちなんて」

青年も遅れて「あいつら」が何を指しているのかを理解した。医者である老人が浮浪者に聞いた。

「さっき寝ていたが夢は見たかな?」

「夢?それがどうした?」

「夢は人間の『無意識』のプロセスから生ずる。つまり、夢を分析すれば本人の精神状態がわかるんだ」

「そんな話信じるかよ。ヤブ医者め」

「興味深いですね」

青年は空気が悪くならないように相槌を打った。

「葉巻を吸ってもいいかね?君らはどうだい?」

「ありがとうございます」

 青年は葉巻を受け取った。

「そんな下劣なものをよく吸えるぜ。アルコールやニコチンは毒だ。人間の理性を蝕む猛毒だ。大芸術家の俺の理性はそんなものを受け付けない」

浮浪者は酒も飲まなく、葉巻や煙草も吸わないようだ。あまりに外見や様子とかけ離れている。医者の老人は言った。

「浮浪者くん。君はどうして国立浮浪者収容所に行かないのかね?」

「浮浪者じゃない!それに数日前まではいたんだ。でも追い出された」

浮浪者は浮浪者収容所にいたことがありながら、自分を浮浪者だとは認めない。

「どうして?」

「トラブルだよ。ハニッシュって野郎と喧嘩したんだ」

「どうしてだね?」

「俺が絵を描いて、あいつが絵を売る。以前はそれで成り立っていた。だが、あいつが勘定をごまかしやがった。それでも裁判所は動かない…」

溜めていたものを吐き出すかのように浮浪者は愚痴を言った。

「他に頼れる友達はいないのかね?」

「地元の親友でクビツェクって奴がいたが、あいつだけ音楽学校に受かって今頃は…」

老人は驚いた。

「もしかしてアウグスト・クビツェクか!?マリボルの指揮者の!?」

浮浪者はますます苦い表情をした。

「知ってやがるのか…凡人のあいつがマリボルで指揮を…才のあるこの俺がこの様か」

 浮浪者は親友の大成を喜ぶどころか妬み、友を切ったのだった。追い打ちをかけるように老人は言った。

「私は心の医者…精神科医だ。その私が言う。君は芸術家に向いていないよ」

「なんだと!?ヤブ医者に芸術の何がわかる?」

 老人は学会で説明するような要領で話した。浮浪者は科学者の知性に気圧されたのか、静かに話を聞いていた。青年も老人の話に興味を持った。

「わかるとも芸術には心得がある。芸術は人間の無意識から湧き出る表現の一形態だ。絵画や詩の中には、創作者自身が自覚していない感情や欲望が含まれているんだよ。芸術作品は精神分析の手段だ。作品の分析で作者の心の奥深くに潜む情熱や欲望が明らかになる」

「俺の絵で俺の心が読めるってのか?」

 浮浪者は盾にするように絵を取り出して掲げ、老人に見せた。老人はじっくりと絵を見た。絵だけでなく、浮浪者の顔や手のあたりを見た。そして頷いた。

「うむ。やはり君は画家には向いていない」

「どうして…」

「君はその手のタコやさっきの話から推測するに絵描きになってからかなりの時間が経つな…」

「ああ…経つよ」

「建物の絵つまり建築画はかなり上手い。だが人物画は下手。君は世界を見ているつもりで人のことはまるで見えていない」

 浮浪者は悔しそうに下を向いた。

「だったら俺は何に向いているんだ?」

 先ほどからの浮浪者の態度が頭に来ていたのか、医者は嘲笑うように言った。

「さあ、人が見えずに世界を見ているなんて政治屋がぴったりじゃないか。まあ、君の嫌いな『あいつら』の分野だがね」

 浮浪者は怒らなかったが、不貞腐れたのか、ゴロンと横になった。青年は浮浪者の性格の大体を理解した。そして不思議に思った。浮浪者は誇大妄想狂で自尊心が強く攻撃的な人物であることは間違いない。だが、話を聞いていて不快感がない。引き込まれるような情熱を感じるのだ。青年は非合法な政治活動をしていて、社会派論文を書いていた。異彩を放つ自称芸術家と上流階級の代名詞である医者と政治について語り合うまたとない機会だ。青年は切り出した。

「最近の政治についてお二人はどう思いますか?」

老人が言った。

「政治か…個人的な意見だがヨーロッパ情勢は荒れている。オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアとの対立が強くなれば、戦争勃発も十分考えられる」

「心のお医者さんとしての見解だと…?」

「うむ。原始社会において父親的な権威が支配的で、この父親的な権威が個々人の欲望を制約する。それで道徳規範を生み出すんだ。つまり、人々が社会的規範を守るために無意識に父親的な権威に服従する。それに従うことが社会的結束を維持する手段となる。要するに秩序には強い支配者とその支配者が強くいるための社会体系が必要だね」

 浮浪者が起き上がった。そして首をグラングランと揺らして言った。

「その通りだ!民衆は怠惰な豚だ!強い指導者が国を引っ張っていかないと…」

「私は別にそこまでは…」

 青年は浮浪者のことがますますわからなくなった。浮世離れした性格かと思ったが、社会正義的な信念を持っている。そんな様子だ。

「君はどうなんだね…?」

 青年は息をひそめなければならない立場だったが、己の信念を語る機会が欲しかった。それがまさに今だ。

「正直、資本主義は崖っぷちです。私はマルクス主義者です。労働者階級のために社会的平等が必要かと。社会主義は正義を追求する手段だと信じております」

浮浪者が賛同した。

「そうだ。そうだ。その通りだ!資本主義のせいで『あいつら』が有利な世の中になっている。汚れた血を排除して、優秀な民族の純粋な血の国を作らないと…」

 浮浪者は政治家のようにその後、長々としゃべった。偏狭な価値観や正義感を隠すことなくさらけ出した。老人は心の中で浮浪者を軽蔑した。青年は共感しきれなくても己と通ずる部分があることを感じた。その後、老人は重症な精神疾患者を診断する要領で話を聞き、青年は頭の中のメモに浮浪者の演説を書き留めた。

 浮浪者の長い演説が終わった頃には激しかった雨が小雨になっていた。

「そろそろ行こうか…楽しかったよ。最後に握手でもどうかな?」

「こちらこそ、お会いできてよかったです」

 小柄な青年と白髭の老人は握手を交わした。

「改めて…ジークムント・フロイトだ。精神科医をやっている」

「ヨシフ・スターリンと申します。政治活動をやっています」

 浮浪者が立ち上がった。

「俺もそろそろ行くかな」

「君!あてはあるのかい?それに握手くらいしていかないか?」

 浮浪者は目を合わすこともなく、ドアの方に向かって歩いた。

「ミュンヘンにでも行くよ。握手は結構。じゃあな」

 一番年下である浮浪者の態度は最後まで変わらなかった。青年は呼び止めた。

「すみません。お名前だけでも」

浮浪者がドアの前で振り返った。

「俺の名前?アドルフだ。アドルフ・ヒトラー」

 時は1913年。ウィーンの空が晴れた。歴史に名を残した医師と美大落ちが半径二キロ圏内の場所で暮らしていたこと、そして後のソ連の首相がその地を訪れたことはあまり知られていない。


※諸説あり

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