第5話 入院

 広司は、病院へ運ばれて医師の診察を受けた。骨は折れていないようだが、明日もう一度、精密検査をすると言い渡された。右足は、時間と共に腫れが酷くなり、痛みは徐々に和らいできている。

 診察を終えて出て来ると、島村が待っていた。彼は、改めて島村の無事を喜んで、口元がほころんだ。

「怖い思いをさせて、すいませんでした」

と言って、深々と頭を下げた。


「いや、何でもなかったのだから」

 と言って、微笑んだ。島村は、松葉杖の彼を車椅子に移して、病室へ運んだ。それから、島村は迎えの人と共に会社へ戻った。



 広司は、母に知らせる事を考えると暗くなった。母は仕事に出ていて、まだ家に帰っていない。勤務先へ電話を掛ける事も出来たが、明日にも退院する事だし、母が家に戻ってから連絡しようと考えた。それは、母の悲しみを少しでも短くしたかったからだ。母にしてみれば、フリーターの存在が不安の種であるに違いなかった。



 広司は、少し眠りたかった。眠りの中で全てを忘れ去りたかった。彼が寝ようとすると、見慣れた顔が開け放たれたドアから覗いた。パートの小母さんが、見舞いに来たらしい。小母さんは、同室の人達に会釈をしながら病室へ入り、彼のベッドを探している。彼は、買い物袋を下げた小母さんに声を掛けた。

「神田さん」

と呼ぶと、小母さんはこちらを振り向き、近づいて来た。


「大変でしたね。これ、食べて下さい」

 と言いながら、スーパーで買ってきたばかりの果物を手渡された。彼はぺこっと頭を下げて、照れながら受け取った。まさか、小母さんが見舞いに来るとは思ってもいなかった。彼は、無防備に足を投げ出している。


「かなり、腫れていますね」

 と言って、心配そうにまじまじと見ていた。


「骨折はしていないと聞きましたが、痛みはどうですか」


「外傷はないですが、腫れのためか少し痛みます、もう一度精密検査して異常がなければ、明日にも退院できるようです」


「でも、大事に至らず良かったですね」


「はい。僕の事は兎に角、バスの下でマフラーを交換していた島村さんが無事だった事が幸いでした」


「それで、あの狭い所で無理をして止めようとしたのですか」


「キーは抜けたのですが、止まらなかったですね」


「私も気付くのが遅かったですね。普段から、私がバスの中で仕事をしている時でも、何も言わずにサービスの人がバスを移動するので、異変に気付くのが遅れました。気付いたのは、バリバリという雨樋の壊れる音を聞いてからです。それから、天野さんがバスの外で倒れているのを見て、私は何をしなければならないのか、一瞬考えてしまいました。でも、バスが進み続けている事と、前に事務所があるという事を考えると、バスを止めるしかないと思い、サイドブレーキを引いて、ギアをニュートラルにしたんです」


「あのバスは、誰が移動したのですか」

 と、彼の口から突いて出た。未だに、誰があのギアを入れたまま、サイドブレーキも引かずに止めたか疑問だった。


「あれは、課長です。最初に私が、泥はねするといけないので、バスを移動しようとしたんです。でも、エンジンがまるで掛からないので、学生さんに聞いたんです。学生さんは、バッテリーボタンとチョークボタンを動かしてから、キーを回すのだと言って、バスを移動していたんです。のろのろと慎重に動かしていました。

 それを見かねてか、課長が飛んで来て替わったんです。大型免許を持った課長からすると、危なっかしく見えたのでしょうね。『頭ばかり良くても駄目だ』と言いながら、バスに乗り込み颯爽と運転して、柱すれすれに止めましたね」


「課長ですか」


「天野さんは、偉いですよ。我が身を犠牲にしても、責任を取ろうとしたのですから。ではこれで失礼します。お大事に」


「わざわざ、ありがとうございました」

 と、彼はベッドの上から礼を言った。



 その後、彼は眠りにつき二時間が経過した。毎日毎日あきもせず、同じ時間になるとお腹が空くものだと思った。彼は病院の夕食前に、母に電話を掛けようと、足の痛みがまだあるので、松葉杖を使わずに車椅子で電話のある所まで行くことにした。

 電話の向こうでは、母がしっかりした口調で彼を励まし、父と二人で病院へ行くと言って、電話を切った。

 次の日、診察を受けた際、足の腫れが引かないという事から、入院を続けるように医師から言い渡された。今度は、直ぐに母に電話を掛け、その事を告げた。それから、夜遅くになり、麻美には電話をせずに、水原の携帯に電話した。

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