第4話 事故
それから、何日かして、パートの小母さんが入って来た。小母さんが来てから、広司の仕事が二つ増えた。一つ目は、車検車の下回りをスチームガンで洗う仕事だ。二つ目は、車検検査員の作成した車検書類を持って陸運局へ行き、車検手続きをして来る仕事だった。これが、広司の午前中の仕事となった。
今日は、車検書類の作成が遅れたため、高速を使っても午前中の締め切り時間に間に合わなかった。それで、広司はいつもの時間遅れの昼食と違って、持参の弁当を12時に食べられる喜びを味わった。その後、車検の順番を待った。いつもなら、車検を終えて会社に着いてから、遅い昼食を取り、休むまもなく仕事をしていた。
広司は会社へ戻って来て、車検手続きを済ませた車検証を車検検査員に渡した。それから、洗車場へ向かった。先程、洗車場で納車準備を待っていた大型バスは、移動されていた。この洗車場は、これから車検の整備をする車検車の下回りを洗うのが優先されていたため、車検の整備が終わって、納車準備を待つ車の手洗いは後回しとなる。車検車の下回りを洗うのは、スチームガンを使うため、回り一面に泥はねがする。そのため、バスは最終の拭き取りを残して移動されていた。
洗車場では、夏休みを利用してアルバイトに来ている学生がスチームガンを使っていた。それを、広司は横目で見て、午後になってもまだ納車準備をしている小母さんの方へ歩いて行った。普段は事務所前の広い駐車場いっぱいに所狭しと、置かれている新車や中古車の展示を見に来た客の車があるが、今日はその客の車もなく、大型バスがポッンと柱ぎりぎりに置かれていた。
広司は、小母さんを大型バスの中に見て、バスの下にサービスの島村を見た。小母さんは、バスの外回りの掃除を終えて、バスの中で窓ガラスを拭いている。島村はバスの下でマフラー交換をしている。
広司は、バスの中へ入るため、客の乗降口のドアの方へ近付いて行った。だが、ドアは閉じていた。小母さんは客の乗降口の開け方が分からず、運転席から入ったのだろうと思いながら、広司は運転席の方へ回って行った。バスの中に入る方法には二通りあるが、度々出入りするには運転席を乗り越えてでは厄介だと思い、広司は客の乗降口を開ける事にした。
バスの前を回り、客の乗降口を開けるスイッチのある運転席に、広司は来た。運転席のドアは開け放たれている。小母さんが、ここから入ったと思った。いつものように、運転台の右端を見た。客の乗降口を開けるには、タクシーなら運転席の右横にレバーがあるが、バスなら運転台の右端に小さなスイッチがあるはずだった。だが、見当たらない。もし、広司が、バスの後ろを回っていたならこんな事にはならなかっただろう。だが、運命は空しく広司の手をエンジンキーへ伸ばさせていた。
広司の頭には、エンジンを掛けてから、スイッチを探せばいいという安易な考えしか浮かばなかった。運命の歯車は、事故へ事故へと向わせて行った。コンクリートの柱すれすれに止められている大型バスを意識しながら、大型免許を持った者が止めたのだろうと感心しながら、客の乗降口を開けるスイッチを目で探しながら、彼はキーに手を伸ばした。隙間といえばポリエステルの円筒形の雨樋ぐらいの幅しかない状態を横目に見て、いやな予感とは裏腹に、広司の手がキーへ伸びて行った。まるで、高いところから下を覗くと飛び込みたくなるようなものに似ていた。また、電車が来るのをホームで待っていると、白線に近付けば近付くほど電車に引き込まれそうになるような気持ちに似ていた。
キーを回す時は、車内でなければならないという原則を怠り、運転席のドア越しに回してしまった。もし、運転席に座っていたならば、ブレーキを踏んで事なきを得ていただろう。しかし、現実は違っていた。ギアが入っている上に、サイドブレーキが引かれていず、そこへ持ってきて大型バスの下には島村がいる。そして、小母さんは運転席から遠く離れた後方の座席で、後ろ向きになって窓拭きをしている。最悪の条件が整ってしまった。
バスは、空しく前進した。その時、広司の脳裏をかすめたのは、バスの下にいる島村の存在だった。この瞬間、キーを抜く事のみを思った。雨樋がバリバリという不気味な音をたてて飛び散った。キーは抜けたが、まだバスがゆっくり前進を続けている。キーを抜く際に、バスとコンクリートの間に右足の膝から下を挟んでしまった。広司は必死で足を抜こうとする際も、島村の無事のみを願った。
島村は無傷だった。ポンプからカチカチという音が聞こえ、エンジンを掛けたことを逸早く察知し、身の危険を感じた島村は、バスの下から飛び出たのだ。キャスター付きの寝台で頭から潜っていた島村は、バスの底にある何かを手で押して勢い良く出て来たのだった。
広司がやっとの事で、挟んだ右足を抜いてバスの横に倒れていると、島村が声を掛けてきた。
「大丈夫!」
と聞く島村の顔は、まだ恐怖に脅えていた。
「足を挟んでしまいました。すいません、島村さんこそ、大丈夫ですか」
と言う彼は、今まで島村の安否だけを気遣っていて、足の痛みを忘れていた。しかし、彼は島村の無事を確認して安心した。そして、せかれるままに立ち上がろうとした。その時、激痛が走った。
「痛い!」
と叫びつつ、彼は何度となく立ち上がろうと試みた。騒ぎを聞きつけて集まった人達に、無事を印象付けたかったからだ。だが、彼の右足はいう事が効かなかった。
「救急車を呼ぼう」
課長がフロント係に連絡するよう伝えた。
「俺は、大丈夫だから、安心してじっとしていた方がいい」
島村は、起き上がろうとするのを押さえた。島村は、普段から落ち着きがあり、物腰の柔らかい男だった。これがそんな男でなかったら、今頃パンチの一つや二つ、お見舞いされていた事だろう。仮に、『俺を殺す気か!』と言われて、いくら殴られても、広司は平気だっただろう。島村の無事が何よりだったからだ。
バスの前進は、しばらく続いた。このまま行くと、事務所へ衝突してしまう。バスの後部座席で仕事をしていた小母さんが、気付いて運転席に駆け出し、サイドブレーキを引いた。このバスは、ディーゼル車なので、キーを抜くだけでは止まらず、サイドブレーキが引かれて、初めて止まった。バスから小母さんが降り、広司の苦しむ様子を見て絶句していた。
何故、こんな事が起きたのか、皆が不思議がって尋ねた。
「どうしたという事だ」
「ギア、ギアが入っていたんです!」
広司は興奮気味に叫んだ。
「ギアを確かめずに外からエンジンを掛けるなんて」
と、サービスの人がいさめた。
そうこうしている間に、救急車が会社へ到着し、フロント係が現場へ救急車を誘導した。救急車から救急隊員二人が降りて来て、担架を下に置きハサミを取り出して、繋ぎのズボンを切り開いた。右足はあまり外傷が見当たらないが、内出血していた。
広司は、島村の無事を確かめてから、次第にバスの傷跡が気になり始めていた。会社の皆は、彼を気遣って、バスの事は言わないでいた。
「課長、すいませんでした」
と言って、課長の顔を見た。
「バスの事は、気にするな。今は、足の怪我を治す事だけを考えろ」
広司は、課長の引きつった表情とは別に、不安が取り除かれた気持ちだった。
「天野君、後のことは課長に任せて」
と、島村がいたわりの言葉をかけた。
「島村、一緒に病院について行ってやれ」
と、課長が声を掛けた。
「島村が、一番いい」
と、 サービスの皆も言って送り出した。
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