第3話 車の異常

 その瞬間、何処からともなく聞こえてきた言葉に驚いて、広司の足はブレーキを踏んでいた。それは、『人生もフラクタル』という言葉だった。まるで、見知らぬ客の車に乗っていて、鼠取り防止装置が作動し、『電波がキャッチされました』と音声で知らされ、驚いてブレーキを踏んでしまった時のようだった。


 後方に人も車もいないはずが、バックミラーに老婆の顔が映った。それは、疲れきった広司を悲しげな顔で見詰め、馬鹿げた自殺志願を戒めるように見えた。広司は、居眠りの時の小画面を思い出し、不気味な感じに恐怖を覚えると同時に、死に対しても恐れをなしていた。


 彼は、ブレーキを軽く踏み続けた。かなり出ていたスピードは、次第に減速し50キロが保たれるまでになっていた。老婆の強張った表情も、和らぎ始めた。彼は、老婆の気持ちを汲み取り、自殺志願を恥じた。すると、老婆は微笑みながら消えて行った。


 彼は何事もなかったかのように、会社に着き、先程までこの車を修理していたサービスの人に、車の異常を伝えた。

「ああ、それはエンジンの回転数を調整しなければならないな」

 と言って、車の修理を始めた。 



 広司が故障には気付かず、ブレーキも踏まずにエンジンを掛け、アクセルを思い切り踏んでいたら、急発進していただろう。彼が自殺を考える前に、ブレーキとアクセルの踏み間違えか、自殺志願として処理されていたかもしれない。急発進のため、国道を通る車のサイドに衝突してお互いの車は大破し、見知らぬ人を道ずれに今頃あの世へ旅立っていたかもしれない。


 運命は彼を死なせなかった。彼はまだ生きて、人生を考え続けなければならない。確かに、まだ逃げるわけにはいかなかった。まだ、彼自身の存在理由も分からないまま生き続けるのだから、今度はどう生きるか理由付けしなければならない作業と『人生もフラクタル』という言葉が、彼の脳裏に刻まれた。 



 広司は、無性に水原と話したくなり、彼の家へ行った。今回の広司の自殺志願は、本人にとっても意外だったようだ。知らず知らずのうちに悩み脱出を、解決から逃避へ流れていたとは広司自身、気付いていなかった。それを、引き戻してくれたのは、バックミラーに写った老婆の言葉だった。


 彼は、自殺志願の話を言い出さないまま、急発進の事などを水原に話した。広司は、複雑な笑いを浮かべながら話をしていた。

「無事で良かったなぁ。その時に、事故でも起していたら何を言われるか、分かったものじゃないから」

水原はその笑いを見ていながら、妙な考えが浮かばなかったかとは冗談にも聞けなかった。


「うん、異変に気付いて良かったよ」

 と言いながらも、複雑な思いを抱えていた。


「人間には、上には上があり下には下がある訳だから、上を見過ぎると落ち込み、下を見たら引きずり込まれるようになり、ますます立ち直れなくなる悪循環があると思うよ。でも、見方を変えれば、どんな人にでも自慢の種があるものさ。

 浮浪者にしても、段ボールと布団では大きな差があると思うよ。ましてや、一般車と高級車では大違いなのだろうね。それは、段ボールや一般車を持っている側からではなくて、布団や高級車を持っている側からすると大問題な訳だ。贅沢は、誰にでも出来ないけれど、比較の上なら誰にでも出来、見せびらかす事も出来る。要するに、この世の中は比較社会なんだと思う。でも、この比較社会に流されるか流されないかで、心がどれだけ穏やかでいられるか別れると思うなぁ」

 と言って、水原は広司の気持ちを和らげようとした。


「高級車で、むかつく事があった。俺の車がその高級車にぎりぎりに止まったんだ。俺もひやっとしたぐらいだから、相手もぶっかったんじゃないかと思ったらしい。それで、相手の中年男が出て来て確かめてから、ぶつかってもいないのに下がれという手の合図をするんだよ。俺の方からしたら、坂道でもあるまいし、ブレーキぐらいけちらずに早くから踏めと言いたかったね。あれは、ブレーキを踏まずにエンジンブレーキで止まろうとして、無理と知るや急ブレーキを踏んだんで、あんな事になったんだ。高級車に乗っている奴がする事ではないとむかついたよ。それに、追突したら後ろが悪くなるからなぁ」

 と、色々な事が起こるものだと広司は改めて思った。


「自慢する物を持っていればいるほど、防衛が大変かもしれない」

 水原は笑った。


 水原は、広司に生活のためや麻美のため働けと言っても納得できるものではない事を知っていた。彼は、広司の悩みの奥底を感じながらも、取り留めのない話を続けた。



 その後、水原は一週間の予定で、東京へ出張した。その折、広司の報告がてら、麻美と会って食事をした。麻美は、多くを語らない広司にあまり電話を掛けなくなっていた。それは、広司の気持ちがますます分からなくなるのを恐れての事だった。


「広司は、何か吹っ切れた感じがします」

 と言って、水原は麻美を安心させようとした。


「何かあったのですか」

 麻美は食い入るように、水原を見た。


 彼は、その目の奥に描き出されている姿が広司であることを今更のように思い知らされた。水原が丁寧な言葉を使うのは、広司の彼女である麻美と距離を置くためだった。それだけ、麻美は魅力的だった。

「気持ちの上でどん底まで落ちながら、辛うじて踏み止まったというところですね。落ちる所まで落ちたので、何かの足掛かりがつかめたようです。今直ぐという訳にはいかないでしょうが、広司は立ち直りますよ」

 麻美に微笑みかけた。


「すみません、私は広司さんに何も出来ないのに、水原さんには心配を掛けっぱなしで」

 と言って、麻美は水原の目を見詰めた。



 水原は、麻美の存在自体が広司をこの世に引き戻し、解決不可能な道にいる広司を救い出すだろうと思わずにはいられなかった。


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